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君がくれる幸福を少しずつでも返していけたら

 
 空ろだった少女の黒い双眸がとらえたのは、穏やかで優麗な亜麻色の瞳。
 少女を見つめ続けている。揺るぎなく、強く。
 夜のしじまから少女を守るように。

* * *

 空は分厚い雪雲に覆われ、霙まじりの小雨が降り続いている。
 曇りがちな日々が、黒髪の少女の表情をも暗く沈ませ、曇らせていた。
 少女はつきかけたため息を、唇の端をしめ、堪えた。
 息苦しく、嗚咽が出そうになる。目頭も熱く、痛い。
 それでも少女は耐えていた。耐えねばならない理由などないはずなのに、「だめ」と自分を諌めていた。
 養い親であり、魔法薬作りの師匠でもあった森の魔女が天に召されてから、三日。
 少女は森の舘に閉じこもっていた。

「森の魔女」の眷属であるリフレナスは、茫然と日を過ごしている少女を心配げに見守っていた。つかずはなれず、少女の姿を見失わないよう、常に気を遣っていた。
 風属性の精霊だったリフレナスは、現在ネズミの姿をとっている。ネズミの姿ではできることに限りがある。せいぜい声をかけ、注意を促すことくらいだ。
 リフレナスは普段以上に人の気配に敏感になっている。
 だから近づいてくる馬の蹄の音をすぐに察知した。誰が来たのか、その姿を見ずとも分かった。そうして、少女に声をかけた。
「おい、王子が来たぞ」と、素っ気無く。
 頬を軽く叩いて、少女の空ろな視線を窓の外に向けさせた。

 リフレナスが呼ぶところの「王子」は、名をセレンという。
 少女の幼馴染みであり、森の魔女の教え子でもあったセレンは、森の魔女が病臥にあった頃から、ほぼ毎日見舞いに来ていた。
「私にとっても大切なお師匠様だからね」
 セレンは、心苦しそうな表情をする少女に笑いかけてそう言った。
 少女はセレンの好意を無碍にはしない。
「来てくれて師匠も喜んでますけど……、領主のお仕事、疎かにしないでくださいね、王子」
 それでもつい説教めいたことを言ってしまうのは、師匠である森の魔女の影響なのだろう。セレンは苦笑しつつ、そんな少女を愛しく思っていた。
 親しく言葉を交わしているが、セレンは国王の庶子で、かつ領主という、いわば「雲の上の人」だ。
 さらに、亜麻色の髪と瞳を持つ白皙の美青年でもあるセレンは、町の娘達の憧憬の的で、なかなかお近づきになれない「高嶺の花」でもある。
 そういう、言わば「高いところ」に居るセレンに対し、少女は恐れ畏まった態度をとらず、長い付き合いの幼馴染みとして接している。立場や身分、そういったものに対して拘りを持たず、セレンを「セレン」として見ている。
 しかしながら少女は、セレンを王子と呼ぶ。セレンが是正を求めても、長年の癖なのだから仕方ないといった曖昧な返答でごまかし、さらりと流してしまう。
 少女の名を、セレンは知らない。
 魔力を持ち、魔術を生業にする者の多くは名を秘すのだという。
 それゆえに、今まで幾度となく名を訊き出そうとしてきたセレンだが失敗続きで、結局少女の名を知りえないでいる。
 生真面目な少女は頑固なほどに師匠の教えをよく守り、口を堅くしている。
 セレンを拒絶しているわけではない。
 ――それは、わかっている……。
 わかっているのだが、やるせない気持ちになる。
 愛慕を込めて見つめても、少女に、セレンの想いはまだ伝わらない。


 亡き森の魔女とその弟子の居所である舘に訪れたセレンは、茫然としている少女の様子を窺ってすぐ、リフレナスを伴って台所へと向かった。
「リフレナス、君の主は、食事をちゃんと摂っている? 眠れている?」
「…………少しは」
 訊かずとも明白なことだ。リフレナスは返事を曖昧にぼかした。
「已む無い事だが……、このまま放ってはおけないね」
 セレンはため息をつき、居間に残してきた少女のことを思いやった。
 セレンを出迎えた少女の顔色は、蒼いというよりもはや白く、黒い瞳は生彩を欠いていた。笑みを浮かべて見せてはくれたが、あまりに脆く、痛々しかった。
「師匠のこと、……色々、ありがとうございました」
 そう言ってから、少女は深々と頭を下げた。
 森の魔女が亡くなり、その後埋葬の準備を整え、担ったのはセレンだった。森の奥には少女の両親の墓地があり、同じ敷地に森の魔女の亡骸を埋葬した。
 師匠を見舞ってくれたことも含め、少女は心からセレンに感謝し、謝辞を述べた。
「王子がいてくれて、本当に良かったです」
 それを言う少女の微笑には、寂しげな色が浮かんでいた。己の無力さを責めているような色もある。
 死に対する無力感と孤独感は、少女の身にはまだ重過ぎる。
 ――支えてやらねば。
 セレンは、少女の師匠が病臥にあった時からずっとそれを思い続けてきた。
 かつて、少女が自分にしてくれたように。
 数年前、セレンもかけがえのない人……母を亡くした。だからこそ、少女の気持ちは痛いほどに分かる。
 いや、自分よりももっと、少女は辛いであろう。少なくともセレンには、離れ離れに暮らしているが、父がおり、片親繋がりで縁は薄いが、兄弟がいる。だが、少女にはいない。天涯孤独の身になってしまったのだ。

 台所から戻り、セレンは躊躇いがちに少女を呼んだ。
「魔女殿」、と。
 初めての呼び名だった。
 少女ははっとし、顔を上げた。目を見開き、セレンを見つめ返す。その瞳はとまどいに揺れていた。
 もう「弟子」ではないことを、セレンに「魔女殿」と呼ばれることで、自覚させられた。それは苦い自覚だった。喪失感が胸中に深く浸染していくのを食い止められなかった。
「魔女殿」
 セレンはそのたった一言が少女をさらに苦しませることを知りながら、あえて、それを口にした。
 自覚を促さねばならなかった。それが自分にできることだとセレンは思っていた。
 堪え、抑え、隠し続けている少女の心を紐解くのは、セレンにも辛い作業だ。だが、必要なことだ。少女をこれ以上苦しませたくなかった。
「魔女殿、これを飲んで」
「え……?」
 セレンは持ち手のついた陶器のカップを少女に差し出した。白い湯気が、ゆらゆらと揺れ立っている。甘い香りが少女の鼻孔をくすぐった。
「南瓜のスープ。温まるし、滋養があるから」
 侍女に頼んで作ってもらったスープだ。食が細くなり、胃も弱っているだろう少女のため、指示して作らせた。
 濃い黄金色のスープ。スープの表面に散りばめられている緑色の小さな葉は、苦味のあるハーブだ。
 カップを受け取ると、少女は戸惑いがちな黒眸をセレンに向けた。セレンは優しげに微笑んでいる。
「……」
 セレンが用意してくれたスープを、少女はゆっくりと口内に流し込んだ。
 とろみのあるスープは舌をすべり、喉をくだって、ゆっくりと胃に落ちてゆく。
 カップを持っている両の手が次第に温まり、やがてその熱は全身に伝わってゆく。緩やかに、緊張を解きほぐしてゆく。
 少女は茫漠としていた。
 いつの間にか隣に座っていたセレンに肩を抱かれていたのだが、それに驚く心の余裕もなかった。
 少女は顔を横向けた。視線を上げ、そこにあるはずのセレンの顔を見ようとした。だが、湯気の向こうにあるだろうセレンの顔は、よく見えなかった。
「美味しいです、王子」
 その一言を伝えようとしたのに、言葉は声にならなかった。
 視界がひどくぼやけている。揺らぎ、滲んで、セレンの顔が曇って見えない。
 亜麻色の瞳が自分に向けられている。それは感じられるのに……。
 結露したガラス窓のようだった。白く曇って、濡れている。向こう側が、はっきりと見えない。
「……」
 セレンは少女の長い黒髪を指に絡ませ、その手で、肩を抱いている。力を込め、抱き寄せた。少女の華奢な身体を、震える心ごと、支えた。
 少女は無言だった。声にならない想いが、瞳に溢れる。やがて、流れだした。
 セレンは、少女の頬に流れ落ちるそれを指先で拭った。温かな雫の流れを止めないよう、そっと。

 少女の膝の上には、柔らかな金褐色の毛並みを持つ眷属が丸まっている。小さなネズミの姿の眷属は、新たな主の膝の上から動かない。
 顔は隠れて見えないが、時折長いヒゲがピクピクと動く。そこから何かを感じ取ろうとしているかのようだった。
 リフレナスは、そうして少女に寄り添っている。
 セレンと同じ気持ちでいるのだろう。
 少女を守り、支えたい、と。


 薪が爆ぜ、灰が舞い上がった。火の粉が散り、落ちる。
 赤々と燃える暖炉の炎は室内を暖め、温度を保たせていた。
 セレンは少女の肩を抱きながら、ふと、窓の外に目をやった。
 霙まじりの小雨は、いつしかやんでいた。
 日が暮れかかっている。重たげな雪雲は、濃い炭色へと変色してゆく。やがて、空は漆黒に染まるだろう。冬の夜は、少女の黒髪のように長く、深い。
 冬の森は寂然とし、息をひそめて、春を待っている。
 瞼を落とし、寝入ってしまった少女の息は、安らいでいる。
 セレンは少女の頬に伝っていた涙を綿布で拭った。髪を撫ぜ、そして額に軽く接吻した。
 少女は目覚めない。眉間に苦しげな様子はなく、おそらくは、久方ぶりの安眠だろう。
 少女の膝の上にいるリフレナスも眠っているのかもしれない。微動だにせず、丸まっている。
 セレンは安堵のため息をついた。

 今はまだ、こうして寄り添うことしかできない。
 独りきりには、させない。傍に居る。
 かつて、君がそうしてくれたように。
 君が私に与えてくれた、優しさや幸せを、少しずつでも返してゆきたい。
 黒い瞳に明るい光が戻ることを願い、そしてその瞳で私を見つめ返して欲しいと、望みながら。

* 了 *



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