雪が降り始めていた。
午前中までは雲の隙間に青空が見えていたが、木枯らしが強くなるにつれ、灰色の雲が空を覆いつくし、気温を瞬く間に下げていった。
「とうとう降り出しちゃいましたね」
出窓から外の様子を眺めていた黒髪の少女が、振り返った。
淹れたてのお茶を片手に、ソファーに深くもたれかかっている亜麻色の髪の青年が、「ああ」と短く応じる。
「どうりで寒いと思った。積もるかなぁ?」
「一晩降り続ければ、あるいは積もるかもしれないね」
「……うん」
温暖な地域だから、降雪は珍しいことだった。
少女は肩をすくませ、窓から少し離れた。そしてふっと息をついた。
「リプ、冬眠しちゃったらどうしよ」
少女は魔法薬作りを得意とする、魔女だ。そして「リプ」というのは、少女に付き従っている眷属の愛称だ。正式な名はリフレナスという。リフレナスは、今日は少女の供はせず、森の奥の舘で留守番をしている。
リフレナスはネズミの姿をしている。
今まで冬眠などはしたことがなかったが、今年の冬は格段に寒い。巣穴をつくって、「春になったらまた会おう」と手紙を残して冬眠してしまったら、……どうしよう。
少女は再び窓の外に視線を流した。
たまりかねて、青年が声をかける。
「心ここにあらずといった感じだね。私といてもつまらない?」
少々意地悪なその問いに、少女ははじかれたように振り返り、慌てて否定した。
「ごっ、ごめんなさいってば、王子! そんないかにも淋しそうな顔しないでくださいっ」
亜麻色の髪の青年は、微笑をこぼす。
カップをテーブルに戻し、ソファーの肘掛にゆったりとした姿勢で肘をおき、頬杖をついて少女を見つめる。光をはじく亜麻色の瞳に、少女はいつもドキマギする。恋人同士のはずだが、二人はどこかまだぎこちない。とくに、少女の方が、未だ状況に慣れていないといった具合だ。
「冬って、嫌いじゃないけど、寒いのはちょっと苦手だなぁって、なんか、そういうことちょっと考えていただけです」
「君が生まれたのは冬なのにね?」
「…………」
少女は少し哀しげな顔をして微笑んだ。
* * *
今年の冬はとくに寒さが厳しい。先日も霙が降った。
森の魔女は、魔法薬作りの名人として名高く、そのためここ数日は風邪薬などの処方依頼がひっきりなしにあり、大忙しだった。解熱、腹痛などの薬は常に作り置きしてあるのだが、すぐに品切れになるほどの忙しさだ。どうやら風邪が蔓延しているらしい。
依頼された薬を携え町にやって来た少女は、薬を全て薬屋に卸した後、偶然、王子と出会った。
「今日は私の屋敷へおいで」と誘われ、一瞬迷った後、少女は承諾した。
王子、と呼んでいるが、むしろ「領主」と呼ぶほうが正しいだろう。しかし、町民のほとんどが「王子」と呼ぶ。国王の、複数いる認知された子のうちの一人で、王位継承の立場からは離れたが、辺境の地域の領主という地位を与えられた。気安い人柄で、政治力も申し分ない。そのため町民の信頼と人気を得ている。
まだ若い領主の恋人は、やはりまだ若い森の魔女。
この事実の流布は、早かった。若い娘達からのやっかみは当然あったが、おおむね二人の仲は好意的に認められた。
当事者の森の魔女だけが、先走る状況に戸惑い、追いつけないでいるようだった。
寒いのは、苦手だ。
少女はため息をついた。
時々……ほんとうにごく稀にだが、こんな寒い日は、「冬眠」してしまいたくなる。
「ため息、十回目」
「え? は?」
「さっきから数えて、ちょうど十回目」
王子は悪戯っぽく笑う。けれど、亜麻色の瞳だけは、やや厳しそうな色合いを浮かべていた。
「って、王子、数えてたんですかっ」
「あまりに多いから。もっと前から数えていたら、二十は軽く突破していそうだね」
王子は手を差し伸べ、ソファーに座ったまま、出窓の側にいる少女を促した。
「おいで」
王子の顔から、微笑が消えていた。
「こちらへおいで」
「…………」
少女は思わず身構えたが、おそるおそる近づいた。イヤだなどと言える訳がないし、また別にイヤな訳でもない。ただ……――
「頬が赤い」
少女の手を取り、王子は気遣わしげに少女の顔を見やる。
「え、や? そう、ですか? あ、でも寒いから、かな?」
「寒い?」
「……うん、少し。あ、でも大丈夫です」
「…………」
少女の「大丈夫」は、あてにならない。
王子は眉をひそめる。
無自覚な恋人が心配で、反面少々物足りないような残念なような、そして悲しくもある。
「今日はとくに冷えるから。……あの、王子?」
「…………」
王子は黙ったままだった。その沈黙に、少女は困窮した。怒っているような気がしたのだ。
「あの、王子。えっと、わたし」
一歩、王子から退いた。だが、手は握られたままだ。
「そろそろ帰らないと。雪がひどくならないうちに……」
「……帰りたいの?」
「え、いや、えっと、ですね……」
やっぱり怒っている。不機嫌な王子の顔を見るなど、めったにないことだ。
少女は狼狽し、言葉が続かない。
「帰りたいの?」
王子は繰り返した。だが、口にしたかった言葉ではない。
少女の手を、王子は両手で包んだ。ため息をつき、そしていつになく口数の少ない少女を、改めて見上げた。
「手が熱い。…でも、寒い?」
「え?」
「頬は赤いけれど、あまり顔色は良くないね」
「そう……かな。疲れが出たのかも。薬作りでここしばらく忙しかったから」
「君は相変わらず無頓着だね、自分のことには。……おいで」
「わっ! たったっ……っ!」
強引に手を引っ張られたと思ったら、次の瞬間には、少女は王子の腕の中にいた。しかも、膝の上に座らされて。
王子は少女の長い黒髪に、顔をうずめた。少女のうなじは熱をおび、熱い。
「おっ、王子っ」
「……帰りたいなんて、言わないでくれ」
王子は情けない自分の口調に舌打ちしたい気分だった。
だが、少女のことが心配で、不安で、胸のふるえがおさまらない。
「えっ、えとっ、王子っ」
王子の息がかかるうなじから、次第に体中が熱くほてりだしてきた。
寒いのに、……熱い……。
「熱があるんだよ。気づかないのは君らしいが」
ようやく、王子は顔を離した。
言われてみれば、と少女はようやく体調の悪さに思い当たった。
今朝、森の舘を出た時から、頭が重かったし、体もだるかった。単に疲れているだけだろうからと、さして気にもとめていなかった。まさか、発熱してしまったとは。
「ここで休んでいきなさい。帰るのは、延期。いいね?」
「…………」
頷くしかなく、少女は唇を軽く噛んで、王子の言に従った。
* * *
王子の寝室、王子の寝台、そして王子の夜着……それらに包まれて、少女は半ば強引に寝付かされていた。
「……王子」
「何?」
「あのぅ、わたし、大丈夫ですから」
横たわったまま、少女は傍らに座っている王子をすまなそうな顔をして、見上げる。
「仕事、あるんですよね、まだ。それ、片付けてきちゃってください。おとなしく、寝てますから」
「…………」
王子は少女の頬にそっと手を置いた。
「私が傍にいない方がいい?」
そう言いそうになった。でも、そう言ったところで、少女は「そんなことはない」と言うだけだろう。
「わかった、そうしよう」
王子は目を細め、切なげに少女を見る。そしてゆっくりと少女の頬から、その手を離した。
「……っ」
少女は、自分で自分の行動に驚いた。
とっさに、王子の袖口を掴んで、引き止めたのだ。言葉は出ない。すぐにその手を離したのだが、立ち上がり、踵を返しかけていた王子は向き直り、腰を屈ませ、少女の額に手をのせた。そして、名残惜しそうに、少女の長い黒髪を指先で梳く。
発熱のためではなく、ぞくりと鳥肌が立つ。少女の頬に、赤みがさした。
「ごっ、ごめんなさ……」
喉元が痛み、声がかすれた。
王子は優しく笑む。
「ゆっくりお休み。今は何も考えずに」
「……」
少女は素直に頷き、王子が部屋を出て行くのを見送った。
顔半分まで布団をかぶって、そして目を閉じた。
泣いてしまいそうだ。突如降りかかってきた不安を払い除けるのに、少女は失敗した。
眠ってしまうにかぎる。王子の言うように「今は何も考えずに」。
少女はかたく目を瞑って、思考を止めた。
夢から、少女は逃げ出すように、目を覚ました。思わず、安堵の吐息がこぼれる。
上半身を起こし、周囲を見回した。
真夜中という感覚はない。おそらく寝入っていた時間はほんの短時間だったのだろう。窓の外は暗いが、まだ夜の帳は降りたばかりのように感じられた。雪はまだ降っていて、窓辺にうっすらと綿雪が降り積んでいた。
(喉が、渇いたな……)
ベッドから降りようとしたのだが、これはなかなか苦労だった。
二、三人は寝られそうな大きなベッドから、軽くて柔らかいが呆れるほど大きい羽根布団を退けて、何とか着地に成功した。だが、部屋から出るのにも苦労がかかった。
ベッドがある地点から出入り口の扉まで、少女の歩幅ではおよそ十歩強は歩かねばならない。
森の舘の自室なら、ベッドから扉まではたった三歩だ。
無駄に広い部屋は、一人でいるにはあまりに寒すぎる。大きな暖炉がどれほど室温を上げてくれていても。
おぼつかない足取りで王子の寝室を出た少女は、一階の厨房へ足を向けた。
王子はおそらく執務室か書斎にいるのだろう。声をかけていこうかと一瞬迷ったが、両部屋は寝室から離れている。厨房へ行き水をもらって、すぐに寝室に戻ったほうが、要らぬ心配をかけずにすむだろう。
全身に力が入らないため、壁に手をついて階段を下りた。二階に比べて、一階は人気が多い。そのため、厨房まで行かずにすんだ。屋敷の女中に声をかけられ、水を汲んできてもらえたのだ。
時間を尋ねると、夕食時だと知らされた。
少女の母親くらいの年齢であろう女中は、丁寧な口調は崩さなかったが、心配そうな顔で少女の顔を覗き込む。
「お食事はいかがいたしましょうか? よろしければお部屋へお持ちいたしますが?」
「ありがとう。でも、いいです、今は。……あの、王子は?」
「執務室で簡単な食事をお召し上がりになりました。魔女様のお食事は別に用意するよう仰せつかっておりましたので」
「そっか。じゃ、せっかくだからいただかないと、もったいないですよね」
こういうところが、少女は奇妙に律儀だった。
「あとでいただきます。もう少し休んでから」
「承知いたしました。……お部屋まで、お送りいたしましょうか?」
少女の足元がふらついているのを見かねて、彼女は手を差し伸べた。
「大丈夫、一人で戻れます。お水、ありがとう」
あまり大丈夫じゃないかも。と思いつつ、つい片意地をはって親切を断ってしまった。
短時間とはいえ、深く眠ったのに、疲れはとれず、しかも熱が上がってしまったようだ。
こういう時に限って、いつもは常備している解熱の薬が切れてしまっている。
「ふぅぅぅ……」
階段を上りきったところで、深く息をついた。
ちょうどそこにあった出窓から、外が見える。
針葉樹の枝先が白く光っていて、きれいだ。
寒いのは苦手だけど、雪は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、……雪は思い出も運んでくるから、少し、悲しくなる。
師匠が亡くなった時も、両親の死の報せが届いた時も、雪が降っていた。
もう一度深く深呼吸をし、寝室へ戻ろうと歩みだした。
寝室まで、あと数歩。そう思ったところで、突然、寝室の扉が内側から開いた。
「……っ!」
血相をかえ、飛び出してきたのは、王子だった。
少女はその勢いに驚き、足元をふらつかせ、よろめいた。
そして――
「……何をしてるんだ、君は!」
怒鳴られて、少女は思わず身をすぼめた。
「おとなしくしているといったのに、ふらふら出歩いて!」
「……あ、あの、ごめんなさい」
王子が声を荒げるところを見たのは、初めてだ。
窘められることは今まで数知れずあったが、怒鳴られたことはなかった。
「喉が渇いたんで、お水をもらいにいっ……」
「君は、まったく少しは自分を労わってやるべきだ。そんな……まともに立ってもいられない状態で」
「……ごめ……」
あれ、と少女は目をこすった。
急に視界がぼやけ、王子の姿がかすんだ。
「や……だ」
自分が泣いていることに、少女はすぐに気がついた。涙がとめどなくあふれて、幾粒も床に落ちる。
みっともない。叱られて泣き出すなんて、まるで子供だ。
そう思えば思うほど、涙は流れて、全身が震えるほどだった。
「やっ、やだな、どうし」
「…………すまない」
王子が、ふわりと包み込むようにして、少女を抱いた。
「すまない、怒鳴ったりして」
「ち、がいます。王子のせいじゃなくて……」
少女は王子の胸元を軽く掴んだ。熱のせいで、手に力が入らない。でも、温かな王子の腕の中から離れたくなかった。
「なんだか……ほっとしちゃったというか……よかったって」
「……よかった?」
「王子が、いてくれて」
「…………」
「寒くて、一人で……」
「心細い思いをさせてしまったね。すまない、本当に」
「ううん……」
全身の力が抜け、頭の芯がぼうっとする。
少女は目を閉じた。
気がつくと、少女は王子に横抱きにされ、寝室に運ばれていた。いつもなら恥ずかしがってじたばたと暴れたことだろう。
少女の息遣いが、荒くなっていた。
全身を針で突かれているような痛みに、少女は無言で耐えていた。
少女をベッドに寝かしつけた王子は、体重をかけないよう、肘で体を支え、そのまま少女を腕の中に閉じ込めていた。
うっすらと目を開けた少女は、すぐ近くに王子の顔を見つけた。
「……苦しい?」
不安げに王子は訊く。少女は答えない。ただ、じっと王子を見つめている。
汗ばんだ額に、王子は手を置いた。
「…………」
少女の苦しげな様子に、王子は眉根を寄せた。
熱で潤んだ瞳には、まだ涙が残っている。額の汗を拭い取り、王子は体を離した。
「お…………じ……」
かすれ、ふるえる声が王子を呼び止めた。
「や……いっちゃ……や……だ」
少女は、泣いていた。
「や……さむ……いよ……――ひとりは……や……」
おそらく意識はない。
少女の泣き顔を見るのはこれが初めてではない。だが、これほど苦しそうな涙を、王子は知らない。
師匠が息をひきとった時、少女は気丈にもその悲しみに耐えていた。辛くないわけがない。淋しくないわけがないだろうに……。
少女は自分を守り育ててくれた師匠や、気遣って面倒を見てくれるリフレナスに心配をかけまいと振舞ってきた。それは、もちろん王子にもだ。無理をし続けていたというほどではないだろう。ただ、時折ふと淋しくなった時があっても、それを見せまいとしていた。
「……キラ」
長い黒髪を撫で、王子は耳元で少女の名を呼んだ。
他の誰にも明かしていない、秘密の名。
「大丈夫。私はここにいる。ここにいるから」
我慢強く、甘え下手な少女だということは、知っていた。だから、こうして甘え、頼ってほしかった。
「どこにも、……いかない?」
幼い子供に戻ったようだ。頼りなげな声で少女は問いかけてくる。
「みんな……おいてっちゃうの。……いなくなっちゃ、やだ……やだよ……」
「いかない」
王子は少女の額に口づけた。
「いかないよ、キラ。ずっと君の傍にいる」
君は、知らない。
私がどれほど君を想っているか……。
どれほど繰り返し告げても、少女は不思議そうな、くすぐったそうな顔をするだけだ。
けれど、こうして傍にいることで、想いの何分の一でも伝えられるのなら、いつまでも、傍にいよう。
君が、望むかぎり……
* * *
雪は夜半にはやんで、積もるにはいたらなかった。僅かに残った雪に朝日が反射し、白く光っている。
目を覚ました少女は、目の前の状況にのけぞった。こういう時、ベッドが広いのは助かる。驚きのあまりベッドから転落するようなことがない、という点で。
「うひゃぁ」
少女の第一声が、それだった。とても可愛らしい少女の声だとは、表現しがたいものだ。
熱は下がったが、別の意味でまた発熱しそうだ。
王子に抱かれて、眠っていたのだ。
初めてではないが、かといってそう簡単に慣れるものではない。
とはいえ、少し……いや、かなり嬉しかった。
王子の寝顔を見たのは、これが初めてだったのだ。
「……勝った」と、思わず呟いてしまう。
一度起こした体を、もう一度横たえて、少女はもぞもぞと王子に近寄った。
きれいな顔だなぁ。
惚れ惚れと、王子の寝顔を見つめる。
寝乱れた亜麻色の髪も、秀でた白い額も、長い睫も、通った鼻筋も。
「…………」
少女は、いつも王子が自分にするように、一房、髪を手に取った。
「…………セレン」
言ってから、また顔を赤くした。
セレンと、王子の名を口にするのは、久しぶりな気がした。
名で呼べと何度も言われているのについ「王子」と呼んでしまう。こればかりは長年の癖だからしかたない。でも、こうして王子の意識がない時なら、呼んでも恥ずかしくない気がしたのだ。実際は、やはり気恥ずかしいには違いなかったが。
「セレン」
名前まで、きれい。
王子は、自分のことを名前も含めて「きれい」だと言ってくれるけれど、やっぱり王子のほうがずっとずっときれいだ。
「セレン……好き。……大好き」
普段口にしないことを言う好機だと、少女はそれを言ったみた。
途端、耳まで赤くなる。
「うっひゃぁ〜……っ」
あげくの、奇声だ。
うつ伏せて顔を枕にこすりつけてみたり、手足をばたつかせたり、子供のように落ち着きがない。
「……くっ」
我慢の限度をこえ、王子は笑い出した。最初はくすくすと小さく、やがて肩をふるわせ、愉快そうに笑う。
「って、やだっ、起きてたの、王子ってばっ!? ひどい〜っ!」
「ごめんごめん」
「やだもうっ、王子ってば寝たふりしてるなんてずるいっ!」
「君があんまり気持ち良さそうに寝ていたからね。でも、寝たふりをしていた甲斐があったな」
艶やかに、王子は微笑む。少女は照れ隠しすら、上手くできないでいる。
「せっかく王子の寝顔見られたと思ったのにぃ」
「君が望むなら、寝顔くらいいつでも見せてあげられるけど? それよりも、私がこうして起きてしまうと、もう王子に戻ってしまうんだね」
「知りませんっ」
「いっそ眠ったままなら、君はもっと素直になってくれるのかな?」
「知りませんっ! そんな意地悪言わないで!」
膨れっ面になって、少女はそっぽを向く。拗ねている仕種が愛らしい。
「……ほら、こっち向いて」
王子は少女の額に手をのせた。頬は赤いが、どうやら熱はさがったようだ。
「気分はどう?」
「…………今、急に熱があがってきたかも」
「そうか。それなら今夜も泊まって……」
「もうっ、王子! 大丈夫です。下がりました! 元気ですっ!」
王子はやれやれと肩を落とした。
「昨夜は素直な君だったのにね」
「……あの、ですね」
少女は気難しげに眉をしかめ、王子を見やった。少し戸惑ったように、言葉を繋げた。
「実はあんまり憶えてないんですけど。お水をもらいに行って、王子に叱られて…………えっと、寝ちゃったんですよね、わたし?」
やはりね、と王子は独語した。予想していたことだったが、少しばかり残念だった。でもそれでよかったのかもしれないとも思う。
「怖い夢見ていたような気がして、でも王子がいてくれて、温かくなって、う〜ん、よく憶えてないんですけど」
王子が今朝起きた時すぐ傍にいて驚いたけれど、自分が王子を呼んだ気がしていた。夢の中で、ずいぶんと王子に甘えていたような気がする。
それを王子に伝えると、晴れやかな、そして優しい笑みが返ってきた。
「夢の中だけではなく、今、ここでも私に甘えてくれると嬉しいのだけどね」
「…………」
ベッドに座ったまま、少女はすぐ横にいる王子を見やった。王子のこの照れのなさには、敵わない。
ふと、少女はささやかな「仕返し」を思いついた。
「じゃ、王子。わがまま言ってもいいですか?」
意気込んで、少女は言った。わがままを言うのに、意を決しなくてはならない性分が、少々もどかしい。
「ん? 何?」
失笑を堪えて、王子は応えた。
「えっとですね、王子。えっと…………セ、セレン」
つかえてしまったのが、口惜しい。しかし挫けずに、少女は顔を毅然と上げ、続けた。
「セレン、お早うのキスをおで……」
「…………」
言い終えないうちに、王子は少女の顎を指先に乗せ、そして軽く口づけた。 ―――唇に。
「……っ!!」
瞬間、少女は耳まで真っ赤になった。
「ちょっわわわわっ」
王子の指が、頬に移動する。思わず、「何すんですか〜っ!」と叫んでしまう。
「お望みどおりにしたんだが? まだ、足りない?」
「いや、そうでなくて! おでこにって言おうと!」
「そうか。わかった」
「いや、もういいですってば! しなくていいですっ!」
恥ずかしさのあまり、卒倒しそうだ。
少女はみごとに「仕返し」に失敗した。
王子を少しでも照れさせてやろうという魂胆だったのだが、あっさりかわされたどころか、返り討ちにあってしまった。恥ずかしがって困り顔をする王子を見てみたかったのだが、この先も、どうやら見られる可能性は低そうだ。
お早うのキスごときで、王子が照れるはずがないんだ……
少女はがっくりとうな垂れた。
「キラ」
微笑んで、王子は少女の髪を指に絡ませる。
「な、なんですか、王子?」
名を呼ばれるのにまだ慣れない様子の少女は、居ずまいをただし、緊張した面持ちで王子を見やる。
「わがままをね、どんどん言ってほしいなと思って」
「言ってる気がしますけど」
王子は目をしばたかせた。意外な返答だった。
「わたしってば、王子にずいぶんと甘えちゃってますよね? いいのかなぁってくらいに」
「それは、気がつかなかった」
逆ではなくて? と聞き返してきた王子に、少女は屈託のない笑顔をみせ、答える。
「うん。きっともうずっと、王子には甘えっぱなしだった気がする。いなくなっちゃったらどうしようって思うもの」
抱きしめたいという衝動を、王子は抑えていた。少女の顔を見ていたかったのだ。
「それじゃぁ、私のほうからわがままを言ってもいいのかな?」
「うん。どんとこいです。あ、でも限度はありってことにしようかな。王子のわがままは、迷惑とかじゃないんだけど、いちいち気恥ずかしいんだもん」
言ってから、少女は神妙な顔つきになり、眉をしかめた。
「いつまでも私だけの君でいてほしいとか、もっと素直な君を見てみたいとか、あ、あと、今夜は眠らせないから覚悟をしておくんだよとか、そういうこと臆面もなく言うんだもの。……って、王子、何腹抱えて笑ってるんですか!」
たまらなくなって、王子は声を押し隠しもせず、抱腹絶倒していた。
「ちょっと、王子ってば、笑いすぎです!」
「いっ、いや、ごめん……っ」
涙目になって笑っている王子を、少女は膨れっ面をして睨みつける。
くるくると表情を変える少女は、いとも容易く王子の心を掴み、はなさない。無自覚な少女の魔力は絶大だ。
「もうっ、王子なんて知りませんっ!」
「いや、だって、ははっ、まいったな」
「まいってるのはわたしですってば! 王子に負けっぱなしで、すごく口惜しいのにっ!」
「そんなことはないよ」
王子は少女の腕を引っ張り、ほんの数分前までそうしていたように、少女を腕の中に押し込めた。
「ちょっ、ちょっと、王子ってば」
「負けっぱなしなのは、私のほうだ。まったく君には敵わないな」
「とかいって、押し倒してるこの状況は、勝ってるんじゃないですか?」
王子は目を細めて、笑む。
「押し倒さずにはいられない状況をつくったのは、君だよ? これでもかなり抑えているんだけどね」
「…………」
そういうところが、「臆面もなく」って言うんです。少女は口の中で呟いた。
口惜しさと照れくささと、あとはほんの少しの嬉しさをこめて、少女は王子を見つめる。陽に煌めく黒曜石のような瞳を向けられて、王子は、実は少し困っていた。愛しさがこみ上げてきて、胸を締めつけられる。
王子の葛藤を、少女はまだ読み取れない。
「君が代言してくれた私のわがままは一つずつ、これから消化していくとして」
「って、消化してくんですかっ」
「もちろん。ちゃんと、私の口から言ったほうが良いだろう?」
「言わなくてもいいですけどっ」
「言わせてもらいたいけれどね。それはともかく」
「ともかくじゃなくて!」
少女は王子の腕の中で、無駄な足掻きをしてみた。むろん、王子はびくともせず、少女を逃がさない。
「わがままをもう一つ、きいてもらいたいのだけど」
イヤとは言えないが、この上まだあるのかと呆れずにもいられなかった。
「君の傍にいる。これからもずっと」
昨夜の約束だ。少女は憶えてはいまい。だから、もう一度繰り返した。
いつまでも君の傍にいる、と。
「キラ」
少女は不覚にも、泣きだしてしまっていた。瞼を閉じると、大粒の涙が流れ落ちる。
昨夜のことを思いだしたわけではないが、嬉しさに心がふるえるのを感じていた。
王子はそっと、濡れた瞼に口づけた。
「だから、君も私の傍にいてほしい。……これからも、ずっと」
「うん……」
そう、だ。王子はいつでも傍にいてくれていた。そして、これからもずっと一緒にいてくれて、わたしを支え、守ってくれる……
「うん。約束する。わたし、ここにいる。王子の傍にいるね」
「もう一つ、わがまま」
「?」
「名前で」
「…………」
一瞬言いよどんだ少女は、けれどすぐに笑顔を取り戻し、続けた。
「セレン……の傍にいる」
泣きたい日や心細い夜は、またやってくるだろう。
でも二人、こうして一緒にいられるのなら、きっと越えてゆける。
傍にいる。
その温もりを、互いに感じて。
* 了 *