イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
(ルカによる福音書 第21章1〜4節)
一、まなざし
主イエスは見ておられました。神殿に設置された賽銭箱に、人々が献金を入れるのを見ておられました。多くの人々が来て、それぞれに献金をささげるのを見ておられました。主イエスは、誰が、いくらささげたのか、その献金の金額を見ておられたのでしょうか。「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て」とありますから、やはり献金の金額を見ておられたのだと思ってしまいます。しかし、注意深く読みますと、主イエスが見ておられたのは、献金の金額ではなくて、献金をささげる人の「全生活」を見ておられたことが分かります。
二、すべての生活
これは、人には分からないことです。主イエスにしか分からないことです。主イエスはその人の生活の一部ではなく、すべての生活を見ておられました。「有り余る中から」と、どうして分かるのでしょうか。また、「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」と、どうして分かるのでしょうか。人には分かりません。しかし、主イエスだけは、それが分かるのです。ささげる人の生活すべてを知っておられるからです。
金持ちか、貧しいかはその人の服装や態度で見当がつくこともあるでしょう。しかし、その献金が有り余る中からか、それともその人の生活費全部なのかは、その人の生活を、日々の暮らしを見て、知っていなければ言えないことです。
三、献身の思い
私たちも礼拝の中で献金をささげます。その時に大切なことは、主イエスは私たちの全生活を見ておられる、ということです。そうであるならば、「主よ、私の生活を、今日から始まる一週間の生活をすべて、全部、お委ねいたします。おささげいたします。どうぞ御心のままに、私をお用いください」との祈りをもって、献金をささげましょう。
有り余る中から、生活の一部をささげるのではなく、全生活をささげて生きるのです。その献身の思いを主イエスは見ておられるのです。「献身」とは、「身を献げる」と書きます。自分の身を、生活を、一週間の歩みをすべて主にささげて、委ねて生きることです。
四、十字架の愛
貧しいやもめはレプトン銅貨を二枚、持っていたのですから、一枚をささげて、あとの一枚は自分のために取っておくことも出来たのです。しかし、彼女は二枚を、すなわち全部を、全生活を主にささげました。
私たちはどうでしょうか。日曜日は主のためにささげるけれども、残りの6日間は自分のために取っておくのでしょうか。礼拝のための約1時間は主にささげるけれども、残りの23時間は自分のために取っておくのでしょうか。そうではありません。すべての時間を、すべての日を、すなわち全生活を主にささげ、主に委ねて生きるのです。
私たちがささげる献金は、「今日から始まる全生活をもって、主に仕えてまいります」との献身のしるしです。また、「主よ、私の全生活を見て、知って、支え導いてください」との祈りです。まさに献金は献身です。
レプトン銅貨二枚を入れるのを見て、「生活費を全部入れたのだ」と言われた主イエスご自身が、あの十字架の上で、ご自身の命までも惜しみなくささげ尽くして、私たちの罪を赦してくださいました。この主イエスの十字架の愛を私たちは無条件でいただきました。それ故に、感謝と喜びをもって、「主よ、私をお献げします」と祈りつつ、献金=献身いたしましょう。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。・・・そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(使徒言行録 第2章41〜47節)
伝道は主の御業です。「地域」への伝道も主の御業です。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」と記されている通りです。では、ここで語られている「仲間に加え」とはどういう意味でしょうか。
この「仲間」とはキリスト信者のことです。教会員のことです。
では、どのような仲間なのでしょうか。それは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」な群れです。この群れに主が地域の人々を加えてくださるのです。
「使徒の教え」とは、使徒たちが主イエスから聞いた御言葉です。「相互の交わり」とは、その御言葉の実践、すなわち互いに愛し合うことです。「パンを裂くこと」とは、その愛が主イエスの十字架に基づく、罪の赦しの愛であることを「主の聖餐」に与ることによって何度でも確信することです。「祈ること」とは、心を合わせて主の御前にへりくだり、感謝と願いを打ち明けることです。
これらのことが聖霊の働きによってなされていくのが教会です。従って、「主にある交わり」と言う時の「主にある」とは、聖霊なる主が共におられ、働かれる交わりのことです。この「交わり」に洗礼を受けて、人々が加えられて行きます。しかも「日々」です。主は日々、建物・人・礼拝・集会を通して働いておられるからです。
あつたあそび塾 樹木剪定作業 |
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19日(日) | 「父の日」礼拝 説教 「父なる神の愛」 ルカ15章11〜32節 求道者会・バザー委員会・伝道委員会 |
24日(金) | 幼稚園創立119周年記念日 |
26日(日) | 礼拝説教 「まことの人、まことの神」 サムエル記下7章8〜13節、ルカ20章41〜44節 教会全体研修会 主題「主にある交わり〜地域への伝道〜」 発題 小林 光牧師・I兄 夕礼拝説教 「幼子のように信じる」 マタイ11章20〜30節 |
7月2日(土) | ワックス掛け(総務委員会) |
3日(日) | 聖餐礼拝 説教 「まっすぐな生き方へ」 ルカ20章45〜47節 ワックス掛け 総務委員会・CSスタッフ会・イクスウス会 |
10日(日) | 教会創立111周年記念礼拝 説教 「献身」 ルカ21章1〜4節 定例役員会 |
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