寝台におろされてからレサヴィーラは顔を上げ、改めてクルザークに面倒をかけたことを詫びた。
「お手を煩わせてしまってごめんなさい」
そう言って哀しげな顔をするレサヴィーラに、クルザークはたった一言「いえ」と返しただけだった。「どうかお気になさらぬよう」と、気遣う言葉もかけず、愛想笑いのひとつも浮かべない。クルザークの声と表情は常と変わらず謹直で、そっけないものだった。
だけど、とレサヴィーラは思う。
――だけどクルザークの力強い腕は優しく、逞しい胸は温かいのだ。離れがたく思うほどに。
「……クルザーク」
レサヴィーラは思わず声を発していた。寝室から出ようとするクルザークを呼び止め、しかし二の句がでない。
「…………」
レサヴィーラのためらいがちな青紫色のまなざしがクルザークの隻眼とぶつかった。張り詰めたような沈黙が二人の身を竦ませた。
息が止まる。そんな苦しさにレサヴィーラは胸を押さえた。
苦しいのに、クルザークから目を逸らせなかった。逸らせば、クルザークはすぐにも去ってしまうだろう。
――いかないで。
そんな他愛無い一言も口にできないレサヴィーラは、沈黙によってクルザークを引き止めていた。
だが僅かの間の沈黙は、ルエによって破られた。
扉の向こうから「失礼いたします」と声がかかり、その後すぐにルエは侍女二人を伴い部屋に入ってきた。
「姫様、着替えをお持ちしました。部屋もすぐに暖めますので、いましばらくお待ちくださいませ」
ルエに促され、二人の侍女は軽く会釈をしてから作業を開始した。持ち運んできた小ぶりな火鉢を寝台の足下と窓際に置き、火鉢の傍らに火掻き棒と補充用の無煙炭を備え付けておく。それから天井近くに設置されている換気用の小窓を、鎖を引いて僅かに開けた。
一言も口をきかずに黙々とそれらの作業を済ませると、二人の侍女は一礼して退室した。レサヴィーラに声もかけなければ顔すら合わせない。
この二人の侍女がレサヴィーラをことさらに厭い、無視を決め込んでいるわけではない。この邸に勤める使用人はすべてそのような態度をとっていた。アルダッドの王宮内での慣習に従っているにすぎない。
「下々の者」は「高貴の身分の者」に直接声をかけてはならず、真正面から顔をみることすら禁じられている。王宮に勤める者はそうした仕来たりを堅く守っていた。
レサヴィーラは敗戦国から寄越されたなんの力もない虜囚にすぎないが、ビルスク王家の王女であり、その点では「高貴な身分の者」に違いない。しかもアルダッド国王ヴィネドの側室になるかもしれない身上なのだ。礼を失するような、疎かな態度で接してよいはずがない。
使用人等、個々の心情はそれぞれあれど、レサヴィーラに対して個人的な感情は表さず、冷淡といっていいほど職務に忠実だった。クルザークがそうであるように。
職務に忠実な彼らとレサヴィーラとの間に立ち、取り持ち役になっているのがルエだった。
ルエはレサヴィーラの傍に寄り、寝台に用意した着替えを置くとすぐに両膝をついて身を屈ませた。
「姫様、おかげんはいかがですが? お御足はまだ痛みましょうか?」
「いいえ。もう平気よ、ルエ」
「どうぞ、ご無理はなさいませぬよう。お召し替えの前に、温めた綿布を用意しましたので少しお揉みしますわね。――ああ、そうですわ、クルザーク様」
ルエは首をめぐらせ、退出する機を失っていたクルザークを呼びつけた。
「クルザーク様、白湯をお持ちいただけませんでしょうか? 姫様が、喉が渇いているご様子でいらっしゃいますので」
クルザークは一瞬返答に窮した。用事を言いつけられたことを不愉快には思わなかったが、いささか戸惑った。
ルエは悪びれず、にこりと笑ってさらに続けた。
「それから、ルシルカの様子を見てきていただけませんか? もし湯あみが済んでいるようでしたらこちらへ連れてきていただいても構いませんから。ね、姫様?」
「え、ええ」
ルエの強い口調に押され、若干当惑した面持ちで、レサヴィーラは相槌を打った。
「きっとルシルカも姫様を心配に思っているでしょう。それに姫様もルシルカの身を案じておいでです」
「…………」
レサヴィーラの本意を、ルエは察していた。
レサヴィーラが今心にかけているのは、ルシルカではなく、別の人物だ。
いかないでと、レサヴィーラの青紫色の瞳が雄弁に語っている。
それに気付かないルエではなかった。
レサヴィーラの視線の先にいる独眼のその人物は黙然と佇んでいる。レサヴィーラの懇願に気づいているのかいないのか。沈静な面持ちを僅かにも弛ませず、視点も一つ所に固定させずにいる。レサヴィーラを見ているようで、真正面から見据えはしない。
もうしばしクルザークに留まってもらうために、ルエは不躾を承知で依頼した。クルザークは断らないだろうことも計算に入れていた。
ルエの見立て通り、クルザークは黙って肯諾し、軽く一礼した後、部屋を出た。
クルザークはルエの計算もレサヴィーラの心細がっている心情も、察しきれていなかった。心にかかることが他にあり、そちらに気をとられていた。
先刻、スティーグに報らされた機密事項がクルザークを思い煩わせていた。レサヴィーラにも関わる事柄だけに、聞き流すことはできなかった。
スティーグは繰り返して「他言は無用」と念を押した。
「このことは我らが父を含め、ごく一部の者しか知らぬ極秘事項だ」
スティーグは声をひそめて話し出した。スティーグの真剣な面持ちが、事の重要さを如実に表していた。
王太子殿下が戦傷を負われ、危篤状態で枕も上がらぬほどだと語られ、これには沈毅なクルザークも眉をひそめた。
「もう二十日以上も前のことだが……王太子殿下自ら北の辺境地の暴動鎮圧に赴かれ、そこで深手を負われ、今もって意識が回復しない状態だ」
「戦傷を負われたとは聞き及んでおりましたが……、まさかそれほどとは」
意想外の話にさすがのクルザークも驚きを隠せなかった。
アルダッド国外の情勢に関しては情報通といっていいクルザークだったが、宮廷の内情には疎いところが多分にある。関心がないせいでもあるが。
「宮廷医にも堅く口止めをし、戦傷は負われたが深刻な状態ではないと報告させている。――回復の見込みが未だ見られぬとは、一部の者しか知らぬ」
スティーグは深々と嘆息した。
「知っての通り、陛下と正妃様との間には王太子殿下エルセオ様以外に男児はおられぬ。側室との間に幾人か子を儲けておられるが、今のところ女児しかおらぬ」
ヴィネドと正妃ファルリィンとの間に、子は二人生まれた。嫡男エルセオと嫡女レアンディーナである。しかしレアンディーナは未婚のまま若くして亡くなり、五年前に正妃ファルリィンも病に没している。
ヴィネド王の正妃ファルリィンは、ヴィネドの父ベニートの妃と同じくイエイセル家の子女であった。
ヴィネドが王座に就く以前、ヴィネドの後見として権門にあったのは名門貴族のイエイセル家であったが、ベニート亡き後、イエイセル家の権威は徐々に失墜していった。さらにヴィネドの嫡妻であるファルリィンが夭折し、それを機にヴィネドは確固たる後ろ盾を失くしたといっていい。その後釜に、まんまとエルドゥース家が納まった。
現在、エルドゥース家の当主ダーヴィドが王太子エルセオ殿下の後見として立っている。後見となるためにエルセオにエルドゥース家の血筋の娘を献じた。
「エルセオ殿下にも、まだお子はおられぬ」
スティーグは長嘆した。エルセオ殿下に世継ぎとなる男児がおれば、と。
「陛下は最悪の事態を想定し、それに備えるため活動を始められた。エルセオ殿下にもしものことがあった場合、次に立てる
「……それは……」
クルザークの渋面を無視し、スティーグは話を続けた。
「他国の王女、できれば亡国の王女が好ましいとの仰せだ。陛下は慎重であられる。先王トルダス陛下の二の舞を踏みたくないのであろうな。貴族達の権勢争いは宮廷内に多くの混乱をもたらすのは明白だ。そうした争いをヴィネド陛下は殊更に厭っておられる」
スティーグの声音は淡々としていた。感情を押さえた、宮廷人らしい厳粛ぶった口調でヴィネドの心中を憶測する。クルザークは無表情に耳を傾けていたが、それを
――その権勢争いを逆に利用し、
トルダス王時代の名だたる権門貴族をことごとく粛清し、潰しきった。それにダーヴィドも加担した。
冷笑がクルザークの口元にかすかな歪みを生んだ。
後嗣は貴種であるに越したことはない。が、他国の干渉もできうれば受けたくない。その一方で、亡国の王女の胎から生まれた男児を擁することによって、亡国の民の叛乱を抑折させようという魂胆なのだろう。
虫が良すぎると、クルザークは内心で呆れていた。見え透いた手段に憤慨すらもおこらなかった。
ややあってから、クルザークはスティーグの意図に気づき、愕然とした。
まさか、という呻きを洩らしそうになったが、堪えた。
亡国の王女、それにはレサヴィーラも当然含まれている。
クルザークは俄かに顔つきを険しくしたが、スティーグは意に留めない。あるいは、クルザークが顔色を失うのももっともだと思ったのかもしれない。事は、エルドゥース家にとっては重大事だ。
「エルセオ殿下が無事ご回復されれば、それが何よりなのだが、万が一の事態に備えて我らも身の処し方を決めておかねばなるまい。エルドゥース家の安泰のためにも、使える駒は出来うる限り手元に引き寄せておくのが得策だろう。ではないか、クルザーク?」
「…………」
スティーグに同意を求められ、クルザークは窮追されたごとくに押し黙った。
スティーグの口調は強い。敵を逃げ場のない所に追い詰めて叩く、詰め
「今後、ビルスクの王女の処遇がどのように変わるかは私にも分かりかねるが、このままというわけにはいくまい。いずれ陛下からの沙汰もあろう。ともあれクルザークよ、国の内外ともに不安定な状況の今であればこそ、我らもアルダッドの駒として、陛下への忠誠を忘れず、誠敬であらねばならぬ」
スティーグに念を押され、クルザークは朽葉色の片目を暗鬱に沈ませながらも諾意を示さざるを得なかった。
クルザークの心に冷たい釘を打ったスティーグはやにわに陽気な笑顔をその端正な面貌に戻した。
「なにはともあれ、今日は有意義な日であった。ビルスクの王女にも、そなたからよくよく御礼申し上げてくれ。ではまたな、クルザーク、親愛なる我が弟よ! 次に会う時には、旅先での話でもゆるりと聞かせてもらおうか」
「兄上におかれましても、どうかご健勝であられますよう」
クルザークは慇懃に返し、堅い表情を僅かにも崩さず、にこやかに手を振る兄を見送った。
* * *
スティーグの来訪目的はこれだったのかと、クルザークは腑に落ちる思いだった。
腑に落ちたそれが胃の腑の中で煮えている。クルザークは腹の底に落とされ、焼け爛れるような臭気を放って煮えるそれに嘔吐感すら覚えていた。
スティーグはただ単に「親愛なる弟」に会いに来たのではない。
ビルスクの王女の器量を計るのも、身元不確かな女児を押し付けに来たのも、事のついでに過ぎなかったろう。
第一の目的はビルスクの王女の護衛役を務めているクルザークとの繋ぎを太くするためだった。
エルドゥース家の当主ダーヴィド、そして後継のスティーグは、王太子エルセオがよもや逝去なされた時には、いち早くレサヴィーラの後見役となる算段でいるのだろう。それを暗にクルザークに知らすために、スティーグ自ら足を運んできたのだ。
他の側室達もアルダッドの有力貴族の後ろ盾があるかないかでその身位の有り様は天と地ほどの差異がある。
ヴィネドの寵を受け、さらに男児を産み参らせることができれば、レサヴィーラの立身に繋がり、且つ命も長らえられるかもしれぬ。その上に、エルドゥース家の後見を得られるのだ。現在のように中途半端に捨て置かれているよりは建設的といえるだろう。
レサヴィーラにとって、それらは悪い話ではない。
しかしクルザークにはどうしてもそうは思えなかった。それゆえにレサヴィーラには話せなかった。――ヴィネド王が近々邸を訪れるかもしれないなどとは。
スティーグの口止めもあったが、別の理由でクルザークは口を噤んだ。
父と兄の思惑は不快でしかなく、その思惑に繋がれる自分の立場もまた不愉快極まりなかった。
虜囚としてやむないこととはいえ、ヴィネド王やエルドゥース家の都合のいいように利用されるレサヴィーラが憐れでならなかった。憐れむしかできない無力な自分が歯がゆくもあった。
クルザークは歩みを止め、帯剣の柄を握った。剣を抜きはしない。ぐっと力をこめて柄を握りしめ、そうして気を静めた。
白い大理石の床に落ちている己の暗い影を、眉宇をしかめて見つめる。耳を澄ますと、離れたところから水音が聞こえてくる。ルシルカの湯あみはまだ済んでいないようだ。
いくつかの重なる足音、水の流れる音、忍び入ってくる隙間風の音、蝋燭の火が微かに爆ぜる音、それらがクルザークの鼓膜を打ってくる。
絶え間なく耳の内に流れ込んでくる物音にも、遠慮がちに呼び止めたレサヴィーラの声をかき消すことはできなかった。レサヴィーラのためらいがちな声が耳から離れない。
「クルザーク」
そう呼ばわったレサヴィーラの声音が、いつになく怯えているように感ぜられた。
引きとめられた理由は分からなかった。しかしレサヴィーラの口元が何か言いたげであるのは見て取れた。
ルエが言うように喉の渇きを訴えたかったのかもしれない。ルシルカの様子が気になり、様子を見てきてほしかったのかもしれない。
――いや、そうではなかろう。
クルザークは思いなおす。
喉の渇きを訴えるだけにしては、レサヴィーラの双眸には切なげな色が濃く滲んでいたではないか。ひどく心細げな眼をして、こちらを見ていた。
クルザークは柄から手を離し、再び歩み始めた。
一刻も早くレサヴィーラの元へ戻るべく足取りを速める。
「クルザーク」
レサヴィーラのその物柔らかで寂しげな声と儚げな微笑に応えるために。