言葉の遺産 ことわざ復権を          安藤 邦男
   −ダイアナ妃のウイットに驚きと嬉しさ−



 以下の文章は、1999年10月5日《火》付中日新聞(夕刊)の文化欄に、「言葉の遺産ことわざ復権を−ダイアナ妃のウイットに驚きと嬉しさ」というタイトルで発表したものです。



 故ダイアナ妃は、チャールズ皇太子との離婚の前年の一九九五年十一月、BBCテレビのインタビューで、次のように語った。「この結婚には三人いましたから、少々混みすぎ《crowded》でした」。むろん、三人の中には夫の不倫相手カミラ夫人が含まれる。日本人の多くは、悲しみの中にもウィットを失わないダイアナ妃の語り口に感心したものであった。しかし彼女のこの言葉には明らかに、Two is company, three is a crowd.《二人では仲間、三人では群衆》という英語の諺のエコーがある。会話にいかに諺を巧みに使うかが、知識階級の教養のバロメーターとされていた中世の伝統が、イギリス王家にまだ生きていたのかと、驚きと嬉しさを感じたものであった。

 かつてヨーロッパでは、法廷や学校で諺や格言が権威をもって使用され、教えられていた時代があった。しかし、近代の合理主義の台頭とともに、諺は次第に昔日の栄光を失っていく。その事情は洋の東西を問わず同じで、諺の知恵は古臭く、説教調だといって嫌う若者もいるし、またバラバラで、矛盾するものが多いと批判する年輩者もいる。

 しかし、古臭ささや説教調はともかく、諺は果たして「バラバラで矛盾している」のだろうか。なるほど英語の諺には「人手が多ければ仕事は軽くなる」というのがある一方、「料理人が多ければスープの味は台なしになる」もある。一見、二つは矛盾しているかに思える。しかしこれを多くの人手が要る畑仕事と、一人の責任で味付けをする料理という二つの状況にそれぞれ置いて考えると、どちらにも正しさがあることがわかる。つまり、状況を考慮すれば二つは矛盾するどころか、それぞれの局面の真実を伝えていることになる。

 諺は、状況の知恵であり、論理である。古来、多くの人々がさまざまな状況の中で、それぞれの問題に対処して、諺を生みだし、使用し、伝えてきた。諺を学ぶということは、そのさまざまな立場の人たちの問題やその解決の知恵を学ぶことである。このように物事を多角的、複眼的に見ることこそ、今日の多様化社会に求められていることであり、またそれが諺の知恵の存在理由でもある。

 しかし、実はそこに諺にとって厄介な問題がある。千差万別の状況の主張を取り入れる諺は、勢いその数を増さざるを得ないからである。事実、事典類には膨大な数の諺が載っている。それを日常生活に有効に生かすには、やはりその知恵を系統的に分類・整理し、使い易くするしかない。

 ところが、これまでの諺の辞書・事典類は、英語であれ日本語であれ、ABC順やアイウエオ順に単純に並べたり、せいぜい「天候」や「結婚」などのキーワード別に分類して解説したものが殆どであった。これらは表面的・形式的な分類であって、諺の知恵の中身の分類・体系化ではない。だから、意味を調べるにはよいが、伝えたい教訓やメッセージから、それに相当する英語の諺を探し出すには、大いに不便である。その不便を解消しようとしたのが、諺の知恵の体系化に着手した動機であった。

 こうして諺の大群との悪戦苦闘が始まり、その結果として生まれたのが用法事典としての「英語コトワザ教訓事典」である。完全とはいえないかもしれないが、「教訓から英語の諺を引く」という著者の意図は、かなり達成できたのではないかと思っている。

 「諺とは何か」を定義した名言に、The wisdom of many and the wit of one.《万人の知恵、一人の機知》というのがある。これは、バートランド・ラッセルの祖父であり、イギリスの文人政治家であったジョン・ラッセル卿(1792ー1878)が語ったとされる言葉である。これは一般に、一人の機知から生まれたものを多くの人が使えば万人の知恵になる、と解釈されるが、筆者はこれにもう一つ解釈を加えたい。それは、万人の知恵となったものを一人が使えば機知となる、という意味である。諺の巧みな使い方が見事な機知を生んだ例を、われわれは冒頭のダイアナ妃に見たばかりである。

 諺は、多くの人の使用によって、伝承し、再生し、豊かになっていく。幸い、学問の世界でも一般社会でも、諺は復権の兆しを見せ始めている。いま必要なことは、国産と外来とを問わず、人類の遺産というべき諺を、日常の言語活動にもっと自由に使いこなすことではないだろうか。拙著がその一助となれば望外の幸せである。

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