I'm here * 2
  ずっと、傍にいる。


 
 風が、強い。
 だが、ほのかに甘い蜜の香がする。春の女神がひらめかす紗の衣が、大気を覆いつつあるようだった。
 落葉していた木々の枝先には、小さな芽が萌え始めている。一足早くつぼみをつけている草花も多い。
 春は、本当にもう間近だ。

 明け方の驟雨が地面にいくつも水溜りをつくっていた。その水溜りのひとつをうっかり踏んでしまい、水飛沫で裾を濡らしてしまったのは、年若い魔女だった。
 長い黒髪を後頭部で軽く結わえ、片手に竹箒を持ち、片手に塵取りを持っているその様は、魔女というより、新米の侍女のようだった。
 数年前まではまだ「魔女見習い」だった少女だが、今では魔法薬作りの魔女として独り立ちしている。とはいえ、見た目や言動が幼いため、「魔女見習い」の方がしっくりとくる。
「やだっ、もうっ」
 思いきりよく水が跳ね上がり、それを避けようととっさに身を引いた少女の身体を、すぐ後ろにいた亜麻色の髪の青年が支えた。
「ほら、気をつけて。慌てなくても、私は逃げたりしないよ」
「って、お、王子、いつの間にっ?」
 身体を支えられながら、黒髪の少女は振り返り、そこにある秀麗な青年の顔を見つめ返した。
「今来たところだよ。・・・せっかく君がきてくれたのに、執務室にこもっていては申し訳ないからね」
 青年は、優しく笑む。亜麻色の瞳が甘く潤んで、少女の心拍数をあげさせた。

 青年の名は、セレンという。辺境の地の「領主」なのだが、国王に認知された子という事実が、「王子」と呼ばせている。領民の大半が、領主ではなく王子、あるいはセレン王子と呼ぶのを、本人は「困ったものだね」とため息をつきながら、しかしめんどうくさいのか、いちいち是正させたりはしなかった。
 ただし、是正してほしいと思う人物が一人だけいる。
 幼馴染みという間柄だった頃から、もうずっとそうだ。
 その人物も、名前で呼ばれることはほとんどない。
 魔女だから、というのがその理由だった。
 魔力を持ち、それを生業にしているものは名を秘すものだという。
 二代目の森の魔女たる少女は、亡くなった師匠の教えを守り、名を秘している。
 今、セレンは少女の名を知っている。
 特別に、と名を明かされた。
 美しいその名を、セレンは心から愛しんで呼ぶ。
 その度に少女は恥じらい、花が色づくかのような反応を見せるのだ。
 そしてこの時ばかりは少女もややとまどいがちにではあるが、「セレン」の名を口にする。

* * *

 その日、少女は昼過ぎになってセレンの屋敷を訪れたのだが、出迎えたのはセレンの世話役でもあり補佐をも勤めるハディスだった。ハディスから丁寧な挨拶を受けた後、セレンはまだ執務中であると聞かされた。
 一度は帰りかけたが、それを後で王子が聞けば、きっとがっかりするに違いない。それに、やはり自分も王子に会いたかった。
 せっかく手作りの焼き菓子も携えてきたのだ。
 少女は竹箒や塵取りなどの掃除一式を貸してもらい、一旦は帰りかけた足を、屋敷内の中庭へと向けた。
 セレンが住まう屋敷には、こぢんまりとした中庭がある。中央にトネリコの木が配され、軽食がとれるよう、円卓と椅子が用意されている。
 この中庭は、セレンの気に入りの場所だ。
 手入れの行き届いた花壇は、セレンにとっては母の形見のようなものでもあり、思い出の場所でもある。
 病がちの母だったが、体調のよい日には、気晴らしになるからと造園にいそしんでいた。当時まだ魔女見習いだった黒髪の少女は、よくそれを手伝っていた。だから、王子にとってそうであるように、少女にとってもこの中庭には思い入れがある。
 早春に似合う黄金色の花が、トネリコの木の下、咲き誇っている。他にも春を待ちきれずにつぼみを膨らませている花が幾種類もある。伸びた細い葉や茎が風にゆらゆらと揺れている。陽だまりの午睡を誘うかのように。
 中庭にさしこむ陽射しは暖かく、心地好い。
 ここ数日仕事詰めで、セレンとはゆっくり会うこともできなかった。
 せめて、お茶くらい一緒に。
 短時間だけでも、セレンに休息の時を与えたい。
 そう思って、雨に濡れた中庭を掃除し、お茶の準備をしている最中だったのだ。
 少女は突然姿を現したセレンに驚きつつ、安堵し、嬉しさに口元をほころばせた。
 やっと、会えた。
 ほぼ毎日会っているのだが、そうした気持ちは薄れることがない。
 会えて、嬉しい。それを、セレンとは違い、素直には口にしない少女だ。
「王子、仕事は、もういいんですか?」
「ん、一区切りついたよ。ハディスが、君がお茶の支度をしていると報せにきてくれたから」
「・・・・・・王子」
 少女は身体ごと振り返って、まじまじとセレンの顔を見つめた。
 黒曜石のような双眸に、セレンが映っている。
「王子、声、少しヘンじゃありませんか?」
「そうかな?」
「かすれてます。それに」
 少女は背伸びをし、セレンの額に手を当てた。
「やっぱり。少し、熱がありますよ、王子!」
 言ってから、少女はセレンの手を掴み、歩き出した。
「風邪をひいたんですよ、きっと! こんなところにいちゃダメです」
「けれど、君がせっかく用意を」
「お部屋に支度しますから! というか、寝てなくちゃダメです!」
 掴んだセレンの手は熱く、やや汗ばんでいた。
 半ば強引にセレンを寝室に連れ、着替えて横になるよう言ってから、少女は慌しく寝室を出て行く。お茶の支度をするためではなく、どうやらハディスを呼びにいったようだ。
 しかたなく、セレンは言われた通り夜着に着替え、ベッドに入った。
 額に手をのせると、たしかに熱い。
 気だるいという自覚はあったし、喉も少々痛いとは思っていたが、風邪をひいてしまったとは考えもしなかった。
 セレンは大きく息をつき、横たわった。
 ほどなくして、少女はポットとカップをお盆にのせ、寝室に戻ってきた。
「ハディスさんがゆっくり休んでくださいって。仕事の方はお気になさらずにって言ってましたよ」
「・・・・・・・・・」
 少女はベッド脇のテーブルにカップを置いた。そこから甘い香の湯気がたちのぼり、セレンの鼻孔をくすぐる。
「ここ最近忙しかったのに、森の舘にも来てくれたりしたから・・・・・・きっと、疲れが出たんですよ、王子」
 すまなそうに言って、少女はセレンの顔を覗き込む。
 ごめんなさいとは口にしなかったが、わたしのせいですよね、と暗に語っているように見える。
 セレンは上半身を起こして軽く息をつき、少女の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「・・・たまにはこうして」
 セレンは穏やかに笑む。
 熱のせいで上気した頬が、さらに艶やかさを増させる。
 少女の頬が、真っ赤に染まる。セレンより熱があるのではないかと思われるほどに。
「こうして、君に心配をされるのも、悪くはないね」
「もっ、もう、王子ってばっ」
「・・・・・・たしかに、疲れがたまっていたようだ」
 声のかすれはさらに悪化し、滑らかに言葉が紡ぎだせない。
「王子、無理して喋らないでください。・・・これ」
「・・・・・・」
「喉にいいんです。蜂蜜入りだからちょっと甘いですけど」
「・・・・・・」
 カップを差し出され、一度は受け取ろうと手を伸ばしたセレンだったが、悪戯を思いついたように小さく笑うと、カップを受け取らず、そのまま横になった。
「王子?」
「・・・・・・」
 セレンは誘うように笑み、少女を見つめている。
「飲んでくださいってば、王子」
 少女はカップを持ったまま、困り顔をセレンに寄せる。
 セレンの口が動いている。耳を近づけると、かすれた声がこう言った。
「・・・・・・飲ませて」
 いつの間にか、セレンの手はちゃっかり少女の腰にあてがわれている。
 少女は迂闊にもカップを片手に持ったままセレンの腕に抱き寄せられ、進退窮まっていた。
「なっ、なっ、何言ってんですかっ、もうっっ!!」
 カップに入った温かい薬湯をこぼさないよう、どうにかこうにかセレンの腕から逃げようとする。
 セレンはベッドに落ちる少女の長い黒髪を一房手に取り、そうすることで少女の身体を解放した。
 少女は身構えた。こうして髪を一房手にとり、艶然とした微笑みを浮かべる時は決まって甘い台詞を口にするのが、王子の定石だったからだ。
 だが、セレンは笑んだものの、少女を赤面させる台詞は口にしなかった。あるいは、できなかったのかもしれない。
 喉の痛みが邪魔をしたようだ。
 少女の手からカップを受け取ると、「飲ませてもらう」ことは諦め、ゆっくりと甘い薬を飲んだ。ほどよく温く、蜂蜜の甘さが口の中に残る。それは、懐かしい味だった。
 ほっとしてから、少女はまた心配顔をつくる。甘い台詞を一言も発しなかった、王子の喉の痛みがいっそう案ぜられた。
「ゆっくり休んでいてください、王子。・・・わたし、今日はずっと、ここにいますから」
 再び横になったセレンの額に、少女の小さな手が乗せられた。
 ひんやりと冷たく、心地が好い。
 その手はすぐに離れてしまったが、いつもよりずっと近くに少女を感じる。
 セレンは目を閉じた。
 次に目を開ける時も、きっと少女は傍にいてくれるだろう。
 傍にいると、約束したその通りに。

 一人、熱を抱えてこうして横になっていると、・・・母のことを思いだす。
 薬湯を用意し、冷えた布を額に当てて、柔らかな声で静かに歌ってくれた。

   星よ歌え 静かなる月夜に幸いあれと
   安らぎ包め 愛し児を
   眠れ 眠れ
   優しい夢を与えておくれ
   星奏でる美しい音色を 愛し児に
   眠れ 眠れ
   清らかなる心を紡いで 包んでおくれ

 セレンはゆっくりと瞼を上げた。そして聞こえてきた歌声の方へ、顔を向けた。
「あ、・・・ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
 ベッド脇で、淡い桃色の房状になった花をつけているハーブを束ねながら歌っていたのは、つややかな黒絹の髪たらす少女だった。
 少女の背後に見える窓の外の色はすでに紺色に変わり、月光が射し込んできていた。
 セレンは細い息を吐きだし、それからまた目を閉じた。
 ・・・夢を、見ていた。
 母がいて、そして黒髪の少女も傍にいた。
 あれはいつだったか。
 今と同じように風邪をひいて寝込んでしまった時のことだ。
 再び目を開けると、そこには心配顔の少女の顔があり、小さな手を額に当てた後、乱れた前髪をそっと梳いてくれた。
「大丈夫ですか、王子?」
 あの時も、そうやって顔を覗き込んできた。
 セレンは少女の手を取り、笑みを返した。
「・・・歌」
「え?」
「懐かしいなと、思って」
 寝起きのせいというだけではなくややかすれた声で、セレンは尋ねた。
「その子守唄、すっかり忘れてた。・・・母から、習ったのかな?」
「習ったっていうか、憶えちゃったんです。・・・お母様、よく歌ってくださったから」
「・・・・・・・・・」
 セレンの母のことを語る時、少女は気遣わしげにし、そして懐かしそうな顔をする。
「わたしにも、いつも優しくしてくださって。中庭で花冠作ってくれたり、お茶の美味しい淹れ方も教わったりしたんです。・・・これも、そうです」
 差し出されたそれは、眠る前にも飲んだ蜂蜜入りの薬草茶だった。
 セレンは身体を起こし、カップを受け取った。
「王子、お腹空いてませんか? 食べやすいよう、春野菜のスープを作っておいたんです。食べられそうなら、今すぐ持ってきますけど?」
 飲み干し、空になったカップを受け取ると、少女は忙しなく立ち回る。
 束ねていたハーブをベッドの柱にくくりつけ、柔らかな木綿の布で枕をくるむ。
 セレンは笑んでその様子を眺めていた。懐かしさが、セレンの心を和ませる。
「あの、王子?」
 少女は、実のところ少々戸惑っていた。
 甘く気障な台詞を耳元でささやかれるのも不慣れだったが、無口なセレンにはもっと不慣れだった。
 セレンの自分に向けるまなざしは温かく、優しい。甘い雰囲気の濃度はいつもより高い気すらする。
「王子、えっと、他に何かしてほしいこととか、あります?」
「・・・・・・・・・」
 セレンは小さく笑う。喉がいがらっぽいせいで声は出ない。微笑みかけるそのことで、少女を傍へ招き寄せた。
 少女の手を、軽く握った。握り返してくれる少女の手のぬくもりに、セレンは母への思慕を重ねていた。
 ・・・あの時、傍で母は子守唄を歌ってくれ、少女は手を握ってくれていた。
 今、母の姿はなく、少女だけが一人、傍にいる。だが、喪失感はない。
 亡き母は、多くのものをセレンに残してくれた。
 セレン自身がそうであり、少女もまた、母の優しさ慕わしさを継いでいる。
「・・・傍に、いて」
 かすれたセレンの声は、少女の耳には届かなかった。聞きなおそうと、少女は身を寄せてくるが、セレンは笑んだだけで繰り返さなかった。
 セレンの頬に、少女はそっと触れた。
「傍にいます。わたし、ずっと傍にいるから。・・・・・・セレン」
 それはセレンと交わした約束だった。
 そして、セレンの母と交わした約束でもあった。
 病弱だったセレンの母は、自分が長くは生きられないことを悟っていたのだろう。
 当時まだ見習いだった幼い少女に、セレンの未来を託していた。
「セレンと、仲良くね。ずっと傍にいてあげてね」
 少女は屈託なく笑って、「はい」と答えた。
 そして今、少女は穏やかな微笑を自分に向ける、懐かしい女性の面影を映す青年の傍にいる。
「ありがとう、・・・キラ」
 あの時、セレンの母はそう言って微笑ってくれた。
 セレンと同じ微笑、同じ口調で。

 ごめんね、王子。
 再び瞼を落としたセレンの手を握ったまま、少女は呟いた。
 セレンに、一つだけ内緒にしていたことがある。
 些細なことだが、隠し事はやはり心が咎めるものだ。
 だから、風邪が治ったら、話そう。
 セレンは少しだけ驚いて、でもため息をついて、笑ってくれるだろう。
 セレンの母は、知っていたのだ。
 少女の秘された「名前」を。
 特別な人にだけ教えなさいという師匠の言いつけは、破っていない。
 少女にとって、セレンの母は特別な存在だった。それは今も変わらない。
「・・・・・・お・・・母さ、ん」
 本人を前にしては決して言えなかったその言葉を、眠るセレンにささやいた。
 ベッドに腰かけていた少女はそのまま身体を横たえた。
 睡眠の精霊が少女の頬を撫で、眠りに誘う。
 ふわふわとした気分に包まれながら、セレンの母が二人のために歌ってくれた子守唄を口ずさんだ。
 やがて、歌は安らいだ寝息に変わる。
 そしてセレンは、それを確かめて少女の華奢な身体を抱き寄せた。

 ごめん、キラ。
 そう言って、微笑う。
 眠ったふりをしていたと知ったら、少女はふくれっ面をして、怒り、拗ねてしまうだろう。
 だから、これは内緒。
 それに、こんなに密着していては風邪を感染してしまうかもしれないしね。
 暖かな春の陽だまりをその腕に包みこみ、セレンは安らぎを得る。
 母から託された少女を、セレンは生涯かけて守り、慈しみ、愛しんでいく。

「・・・キラ」

 飾った言葉は、要らない。
 どれも、この想いを伝えるには足りない。
 ただこうして傍にいる。
 それだけで、きっと心は伝わるのだろう。

 それでも、やはり口にせずにはいられないのだ。
「愛しているよ、・・・キラ」
 キラは恥らいながら、想いを受けてくれるだろう。

 そしてキラは、春に咲く匂やかな花のごとく微笑い、またセレンを悩ませる。

* 終 *