迦具夜の月


 
 ――ねえ、竹の花って見たことある?
 いつだったか、彼女が意味ありげな顔をして訊いてきた。
 訊いた本人も見た事はないらしい。
 百二十年に一度、花は咲く。そして、花をつけた竹は、枯死してしまう。
「今年は咲くわ、きっと」
 断定的に、彼女――香夜子(かやこ)は言った。


 香夜子は、近所に住む女子高生だ。知り合って、まだ一年。なぜだか彼女は俺に馴れ馴れしい。
 女子高生の香夜子、そして大学生の俺。知り合ったきっかけは、憶えていない。利用する駅が同じで、しばしば顔を合わせることはあったが、だからといって一緒に電車に乗ることもなく、たまに言葉を交わすくらいだった。
 香夜子は一見、深窓のお嬢様風で、日本人形のような色白の美人だった。ストレートヘアの長い黒髪も、古風な雰囲気をかもし出している。
 しかし、なかなかどうして、香夜子はけっこうな遊び人だ。この一年で、俺が知っているだけでも六人の男とつきあっていた。同時進行でつきあった男がいるのなら、二桁台に乗るだろう。
 香夜子は別段、それを隠そうともしない。かといって自慢をするでもない。
 良くも悪くもあけすけな香夜子の評判は、当然、すこぶる悪かった。ことに、女共からの非難めいた視線、聞こえよがしの陰口は、日毎に増していった。
 女共のやっかみや嫉視も、香夜子はまったく気にしなかった。
「言いたい人には言わせておけばいいんだわ。相手にするのも莫迦らしい」
 気に病むことはなかったが、やはり不快ではあるらしい。香夜子は不機嫌顔で俺に愚痴る。だいたいが、登校途中、あるいは帰宅途中、その道すがらにだ。
 俺は同調することも、諌めることもせず、曖昧に相槌をうって返すだけだった。


 香夜子は俺に気があるのかもしれないと思うことがある。
 むろん、それは俺の錯覚にすぎないだろう。
 甘ったれた猫なで声で、俺を呼ぶ。その声が、俺に錯覚を起させるのだ。
「おはよう、御行(みゆき)さん」
 セーラー服姿の香夜子を見るのは、久しぶりだった。いや、香夜子の姿を見ること自体が久しぶりだったかもしれない。
 夏休みが終わってもう半月近くが経つが、その夏休みの間中、そして今日に至るまで、香夜子とは会えなかった。
 俺は、高校生よりは長い夏休み期間を、やれバイトだ、研修だ、論文だ、発表会だと奔走していたが、香夜子は男共に誘われ、蝶々のように遊び戯れていたことだろう。
「久しぶり、御行さん。二ヶ月ぶりなんじゃないかしら? 会えなくて淋しかったわ」
 俺は眉をひそめ、渋面を向けた。
「心にもないことを言うな」
「あたし、心に思いもしないことなんて、口にしないわ」
 香夜子は小首をかしげ、悪気なさそうに笑う。
 天女のように清らかな微笑。だが黒目がちな眸の奥に、蠱惑的な妖婦の一面をも垣間見させるのだ。
 優艶な微笑を向けられる度、俺は、戦慄を覚える。身が竦む程だった。
 生暖かい風に背中を撫ぜられたような嫌悪感。そして、不快さを伴う・・・悦楽。
 俺にとって香夜子の微笑は、ある種の毒だった。
「御行さんに会いたいなって思ってたけど、ケータイの番号もメアドも知らないから、会いようがなかったでしょ? だから今度会ったら絶対聞き出してやろうって思ってたの」
 ・・・おそらく、俺から誘えば、香夜子は拒みもせず体を任せ、開くだろう。
 だが俺は、花びらを散らし、甘い蜜を啜りたい欲情を、ギリギリのラインで踏みとどまっていた。
 理性がそれを止めるのではない。
 何か別の・・・もっと強い意志・・・感情が、常に俺を縛っていた。
 それが何かはわからない。わからないが・・・「知って」いた。

 ・・・――時が、また巡る。
 また、やらねばならない。それは定められた道筋の先にあり、繰り返される運命なのだと・・・――

「御行さん? どうしたの、ぼうっとして?」
 不思議そうに、香夜子が俺の顔を覗き込んでくるまで、俺は茫然とし、その場に立ち尽くしていた。
 ・・・なんだ、いま・・・?
 締め上げるような頭痛と同時に、一瞬だが、何か強い決意のような「声」が、聞こえた気がした。
 俺は軽く頭を振り、改めて香夜子を見やった。
 心配そうな、というより訝しげな香夜子に、俺は「なんでもない」とそっけなく応え、再び歩き出した。


 度々、俺はこうした頭痛に悩まされていた。
 原因は分からない。分かるのは、主に満月の日に起こるということだけだった。
 ガキの頃、俺は月を見るのが怖かった。ことに、満月だ。これも、理由は分からない。
 追い立てられているような気がして、落ち着かなかった。
 狼男が満月の光を浴び、本性を剥きだしにされる。それを体感しそうな恐怖があった。それを願っていたのかもしれない己の欲望に惑っていたのかもしれない。
 皓々と照る満月を直視できずにいたくせ、奇妙に惹きつけられる。
 だが結局ただの人間にすぎなかった俺は、狼男に変身することはなく、満月に対する恐怖も次第に薄れていった。
 それでも完全に拭えたわけではない。
 ゆえに、未だこうして頭痛に悩まされるのだ。
 そしてふと気付く。
 蒼白い月塊のごとく、美しく冷たい香夜子。
 ――俺は、月に憑かれているのかもしれない、と。


 駅までの道を、俺は香夜子と歩いている。
 成り行きに過ぎなかったが、傍から見ると俺と香夜子は、どういう関係に見えるのだろうか。
「ねえ、今夜、満月なのよ」
 唐突に、香夜子が切り出した。
「・・・・・・ああ、『中秋の名月』からは少しずれたな」
「そうね。一昨日が中秋だったのよね? でも、いいの。今日が満月なら。旧暦になんか拘らないわ」
 ふふっと笑って、香夜子は俺の腕に、その華奢な腕を巻きつけてくる。
 振りほどくのも面倒で、俺はそのまま歩いていた。香夜子はさらに身を寄せてくる。
「だって、今日があたしの誕生日なんだもの。十八になったわ」
「へえ」
 興味のないふりを通したかったが、香夜子の顔を見てしまった時点で、それは失敗した。
「だから、ね、御行さん。お祝いして?」
「なんで俺が」
「御行さんにお祝いしてもらいたいんだもの。ね、あたし、ネックレスがいいわ。ネックレスが欲しいの、珠のたくさんついた、きれいな赤色の・・・」
「だからなんで俺が。他の男にねだればいいだろう」
「だめよ、御行さんでなきゃぁ。御行さんに贈って欲しいの」
 香夜子の口調は、こちらがたじろぐほど強かった。
 底冷えがする、香夜子の微笑。
 幾人の男が、この無邪気そうな笑顔に惑わされてきたのだろう。
「俺にそんな義理はないね」
 顔を背け、突っぱねた。
「相変わらずクールなの、御行さんて。それじゃせめて、会えない?」
「あいにくだが」
 駅に着き、俺は香夜子の腕を解いた。
「今日は忙しい」
「バイト?」
「違うが・・・大学でやることがある」
「・・・そうなんだ。ふぅん。・・・わかった。いいわ」
 香夜子はいやにあっさり引き下がった。正直、わがままを押し通してくるかと思ったのだが、「いちおう訊いてみただけ」という程度だったのかもしれない。
「じゃぁね、御行さん、また!」
「・・・ああ」
 改札口をくぐったところで、香夜子は駆け出した。短いプリーツスカートが、風に吹かれてまくれ上がる。その瞬間に、いったい幾つもの視線が注がれたことか。
 俺は踵を返し、香夜子とは反対方向へ歩いていった。

* * *


 今夜こそ「月見日和」だと、ニュースキャスターが言っていた。
 一昨日の「中秋の名月」の日は曇天だった。そのために今夜の満月は思わぬ脚光を浴びることになった。「月見をするのなら、やはり満月の方がいい」などという、身勝手な理由で。
 なるほど、今夜は確かに「月見日和」かもしれない。
 紺色の空には薄い雲が点在しているだけで、満月を隠すものはなさそうだった。もったいぶっているのか、月はまだ姿を現さない。中天にかかるのは何時ごろなのか、そこまでは確かめなかった。
 俺は一人、構内の研究室で煙草をふかし、視界を曇らせていた。
 ・・・奇妙に、胸が騒ぐ。月のせいなのか、あるいは別の何かが原因なのか・・・。
 さっきまで転寝をしてしまっていたせいで、研究成果のレポートは白紙の状態だった。
 転寝をして見る夢は、大抵は憶えていない。憶えてはいないが、嫌な気分に陥ることはある。
 せめて空気でも入れ替えるかと立ち上がったのと同時に、ドアが開いた。
 隙間から、白い顔が覗く。
「来ちゃった」
 我ながら不思議なほど、この時俺は、香夜子の来訪に驚かなかった。


 俺のいるところがどうしてわかったのかなど、いちいち訊く気にもなれなかった。訊いたところで香夜子は曖昧な笑みを浮かべて、ごまかすだけだろう。
 香夜子はセーラー服姿のままだった。雰囲気が違って見えたのは、髪形が変わっていたせいだ。
 今朝見たときは長い髪を全ておろしていたが、今は一部だけを結い上げ、そこに木製のかんざしを挿していた。
「ね、御行さん。ネックレス、買ってくれた?」
「・・・買うわけないだろう」
 香夜子は俺ににじり寄ってくる。俺は浮かしていた腰を再び硬い椅子に落とし、ため息をついた。
「そう。やっぱり用意できなかったのね」
 香夜子は自分の白いうなじに手を当てた。俺を責める風でもなく、諦め顔といった風でもない。
 湛えられた微笑は、出来の悪い仮面のようだった。
「外、もうすっかり暗いわね。来る時横切ったけど、あの辺り、すごい竹林なのね。怖かったわ」
 香夜子は窓の外を指差した。
 四階からも竹林は望めた。今はもう、風に揺すられる暗闇の塊にしか見えない。
「竹の花、きっと咲いてるわ。あの中のどこかで。そうしたら、あの竹林はなくなってしまうかもね」
「・・・・・・・・・」
 香夜子の顔が蒼ざめて見えるのは、照明のせいだけではない気がした。
「月、まだ見えないわね」
 香夜子は窓を少しだけ開け、空を望んだ。生ぬるい風が、室内に忍び込んでくる。
「ねえ、御行さん? ・・・そろそろ思いだしたんじゃない?」
 向き直り、香夜子は唐突に訊いてきた。
 麗しく甘美な、それでいて背筋が寒くなる香夜子の微笑から、俺は目を背けた。
「何をだ」
 最後の一本になった煙草を取り出し、咥えた。
 安物のライターを擦る音が、ひどく耳障りだった。
「御行さん、竹取物語って知ってる?」
 やにわに、香夜子は話題を転じた。窓辺にもたれかかり、貼り付いたような笑顔を俺に向けたまま、語りだす。
「竹から生まれたかぐや姫。有名な『日本昔話』だから、知らないわけないわよね?」
 俺は顔をしかめ、香夜子に向き直った。
 いきなりなんだ、それがどうした。問いかけは、香夜子の微笑に封じられた。
「それじゃぁ、ねぇ、かぐや姫がここ・・・地球にどうして送り込まれたのかは、知ってる?」
 俺の答を待たずして、香夜子は続ける。
 俺は沈黙を保ち、いつになく饒舌な香夜子を見やっていた。
「流刑よ。かぐや姫は流刑されたの。罪を犯して。本によっては、そう記されてるのもあるみたい。何の罪かは記されてなくても」
 香夜子はすっと手を伸ばし、俺の頬に触れる。そして俺の口から煙草を奪った。
「ね、まだ思いださない?」
「・・・っ」
 香夜子の柔らかな唇が、俺の唇に押し当てられた。
「香夜・・・っ」
 とっさに、香夜子の腕を掴み、身体を離した。
 香夜子は微笑んでいる。紅い唇から、紅い舌が覗く。
 激しい頭痛が襲い掛かり、俺は奥歯を噛み、額を押さえた。
「もうそろそろ思いだしてきたんじゃない?」
 再び、香夜子の顔が近づいてくる。
 俺は顔をしかめたまま、苦しげに訊く。
「何を、だ。さっきから、いったい何を言ってる・・・?」
 わけが、わからない。
 香夜子はさっきから何を言ってる? 思いだす? かぐや姫? ・・・罪、だと?
 再び重ねられた唇から、甘い毒が注がれる。熱い舌が、俺を促す。記憶を、呼び覚ます。
「・・・か・・・ぐや・・・」
「そうよ。思いだした?」
 僅かに唇を離し、香夜子は語りだす。
「迦具夜。そうよ。そう呼ばれたこともあったわ・・・」

「むかし、そう・・・もうずっとずぅっと昔、迦具夜は月界で大罪を犯したの。そして地球に流刑された。わざわざ新しい身体に転生までさせられて。そうして試されたのよ。同じ事を繰り返すかどうかを。そして罪を償ってゆけるのかを」
 香夜子の冷たい手が、俺の首に巻きついてくる。
「でも、ダメだったわ。嗜好って、なかなかやめられないものよね。だって面白いんだもの。楽しくてしかたないんだもの。無様に死んでいく男達を見るのって」
 香夜子を払いのけ、俺は立ち上がった。その勢いで椅子が倒れて派手な音をたてたが、香夜子は驚く様子もたじろぐ様子もなかった。
 薄笑みを浮かべたまま、香夜子は俺にしなだれかかってくる。
「転生してもなお罪を重ねた迦具夜に、罰は下されたわ。罪と同等の、罰よ」
「・・・罰・・・?」
 背に当たったガラス窓のせいだけではなく、背筋が冷たい。
 香夜子は艶然と微笑み、応えた。
「永遠に続く、罰よ。同じ事が何度も繰り返されるの。いつか罪が赦されたら月界へ戻れるんですって。でも、その日が来るかなんて分からない。・・・分かるのは、それが『今』じゃないってこと」
「――・・・っ」
 刹那、俺は自分の身に何が起こったのか、理解できなかった。
 目が、かすんだ。それは、胸元に走った激痛のせいだった。
「・・・グッ・・・アッ・・・ッ」
 前にのめって倒れかけたが、香夜子がそれを止めた。
 呻く俺の口から唾液と血が飛び、香夜子の白い肌を汚した。
「苦しそうね、御行さん? 楽にしてあげたいけど、もう少しあたしを愉しませて?」
 再び、香夜子の腕が振り上げられた。
 その手に握られているのは、かんざしだった。血が、その切っ先から滴り落ちている。
「・・・ッ」
 とっさに身をかわし、二度目は避けた。だが足がよろけ、床に膝を落とした。
「御行さん」
 赤く濁った唾液が垂れ下がる俺の顎を、香夜子は細く白い指にのせる。
「百二十年毎に迦具夜は転生するのよ。そして再びあいまみえるの。迦具夜を愛し、殺されていった男達に。・・・そして・・・」
 鈍い音と激痛が、俺の首に走る。
「・・・ッ、か・・・や・・・っ」
 血飛沫があがり、視界が赤く染まる。
 香夜子の微笑も、赤く滲む。
「貴方には竜の首にさがっている珠をお願いしたんだったわね? もっとも、そんなのは口実にすぎなかったんだけど。・・・それに、貴方の首にさがってるこの赤い首飾りの方が素敵だわ」
 香夜子の白い指が、触手のように俺の頬に伸び、撫ぜる。そして甘い毒を吐く唇を、俺の血塗れた唇に重ねた。
 ・・・ああ、そうだ。
 この瞬間のために、・・・繰り返され続けてきたこの瞬間のために、俺は生を受けた。
 香夜子と出逢うため、そして・・・・・・
 俺はやっとの思いで立ち上がり、香夜子を抱きしめ、激しい接吻を返した。
「・・・香夜子・・・」

 ふと窓の外に目を遣った。
 竹林の僅か上、いつしか満月が昇っていた。

 香夜子の手から、かんざしが落ちた。
 血溜まりに浸されたかんざしの先にある装飾は、稲穂にも似た小さな房状の花。血に塗れながら、異様に白く光っていた。
「・・・御行・・・さ・・・ん」
 苦しげに眉根を寄せながら、しかし香夜子は微笑を崩さなかった。
 俺に首を絞められ、息も絶え絶えに、香夜子は言う。
「思いだしてくれて、・・・嬉しいわ。この次いつ会えるかは分からないけど」
「・・・ああ」
 香夜子は俺の頬に流れる、透明な水滴を指先で掬った。
「いつの日か、・・・また」
「・・・・・・香夜子」
 最期の瞬間まで、香夜子は艶かしく微笑んでいた。
「か・・・ぐや・・・」
 ガラス窓がはずれ、俺の腕の中から『迦具夜』は消えた。

 震える手で、かんざしを拾い上げた。
 竹で作られた、細長いかんざし。花は、ガラスでできた『竹の花』。


 ――迦具夜。
 罪を犯してなお、輝くように美しい迦具夜。
 せめて、眠れ。今は、静かに。
 俺ではない男に殺されるその瞬間まで。あるいは、再び俺に殺される時まで。
 ひと時だけ、俺に抱かれていてくれればいい。

 俺の哄笑が、冴えた月夜に空しく響く。
 やがてそれも消える。
 微笑を湛えたまま横たわる香夜子に、血まみれた俺の身体が重なる。


 迦具夜の罪と罰を、十五夜の月が冷たく照らし出していた。
 まだ赦されぬと、知らしめるかのように。

* 終 *