新 刊 案 内



エドガー・アラン・ポオ論ほか  安藤邦男著

  2009年11月10日発行

A5版 単行本: 157ページ

出版社: 英潮社  定価 2,500円(税別)



あとがきより


エドガー・アラン・ポオの名前を知ったのは、中学時代に『黄金虫』を翻訳で読んだときでした。風景や人物の描写もさることながら、暗号解読のすばらしさに圧倒されたことを憶えています。以来、ポオの魅力にとりつかれました。大学の卒業論文はむろんポオでした。それから何年かはポオから離れ、現場の教師としてさまざまな教育実践をおこなってきましたが、近年になってようやく暇を得て、懐かしいポオにふたたび向き合い、正面からとりくみました。ポオ生誕二百周年の今年、遅まきながら、このささやかなポオ研究をみなさんにお届けすることができたことに、無上の喜びを感じています。



所収論文の紹介

エドガ―・アラン・ポオ ―詩と論理の二重性の文学―

ポオ文学のもつ二重性の全体像を、その時代と人間の関連を見すえながら記述し、彼の象徴詩的手法がどのようにして生まれたかを解明しようとしました。ポオは詩の中に「天上美」を表現しようとしましたが、それを完全に表現することには失敗しています。しかし、そのときポオが期せずして発見したのは、象徴詩の可能性でした。というのは、神秘の「天上美」は彼の意識の網の眼を逃れたけれども、その結果、意識下の深層の意味として彼の言葉に象徴性をあたえることになったからです。
(『愛知県立旭丘高校研究集録』第十四集(昭和六十三年六月)に掲載) ➪ 原文へのリンク

意識と無意識 ―『大鴉』におけるポオの方法―

この論文は、『大鴉』を『構成の哲理』と比較し、ポーの創作の秘密に迫ろうとしたものです。ポオは『大鴉』発表の約一年後に『構成の哲理』を書き、そのテーマ、プロット、長さ、リフレイン等すべて厳密な計算に基づいていると主張しました。しかしこの詩が必ずしも『構成の哲理』通りに書かれたのではないことは、ほかならぬこの書が明白に物語っているのです。また、完成されたポオの詩は彼の意図を裏切り、彼の分析的知性を超えるものとなりました。ここに、文学における無意識の問題が生まれます。そこで筆者は、ポオの無意識が言語表現においていかに暗示的意味を獲得しているか、それが彼の作品の中でいかに反復されているかを、『大鴉』を中心に追求しようとしました。また、ポオがここで〝Nevermore〟という、意味から切り離された音としての言葉の美しさを発見したことが、二十世紀言語理論や批評理論につながる新しい地平を切り開くことになったことにも触れました。
(『名古屋経済大学・市邨短期大学 人文科学論集』第四十八号(平成三年七月)に掲載) ➪ 原文へのリンク

単一への回帰志向 ―ポオ文学に見られるパターン―

  散文詩『ユリーカ』は、単一の原子から始まった宇宙が再び単一の原子に還るまでの、いわば宇宙の一生を描いた形而上学的宇宙論であります。そこに集約されているのは《単一回帰》の思想です。 この《単一回帰》の思想は、ポオの生涯を貫くアレゴリーであるとともに、彼の全作品における『ユリーカ』の位置を象徴するものでもあるといえるでしょう。本稿では、まず《単一回帰》の思想やそのパターンが、彼の著作活動を通じていかに発展してきたか、あるいは繰り返されているかを、難破船ものや『アッシャー家の崩壊』等の作品を通して跡づけました。また、宇宙の終末を扱おうとする場合には、どうしても神の存在や人間の運命を避けて通ることはできないので、それらの問題にも触れました。同時に、《単一回帰》の瞬間に、人間はいかにして神になることができるか等の形而上学的問題も、『催眠術の啓示』に言及しながら考察しました。
(『名古屋経済大学・市邨短期大学 人文科学論集』第五十号(平成四年九月)に掲載) ➪ 
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詩と科学の合体 ―『ユリーカ』におけるポオの意図―

本稿では、ポオがいかなる方法で宇宙に美と真理を見いだしたか、またそれをいかなる方法で『ユリーカ』という文学形式に表現したかを、主として彼の「直観」の方法に照明を当てながら掘り下げました。美と真理の合体というポオが生涯追求したテーマは晩年のこの『ユリーカ』において、宇宙という最適の題材を得ることによって最大限に実現されることになりましたが、一方それに比例して、彼の方法のもつ矛盾も拡大しました。ここでは、彼の試みの成果およびその限界を、ヴァレリーなどの批判に基づいて取り上げ、宇宙創世譚としての『ユリーカ』の位置づけをおこないました。
(『名古屋経済大学・市邨短期大学 人文科学論集』第五十一号(平成五年二月)に掲載) ➪ 原文へのリンク

生活記録と文学

戦後十年たち、もはや戦後ではないといわれていた当時、新しく生活記録運動が全国的な規模で広まっていました。一方、当時の文壇には、「国民文学論」が華々しく登場していました。そのころ、岩波書店の月刊誌「文学」は、「生活記録と文学」というテーマで論文を募集しました。これは、そのとき応募し、幸運にも第一席に選ばれた筆者の論文です。筆者はここで、生活記録が機能的に持っている教育と文学との両側面を取り上げ、それを従来の文学と比較し、その特徴を明らかにしようとしました。そして既成文学の側も、生活記録の側も、お互いに相手の長所を吸収することによって、新しい国民文学として成立するのではないかと、両者に対して問題提起をおこないました。
 参考のため、次に選考の過程をしるした『文学』編集部の批評を付記します。【編集部評】入選論文の発表に当って応募原稿は総計二十八点。(中略)この二十八篇の中から第一次選考で十五点を残し、更に慎重に審査した結果、安藤邦男氏、鈴木実氏、橋本二郎氏の三篇を入選と決定いたしました。 安藤氏のものは、今日出されている意見をよく消化し、正確に理解して、その上に立ってオーソドックスの見方を示されたこと、また、多くの問題提起がなされている点を評価いたしました。(後略)
(『文学』VOL.24 岩波書店(昭和三十一年三月号)に掲載) ➪ 原文へのリンク

文学批評の原理と方法(序説)

今は亡き教え子、三輪幸男君が創刊した同人誌に寄稿した論文で、そのころ興味をもっていた批評論を大ざっぱな素案としてまとめたものです。論文としてはいくつかの欠点も見られますが、新しい文学批評論を創り出そうとする当時の若者の意気込みを読み取っていただければありがたいと思います。
(『
われらと』一号(昭和三十四年一月)に掲載) ➪ 原文へのリンク

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