――俺だけに。俺だけを。
彼女に対して抱く、子供っぽい独占欲と嫉妬心に、苦笑いがこぼれる。
当たり前の感情なのかもしれないが、ひどく、強い。胸が焼けそうなほどに。
辛うじて抑えこんでいる感情だが、我慢は長続きしない。長続きをさせようとする気がないのだから、我ながら始末に終えないと思う。
束縛は、彼女を怯えさせるだろう。彼女を戸惑わせ、泣かせてしまう。
それでも、吐露せずにはいられない。胸をひしめかせている想いを。
彼女が俺の腕の中から逃げ出さないことを願いながら。
* * *
昼の休憩時間、昼食を済ませた社員達は、だいたい好き勝手に行動している。
休憩時間だというにもかかわらず溜まった仕事と格闘しているヤツもいれば、デスクに突っ伏して一寝入りしているヤツもいる。真剣な顔をして新聞や雑誌を広げている子達もいるし、一つ処に固まって談笑しているグループもいる。
勤務中とは違う顔が、そこかしこで見られる時間帯だ。
食堂から職務を行なう部屋に戻ると、ついいつもの癖で、『木崎美鈴』の姿を探してしまう。
派遣社員で、俺より七つ年下の木崎さんは、会社においては俺の部下だ。
彼女は、社内ではさほど目立つ存在ではない。仕事ぶりは丁寧で実直、おおよその事はそつなくこなせる。主任の立場として木崎さんを評価するなら、「目立たないが、確実な仕事をする、真面目で無難な派遣社員」といったところだ。
だがその評価は、あくまでも主任という立場から見たものだ。――俺の目で見る彼女は、少し違う。いや、大いに違う。
その彼女は、先輩であり、かつ飲み仲間である派遣社員の浅田さんと一緒にいた。二人は椅子を向かい合わせて座り、レトロな遊びに興じていた。
「懐かしいことしてるね?」
俺が声をかけると、木崎さんは驚いたらしい。肩をびくりとあげて、振り返った。切りそろえられた前髪の下、そこにあるのは派遣社員の木崎さんの瞳ではなく、とまどいがちな美鈴の瞳だった。
応えたのは浅田さんだ。八重歯を見せて笑い、
「今ね、懐かしの昭和遊びの話題になってさぁ。や、あたしもそんな詳しくはないんだけど、これは得意だからってことで」
浅田さんは赤色の紐を両手の親指と小指にひっかけたまま、腕を上げた。
「それを木崎さんに伝授してるってわけ」
木崎さんと浅田さんが興じていたのは、あやとりだ。
「む、難しいです。全然憶えられなくて……」
木崎さんはわずかに頬を紅潮させ、慌てて俺から視線をはずした。
彼女は、社内ではなるべく俺と顔を合わせないようにしている。かといってあからさまに避けることはしない。懸命に、「いつもどおり」を装っている。
ぎこちない彼女の所作は微笑ましく、たまらなく可愛い。その思いが顔に出そうになって、慌てて引っ込めた。
俺はむろん、一線を敷いた態度で接している。彼女がそうしているように、「いつもどおり」かつ、「今までどおり」の「僕」でいる。
「秘密の関係」は、かれこれ三ヶ月以上続いている。浅田さんにもまだ明かしていない。社内での僕と木崎さんは、あくまで『上司』と『部下』だ。
「木崎さんは、あやとりしたことない? ていうか、もしかして初めて見るとか?」
俺が訊くと、木崎さんは浅田さんの手元を見つつ、「そんなことはないですけど」と応えた。
浅田さんは指を動かしながら俺を睨みつけ、
「あのね、高倉くん。人をいかにもオバチャン扱いしないでくれる? 四捨五入すれば同じ三十でしょ? ホレ、これとって」
と、相変わらずの強引さで言って、あやとりをこちらに差し出してきた。
「え、高倉主任、できるんですか?」
俺が親指と人差し指で赤い紐をつまむのを見て、木崎さんは驚いたように顔を上げた。
「うん、まぁね」
ひょいっと、紐をひっぱり交差して形を整え、『川』の形をつくった。
「高倉くんくらいだよ、あたしに対抗できるの」
今度は浅田さんが俺の手から紐を取る。その様子を、木崎さんは目を見開いて見つめている。
浅田さんの手に移った紐の形は、『橋』。そこからまた俺が取り、今度は『たすき』だ。
「わぁ……っ」
木崎さんは、どうなってんですかー、と、素直に驚きの声をあげる。
「浅田さんも高倉主任も、器用なんですね。わたし不器用なんで、ちっとも憶えられないんですけど」
「これくらいはすぐできるんじゃない? 僕も、すぐに憶えたから」
俺は紐を一旦はずし、伸ばした。
それから両手の親指と小指に紐を引っ掛けそこで一巻きさせた。同じ手の中指で紐をとり、その後親指と小指の紐をはずし、――
「ほら、ゴム」
手を近づけたり離したりして、紐を伸び縮みさせて見せた。
「わっ、ほんと」
木崎さんは、幼児が手品でも見せられたような喜色を顔に浮かべ、あやとりに見入っている。
「やってみる?」
紐をはずし、それを木崎さんに渡した。木崎さんはちょっとためらいつつも紐を親指と小指にひっかける。
「……あれ? ……ん、と、どうでしたっけ?」
それからすぐに小首を傾げ、甘えたような声音と瞳をこちらに向けてきた。
それは、布でも被せて隠してしまいたくなる、「美鈴」の顔だ。
横から、浅田さんが説明に入った。
「ほら、中指でこの紐をすくってひっかけて」
「こ、こう? あ、あれ、えー……っと……?」
仕事の手際はいい木崎さんだけど、どうやら手先は不器用らしい。
「えーっと……」と唸り、「ちょっと待ってください。紐が、絡まっちゃった」と焦り、結局、「もうわかんなくなっちゃったんですけどっ」と、早々に脱落した。
俺は含み笑いをしつつ、木崎さんの手から紐を取った。
「けっこう憶えてるもんだな。ずいぶん久しぶりにやったけど」
言いながら、紐を左手の指にかけていく。
「高倉主任、あやとりなんてどこで憶えたんですか?」
俺の指を目で追いながら、木崎さんが尋ねてきた。
「祖母からしこまれたんだよ。暇つぶしの相手にされてたっていうのが正しいかな。折り紙も教えてもらったしね」
「そうそう、高倉くんってさ、いろいろ折れるんだよね。船とか鳥とか亀とか蝶とか。箱も何種類か作ってよねぇ? 折り紙なんて、あたしは鶴と兜くらいしか作れないよ」
浅田さんが言うと、木崎さんはさらに驚き顔し、感心しきって、「すごいなぁ」と繰り返した。
「わたしなんて、鶴も……折れないかも。なんとなくこうだったかなぁって記憶はあるんだけど」
「木崎さんって指細いから器用なのかと思ってたけど、案外ぶきっちょだったんだねぇ」
「もう、かなりのぶきっちょですよ〜」
浅田さんが笑い、木崎さんも笑った。
こんな風に無防備な笑顔は、社内ではめったに見られない。木崎さんは平素、気を張ったような硬さがあり、愛想笑いこそすれ、相好をくずしきるということがない。
ところが、時折こうして、少女っぽい笑みや仕草を見せるのだ。いつもの木崎さんとは違う木崎さんが、現れる。
俺はため息をつき、それから腰をかがめて木崎さんの前に手を差し出した。
「はい、これ」
「……これ?」
「紐、引っ張ってみて」
「はい?」
言われるまま、木崎さんは紐をつまみ、そうっと引っ張った。もっと一気に引っ張ってと促すと、頷いて、ぐっと引っ張った。すると、
「わっ、わわっ」
木崎さんは思ったとおりの反応を示してくれた。
するっと抜けて外れた紐と俺とを見やっては、目をぱちくりさせている。
「ど、どうなってんですかっ、これっ?」
「どうなってるんでしょうね?」
俺が小さく笑うと、木崎さんの頬がぱっと赤くなった。膨らんでいた花の蕾がふわりと咲いたような初々しい表情が、まぶしい。
――マズいな。
だめだよと、言いそうになった。
そんな顔を、いきなり見せないでくれ、と。
「そろそろ休憩時間終わるね」
俺は半ば唐突に、木崎さんと浅田さんの側から離れた。
秘密を保つことなど、この状態ではできそうもない。恋慕が溢れて、顔に浮かび上がっているだろう。
我慢しきれるものではない。
俺はため息をついた後、胸のポケットに入っている携帯電話を取り出しつつ、去り際一度だけ、木崎さんの方に振り返った。
木崎さんは目を瞬かせながら、俺を見つめていた。戸惑いがちな色がそこにあり、俺が携帯電話をチラリと見せると、慌てて俯いた。
休憩時間終了、あと三分。
こういう時、メールは便利だ。
『タネを知りたかったから、今夜、うちに』
たったそれだけの文。強引な誘いをかけた。
そして数秒後、メールが返ってきた。
大急ぎで送信したらしいことが分かる一文。
『はい。お願いします』
生真面目な彼女らしい短い文に、微苦笑がこぼれでた。
こちらこそ、願いたいものだ。
君を独り占めさせてくれ、と。
* * *
紐を伸ばし、操り、形を作ってゆく。
不器用に指を動かす美鈴は、時折俺の顔を窺う。甘え、ねだる少女の表情で。
「あの、維月さん……?」
俺はおそらく眉をひそめていたのだろう。
美鈴の瞳が不安げに揺れている。それでいて、あやとりの続きをせがむ子供っぽい無邪気さも、その瞳にはある。上目遣いで俺を見、目を瞬かせる。
「続きは、――こう」
美鈴の指に巻きついている紐を抜き取った。と同時に、強引に抱き寄せ、角度をつけて激しく口づけた。
不器用で無防備で、無抵抗の美鈴。
白い指に、赤い紐を絡めていった。引っ張ればするりと解ける巻き方で。
美鈴の指を絡める、一時の束縛。
そうしておいてからすぐに美鈴自身をも、――解いてゆく。
* 終 *