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落花流水

 ひらひらと、風の形を描いて桜の花びらが散り落ちる。
 朧月夜が満開の桜を仄々とした薄桃色に浮かびあがらせている。甘い蜜の香が緩やかな風に流されてくる。
 桜の花色としっとりと漂う香りに陶然としながら、ふいに思い返す。
「社内レンアイは出来ない」なんてうっかり吐露してしまった、あの日のことを。

* * *

 わたしと維月さん、付き合い始めて一年が経つ。
 もう一年なんだと驚く反面、まだたったの一年なんだと不思議な心持にもなる。
 もともと、恋人同士という関係になる前から、わたしと維月さんは同じ会社の同じ課で働く上司と部下(部下、といってもわたしは多数いる派遣社員の一人にすぎないのだけど)という関係だった。
 だから会社内での“付き合い”は、わたしが派遣されてきてからの年数……つまり約三年ってことになる。その間に、一緒に飲みに行ったりするようなプライベートな付き合いもあるにはあった。
 けれどそれはあくまで上司と部下としての付き合いだったし、少なくともわたしはずっとそう思い込んでた。維月さんだって初めはそのつもりでいたからこそ、気軽に声をかけてくれたんだと思う。
 でも、ただの上司と部下という味気ない関係が微妙に変わってきているような気がしはじめたのは、……気付かされたのは、維月さんの醸し出す艶めいた雰囲気のせいだった。

 一年前のあの夜のことを思い出し、わたしはつい非難めいたことを維月さんに言ってしまった。
「あの日の維月さんはフェロモン香水でもつけてるのかって思うくらい、やたらに色っぽく感じて、……ああいう雰囲気をわざと作ってたんじゃないんですか?」
 あの日の維月さんは、いつもとどこか違ってた。「じゃんけんしよう」と挑まれた時からそれは感じていたのだけど。
 あの夜、わたしは維月さんの醸し出す甘い空気にすっかり酔わされて、不用意とも不用心とも言えることをうっかりと口走ってしまった。
「なんだか誘導されてるみたいで、ちょっと口惜しかったです」
 維月さんは「美鈴こそ」と、苦笑まじりに返してきた。
「美鈴こそ、こっちが困るくらいに無防備だった。まんまと罠にはめられたのは俺の方だ」
「罠なんて……そんなの仕掛けられるほど、わたし、維月さんみたいには器用じゃないです」
「意図して仕掛けられないところが美鈴の魅力だね。――まったく、敵いそうにないな」
「敵わないのはわたしの方ですから!」
 ムキになって言い返すわたしを宥めるように、維月さんはさり気ない仕草で手を伸ばし、わたしの頬に触れる。
 火照った頬に当てられた乾いた手の感触が心地よかった。
 維月さんは懐かしげに目を細め、話をあの夜のことに戻した。
「美鈴が、あんな風に気持ちを晒してくれたのは、あの日が初めてだったように思う。それまではもうちょっと、俺に対して距離を置いてた気がする。美鈴はもともとガードが堅かったから、それで安心していたとこもあるけどね」
「安心?」
「うん、そう。ガードを堅くしてるってことはつまり、俺を男として少しは意識してるんだろうと、それで……ほっとしてた」
「…………」
 わたしは目を瞬かせ、維月さんを見つめ返した。維月さんは静かに含み笑っている。
 維月さんの瞳の色は、濃く淹れたコーヒーのよう。大さじ一杯の砂糖を溶かしこんだように甘くなる時もあるし、ブランデーを注ぎこんだような熱を孕む時もある。ひどく苦い色を湛えている時もある。
 今、維月さんの瞳には、甘みと苦みが混在している。どちらかといえば甘みの方が強いかもしれない。
「迂闊に手を出せないと思わせる雰囲気が美鈴にはあった。ガードの堅さとはまた違う、自己防衛的な壁……いや、柵かな? そういう隔たりを持たせる柵が美鈴自身を囲んでた。だけど俺が差し出す手を邪険に払うような高慢さや冷淡さはなかった。簡単に流されもしないが拒みきることもしない。そういうニュートラルな姿勢でいてくれたから、安心して飲みに行こうと誘えた。美鈴はさりげなく隙を見せ、そうやって、距離を縮めようとするチャンスを俺から奪わないでいてくれた。まぁ、これは俺の希望的観測だったかもしれないけど?」
「…………」
 返す言葉が見つからなくて、落ち着かなげに目を泳がせ、肩を竦めた。
「そんな大層なものじゃないです」
 ぽつりと呟いた。
 だってわたし、そんなこと考えてる余裕なんてなかった。深く考えてすらいなかった。
 高倉主任って人の存在が心の中で日に日に大きくなってることすら、はっきりと自覚してなかったもの。ただ不思議で。気がつくと、目で追ってしまっていて。
 それだけだった。
 だから、人に「高倉主任に気があるの?」と問われてもすぐに否定してた。そんな風に見られたくなかった。そう見られるのを怖れていた。
 その怖れがなんであるのか。
 それを教えてくれたのも維月さんだった。そしてその怖れと向き合うよう、促してくれた。
 わたしはいつもそうだ。
 いつも受動的で、維月さんに頼りきりになっている。
 それを、改めて思い知らされた。

 けれども、結局のところ最初に想いを伝えたのは、わたしと維月さん、はたしてどちらが先だったのだろう……?
 はっきりとした言葉で伝えてくれたのは維月さんの方だ。「好き」と、まるで当たり前のようにさらりと言って、しかも行動で気持ちを示してくれちゃったりなんかして! わたしをひどく動揺させてくれた。
 維月さんは、何もかも計算尽くで動く打算的な人ではないけれど、無茶な冒険もしない人だ。悪戯をしかけてくることは多いけれど。
 それはともかくとして。
 あの日、維月さんが「好き」と言ってくれたのは、わたしの真意を察してくれてのことだったと思う。わたしの中途半端な言を受けて、ちょっと強引に(かなり強引だったような気もするけど)わたしの気持ちを引き出してくれた。
 だとしたら、ひどく中途半端で言い訳じみてはいたけれど、気持ちを告白したのはわたしの方が先だったのかもしれない。
「高倉主任」に真意を見抜いて欲しいとカマをかけたつもりはなかった。あれはあれで、うっかり吐露してしまった本音だったのだし……。
 それでもやっぱり、あんな告白のし方はなかっただろうと、今頃ながらに思う。
 やり直せたら、とまでは思わない。
 だけど、改めて伝えたい。あの時はそんな余裕がなくてできなかったから。
 あれから、一年が経った。
 時は移ろっていくけれど、維月さんを想う気持ちに変わりはない。それどころかますます深みにはまってるって思う。求める心を抑えられないくらいに。
 その想いを、素直な言葉で伝えたい。
 余裕のなさも、あの頃と変わりないのだけれど。

「夜桜を観に行こう」と誘いだしてくれた維月さんに、わたしは改めて謝意を述べ、「それから」と言葉を継いだ。
「わたし、維月さんがす……っ、つっ」
 ううっ、しまった。意気込みすぎて、噛んじゃったっ!
 好きですって、さらりと告げるはずだったのに。
 失敗した途端、恥ずかしさがどっと襲ってきて、頬が痛いくらいに熱くなった。
 維月さんは「ん?」と首を傾げ、わたしの様子を窺ってくる。「俺が?」と先を促してくる維月さんのその口調と表情には、明らかにからかいの色が混じってる。
 こんな時、察しのいい維月さんがちょっぴりにくらしくなる。
 わたしは挫けそうな気持ちを何とか持ち堪えさせて、維月さんを見つめ返した。一歩、足を踏み出して維月さんとの距離を縮めた。そして維月さんの腕を掴んだ。
「維月さん、あの……今夜、こうして一緒にいられて嬉しいです」
 維月さんは少し驚いたように瞠目した。けれどその瞳は、俄かに甘やかなものにかわっていく。
「わたし、維月さんが、好……っ、んっ」
 わたしが言い終えるのを待たず、維月さんはあの日のように……ううん、あの日よりももっと深いキスでわたしの唇を塞いだ。
 背に回された維月さんの腕が、わたしの臆しがちな気持ちをも押し、支えてくれてるようだった。
 ――深夜、零時。
 夜桜を観に集っていた人達も、ライトアップのための照明が消えたのを折に引きはじめていた。そのためもあって、幸い視界がきく範囲内に人の気配はなかった。
 まるで、わたしと維月さんだけが、桜色の世界に閉じ込められているような錯覚に陥る。それはひどく甘美な幻覚だ。眩暈がする。
「い、維月さ……っ」
 満開の桜がおぼろげな月光に照らされ、夜闇を薄桃色に染め上げているようだ。微かに吹く風が桜の花びらをさらさらと流している。
「…………ん、んっ」
 口づけの合間に息を継ぎ、それからもう一度、伝えなおした。
「す、き」
 喘ぐような声になってしまったけれど。
 維月さんは小さく笑って応えてくれた。嬉しがっているような照れているような、そんな目をしてわたしを見つめ、維月さんは鼻先を触れ合わせてきた。
「これだから美鈴には敵わない」
「敵わないなんて、そんなの維月さんの方こそで、それに……」
 維月さんのくすぐったげな微笑を睨めあげながら、わたしはちょっと困った顔をして見せた。
「甘すぎなんです」
 ――再び重ねてくる、そのキスも。

* 終 *

「落花流水」は、男に女を思う情があれば、女にもまた男を慕う情が生じる、といったような意味です。

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