夜、約束していた時間より少し遅れて、その人はやって来た。
午後八時。あたりはもうすっかり暗い。空には雲が多く、時折吹きつけてくる風は冷たかった。乾き、冷えた空気が頬を撫ぜ、体を縮こまらせる。
手がかじかんで力が入らない。ドアノブにかけている指先がすっかり冷えきっている。
だけど、寒さなど押し返すくらいの勢いで、わたしは急いでドアを開けた。
だって、早く顔を見たくて。声を聞きたくて。
そして、ドアを開けた直後、
「い……っ」
わたしは絶句して、硬直してしまった。
ドアの向こう側にいた人、高倉維月さんの姿があまりに衝撃的すぎて。
わたしは開口一番、驚きの声をあげた。
「なっ、なんて恰好してるんですか、維月さんっ!?」
わざわざ足を運んでくれた人にかける言葉じゃないだろう。それに、待ちわびていた人にかける言葉でもない。
だけど、しかたがないと思う!
だって維月さん、とんでもない恰好をしてくるんだもの。ラフな普段着でもなければ、いつも会社でみるシャツとスラックスというスタイルでもない。
わたしは目を見開き、唖然として維月さんを凝視している。
非難めいたわたしの声に、維月さんはちょっとだけたじろいだようだ。
「まいったな。……そこまで引かれるとは正直予想してなかった」
維月さんは気恥ずかしげな苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「引くとかじゃなくて……っ、や、むしろその逆っていうかですねっ! いえ、そのっ、ああもういいですから、中入ってくださいっ」
みっともないくらいに慌てふためき、うろたえまくっているわたしとは正反対に、少し困ったような顔はしつつも沈着さを失わない維月さんは、わたしの言葉に従い、ドアをくぐった。
部屋に入ってすぐ、わたしは身を竦ませて、維月さんと対峙していた。お互い佇立したまま、距離を縮められずにいた。腕を伸ばしても維月さんに触れることはできない。
それなのに息苦しくて、胸が詰まる。
部屋が急に狭まったように感じられた。
わたしが住んでいるのは、1Kの木造アパート。維月さんの居所である2DKのマンションに比べたら狭いには違いないけど、一間7.5帖はあるから、決して狭くはない。それに一応掃除はして、整理整頓したばかりだから散らかってもおらず、足の踏み場は十分にある。
なのにどうしてこんなに狭く感じるんだろう……?
維月さんがいるだけで、寒々しくすらあった部屋が、濃密な空間に変わる。部屋全体に維月さんの存在感が溢れて、それがわたしを包み込んでいるかのようだった。
とくに今夜の維月さんは、いつも以上にキケンな雰囲気をまとっている。維月さんの穏やかなようでいてさりげない押しの強さがある瞳と、微笑とともに切なくこぼれる吐息は、依存性のある媚薬のようだ。酩酊してしまいそうで、正視するのが怖いくらい。……っていっても結局は目を逸らしたままではいられず、甘やかな雰囲気に囚われてしまうのだけど。
「あの……維月さん」
わたしはいぶかしげに顔をしかめたまま、再び尋ねた。
「どうしてそんな恰好してるんですか?」
口調は知らずと不審そうなものになる。維月さんの恰好がいつになく「不審」なものなのだからだ。
「――ああ、これね……」
くすっと笑って、維月さんは細いネクタイをつまんで見せた。サテン生地で光沢のある黒いナロータイだ。
維月さんが着てる服は、別に奇抜な衣装ってわけではない。端的にいえば、「黒スーツ」だ。俗っぽく言うなら、「いかにもホストが着てそうな黒スーツ」。
体にぴったりフィットした細身のスーツだ。一つ釦の黒ジャケットに、ブルーグレイのシャツ、ちらりと見えたベルトのバックルはハート型をしていて、縁取りは銀だったけど中央は深紅で、目を引いた。
とにかく! 普段着でないことは確かだし、維月さんのこういった感じのスーツ姿は初めてだ。不審に思っても仕方がない。
それに、髪型もいつもとちょっと違う。スタイリング用のジェルかワックスで額の生え際から耳の上あたりを、持ち上げるように整えてある。少し濡れたような艶をだしながらもごく自然にセットして、ガチガチに固めてはいない。
それによくよく見てみれば、いつもはしない銀の指輪までしてる。左の人差し指にはめてるそれは、たぶんオニキスと思われる石を中央に埋め込ませた十字架の彫りのリングだ。ピアスは、さすがにピアスホールがないからしてないけれど、耳たぶの後ろに、絶対トワレをつけてきてる! だってムスク系の甘い香りがほのかに漂ってくるもの。いつもの維月さんとは、少し違った香りだ。
……ホスト……。ホストだよ、どうみても。ごく普通のサラリーマンには見えません!
維月さん自身、着なれない服に少々戸惑っているようだ。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めている。その仕草がまた様になっているというか、絵になるというか……
これはもう、瞼の裏に焼きつけておくだけでは足りない。
「さすがに照れるね。こういう服は普段着ないし、指輪や香水もつけないし……って、美鈴? ケータイ構えて何してるのかな?」
「えっ?」
わたしの驚き声と、シャッターを切るパシャッという音が重なった。
わたしは我ながら感心する素早さでケータイ電話を手に取り、カメラモードに切り替え、そしてちゃっかり撮影に成功した。
ケータイのカメラで撮った維月さんのホスト姿を確認し、その画像は即座に保存した。
「だって、写真に撮っておかなきゃもったいないじゃないですか! 刺激が強すぎて目の毒と言えなくもないですけど、やっぱり目の保養ですし! あ、大丈夫です。誰にも送ったり見せたりしませんから。ちゃんと鍵つきのフォルダに保存したんで、わたし一人で鑑賞します!」
わたしは今しがた撮った維月さんの写真をもう一度開いて、確認した。
うん、とっさだったけど、いい感じに撮れた!
脱いだジャケットを無造作に腕にかけ、少し首を伸ばしてネクタイを緩めている。その構図には男性特有ともいえる色気があって、う〜ん、なんというのか、実に……セクシーだ。
維月さんのホスト姿に驚きはしたけれど、あまりの似あいっぷりに、写真を撮らずにはいられなかった。ああでも、全身像を撮れなかったのはちょっと惜しいかな。
口元を緩ませているわたしを見、維月さんは「まぁ、いいけど」と苦笑した。
「美鈴が喜んでくれたなら、着てきた甲斐があったってものだし」
そして、維月さんは珍しく複雑そうな顔をして、小さくため息をついた。
少し動悸が治まってきたところで、改めて維月さんに尋ねた。
「ところで、どうしてまたそんな恰好してきたんですか?」
「ああ、うん、これね……。実は妹が着ていけって押しつけてきたんだ」
「え……、妹さん?」
わたしは目をぱちくりとさせ、首を傾げた。
維月さんに、年の離れた妹さんがいるのは知ってる。会ったことはないけれど、ずいぶんと仲がいいらしい。そしてその妹さんは、わたしのことを「兄の彼女」として、(維月さん曰くだけど)わりと好意的に認めてくれているらしいのだ。
「妹さんが、どうして……?」
「まぁ、気まぐれな思いつきなんだろうけど……。今日はホワイトデーだろう? だからチョコのお返しに、これ着て彼女に奉仕して来いって」
「ほっ、奉仕っ!?」
わたしは今夜何度目かの頓狂な声をあげ、またしても硬直してしまった。
維月さんはわたしをソファーベッドに座らせると自分はキッチンに立ち、お茶の用意をしてくれている。買ってきてくれたケーキは、以前雑誌で見て、食べてみたいなぁとこぼしていたイチゴのたっぷり入ったロールケーキだ。
今日は三月十四日。いわゆる「ホワイトデー」だ。バレンタインデーの返礼日とでもいうのか……。ともあれ、バレンタインデーと対になっているイベント日。
ホワイトデーの起源は諸説あるようだけど、このイベント日が流行りだした頃って、たしか返礼の品はキャンディーとかマシマロだったって記憶がある。だけど今じゃすっかり多様化して、食べ物じゃなくなってることすらあって、三倍返しだの十倍返しだのと、世の男性たちを悩ませているみたいだ。
わたしは三倍返しとか、そんな過分なお返しは望んでいない。そりゃぁ、「お返し」を全く期待していないといえば嘘になる。だけど、気持ちだけでも十分に嬉しいと思うのも本当だ。
……ううん。わたしはやっぱり欲張りだ。維月さんの“気持ち”を“いつも”求めすぎるほどに求めている。
今夜維月さんが用意してくれたのはロールケーキで、キャンディーでもマシマロでもない。だけど見た目的にはスポンジも白くて赤いイチゴは入ってるものの生クリームは純白だから、ホワイトデーに相応しい一品。
そして維月さんがもう一つ用意してくれたのは、維月さん自身。その維月さんは、全身黒づくめだ。その黒が、よく似合っている。
わたしは暫時、お茶の用意をしてくれてる維月さんをぼんやりと見つめていた。けれど紅茶の缶を取り出し、どれを淹れようか迷っている維月さんに気付いて、わたしは慌てて立ち上がった。
「維月さん、あのっ、わたしがやりますから!」
「いいよ。お茶を淹れるだけなんだから」
「でも維月さん、疲れてるでしょう? 今日も休日出勤だったんですよね?」
今日だけじゃない。維月さんはこのひと月余り、毎週土曜は休日を返上して、出勤してた。
二月の半ばから年度末ということもあって仕事が忙しく、派遣社員のわたしですらほぼ毎日残業をしていた。それでもわたしは遅くとも八時にはあがれたし、土曜出勤はなかった。けれど維月さんは土曜の休みも返上して出勤し、残業も、退勤時間九時十時は当たり前、深夜にまで及ぶことも多かった。
日曜は日曜で、お互い別の予定が入ってしまい、この一カ月の間、デートはおろか二人きりで会うことすらできず、せいぜい電話で話すか、メールをしあうくらいだった。こうやって二人きりで会えるのは、バレンタインデー以来。
――会いたかった。
そう思うのも、贅沢なことだって分かってる。
だって、会社へ行けば維月さんの顔を見ることはできて、声を聞くことだってできた。
けれど……だからこそ余計、寂しかった。
会社で会っているのは、維月さんじゃなくて、高倉主任だから。
維月さんは“主任”としてわたしに接し、わたしもまた高倉主任の監督のもとで働いている、一派遣社員としての態度を崩さないよう努めてた。
維月さんの顔を見られるだけで嬉しい気持ちはあったけれど、ただ見ているだけじゃ物足りない気持ちになって、寂しさは募る一方だった。
上司ではない高倉維月さんに会いたくて堪らなかった。
でもそんな我儘は言えない。
日々仕事に追われ、おそらくはクタクタになってるだろう維月さんに、わたしのために時間を割いてほしいなんて我儘、言えるはずがなかった。
だから今夜、こうして会いに来てくれたのは嬉しかったけど、反面、申し訳ない気もしていた。ホワイトデーだからって気を遣わせてしまったんだろうかって。
「維月さん、今月はまだ忙しいんですよね? 無理しないで、ちゃんと休んでください。会いに来てくれたのは嬉しいですけど、わたしのせいで維月さんが疲れちゃったりするのは本意じゃないです」
「疲れているのは美鈴もだろう? 毎日残業して、いろいろ手伝ってくれて。助かってるよ、とても」
「維月さんに比べたらたいしたことありません。土日はちゃんと休んでるし」
「でも、最近元気のなさそうな顔をしていた」
「それは……っ」
あたしは下唇を噛み、俯いた。
元気がなかったのは、仕事疲れも……たしかに少しはあったけれど、一番の原因は……――
「俺もね」
そっと、維月さんの大きな手がわたしの頬に触れた。
「俺も正直言えば、ちょっと疲れてた。まぁ、仕事だし、仕方ないとわりきってたけどね。だから今夜は何が何でも美鈴に会いたかった」
「え、……あの?」
顔をあげると、そこにはまっすぐにわたしを見つめる維月さんの温かな瞳があった。温かい……? ううん、熱いくらいのまなざしだ。維月さんが触れている頬が、自分でもわかるほどみるみるうちに熱りだした。
「派遣社員の木崎さんじゃない、俺の美鈴に会いたかった。美鈴の声が聞きたかった。こうして美鈴に触れたかった。美鈴を抱いて、癒されたかった」
「…………」
わたしはもう声も出ない。
なんのてらいもなくさらりと気障なことを言ってのける維月さんに唖然としたけれど、それ以上に、心が震えるほどに嬉しかった。
同じことを思っていてくれたこと。そして、“俺の”と言ってくれたこと。
今、わたしを見つめ、触れてくれている人を、「わたしの維月さん」だと、わたしも思っていいのだろうか。
「維月さん」
「何?」
わたしの頬にあてられた維月さんの手に、自分の手を重ねた。わたしはちょっと笑ってみせて、
「上手ですね。本物のホストみたいです」
からかうように、言った。
「……それ、褒めてる?」
維月さんはわずかに眉根を寄せて、微妙そうに苦笑した。
「う〜ん、どうでしょう? でも褒めてます、たぶん。だってわたし、今いい気分になって、元気になりましたから。ってことで。お茶、わたしが淹れますね」
「いや、俺が淹れる」
維月さんはいつになく強引だった。きっぱり断って、わたしを再びソファーベッドに押し戻し、座らせた。
「美鈴には体力を温存しておいてもらわないと。だから今はおとなしくしてて」
そして維月さんは意味深な微笑を浮かべて言った。
* * *
カーテンの隙間から、やわらかな旭光が射しこんできていた。仄かな光と淡い影が揺らいで、夜とも朝ともつかない曖昧な時が室内にたゆたっている。あえかな霞光が、わたしと維月さんを包んでいた。
大きな手が、わたしの寝乱れた髪を宥めるように撫ぜている。時折指に絡めたり、耳の後ろを掻いたりしながら。
「…………」
わたしは維月さんに抱かれ、身じろぎもできない。
体中が軋むように痛い。……筋肉痛になりそうな、そんな痛さ。
「もう…………ばか……」
わたしは顔を俯かせたまま、小声で維月さんを非難した。
疲れてるって言ったくせに。――眠らせてもくれないなんて。
わたしの拗ねた声は、維月さんの耳にしっかり届いていたようだ。
「ごめん、つい」
謝罪する声に反省の色は見られない。含み笑ってわたしの髪を撫ぜている。
「つい……って。もうっ」
維月さんはわたしの体をさらに抱きよせて、耳元で囁いた。
「だから言ったろ? 体力温存しておいてって」
「……っ」
「この程度で音をあげるのは早いよ、美鈴?」
「こ、の程度って! そっ、そん……な……っ」
慌てて身を離そうとするわたしを、維月さんが逃してくれるはずもなく。
わたしは維月さんの熱い抱擁の中、激しいキスの嵐にもまれて息も絶え絶えになりながら、熱い奔流に呑み込まれていった。
白み始めてゆく明け方の空を見ることなく。
* 終 *