アメリカ西海岸の旅(2)

    安藤 邦男

 平成8年3月17日から3月25日まで


    <スタンフォード大学次男宅およびサンフランシスコ近辺訪問記録>


        日          程    

3月17日(日) (第1日) ひかり47号名古屋発(13:03)−新大阪着(14:04)−はるか35号発(14:46)−
                関空着(15:31)−UA810発(20:00)−SF空港着(12:40)     次男宅泊
3月18日(月) (第2日)                                      次男宅泊
3月19日(火) (第3日) サンフランシスコ観光                    SF日航ホテル泊
3月20日(水) (第4日) ナパバレー旅行                     ナパバレーロッジ泊
3月21日(木) (第5日) ナパバレー旅行                           次男宅泊
3月22日(金) (第6日) スタンフォード・ショッピング・センター               次男宅泊
3月23日(土) (第7日) サンタクルーズ                            次男宅泊
3月24日(日) (第8日) SF空港発(UA809便)(12:55)−                   機内泊
3月25日(月) (第9日) 関空着(17:35)−はるか関空発(19:48)−新大阪発(21:33)−名古屋着(22:35)

 滞 在 場 所  次男宅 宅 100A,EV,STANFORD,CA,94305

 同  行  者 妻 長男 嫁 孫2人

3月17日(日)(第1日) 関西空港からSF空港を経て次男宅へ


11・00  妻と二人で、わが家を出発。あいにくの雨であるが、今回は二人分のショルダーバッグだけをもっていけばいいので、それほど苦労しない。スーツケース2箇はすでに関空まで送り済みである。もっとも、ケースの中身はほとんどが孫の離乳食などの土産物ばかり。いつも愛用の買い物用カートに荷物を縛りつけ、その上に濡れないようにビニールカバーを掛ける。

雨のためか、日曜の昼の地下鉄はかなり空いている。松阪屋で発水スプレーを買い、2人の靴に振りかける。ついで、8階の食堂街で豚カツと刺身の豪華昼食。これで腹ごしらえは十分。当分は日本食にありつけないことを見越しての喰い貯めである。

13・03 ひかり47号の指定席に乗る。14・04 新大阪に到着、改札口で長男一家と落ち合う。

14・46  「はるか」35号で新大阪発、関西空港へ向かう。約45分後の午後3時半、関空に着。UA810便は午後7時の出発だから、時間はたっぷりと4時間以上ある。ゆっくり食事して構内を見物したり、ウィンドウショッピングしたりしようということになった。

しかし、後になってわかったことだが、この考えは甘かった。長男らがまだ昼食を済ませていないというので、何か軽いものをと空港内をぶらぶら歩いて、とある中華料理店でチャーハンやギョウザを食べる。

1時間ほど費やしてから、ペリカン便の受け付けに行ってスーツケースを受け取る。その足でUAのカウンターへ行って、我が家が2箇、長男家が2箇、計4個の荷物を頼もうとしたが、これが何と長蛇の列をなしていて、しかも受付係の仕事ののろいこと、受け付けが終わるの2時間近くかかったのにはあきれ果てる。サボタージュか何かしているに違いなかろう。それから身体検査を受け、搭乗口にたどり着いたのが6時半頃、しかし今度はなかなか乗せてくれない。多分荷物の受け付けの遅れのせいであろう。7時半頃やっと乗ってからも離陸までの順番待ちを経て、予定の1時間遅れである。

20・00  UA810便は、やっとサンフランシスコへ向けて関西空港を離陸。

かくして、われわれ夫婦と長男一家とのスタンフォード旅行は始まったのである。平成7年1月長男が神戸大学で7年越しの研究が実り、医学博士号を取得した直後、お祝いにアメリカへ連れていってやるといったのが発端となった。しかし、私としては長男も忙しそうであるし、孫たちもまだ小さいので、もう少し先になってからでもよいではないかと言ったが、長男は次男が留学している間に是非とも行きたいというので、今回の時期を選んで実現の運びとなったものである。

機内で少し落ちついたところで、時計を現地時間に合わせる。サンフランシスコとの時差は17時間なので、腕時計の針を17時間遅らせる。離陸直後の17日午後9時を同日の午前2時にした。

途中、食事が2回、いずれも旨くない機内食で、孫たちはほとんど食べ残したらしい。

12・40  1時間遅れで、サンフランシスコに到着。スーツケースの検査は案外厳しかったが、幸いなことに生肉を持っていなかったので、引っかからなかった。生肉がどうしてレーザー検査でわかるのか知らないが、何人かの旅行客がスーツケースを開けさせられ、取り上げられていた。

外へ出ると次男と次男の嫁が迎えに来ていた。快晴で、暑いくらいである。息子らはすでに半袖シャツを着ている。長男は Hertz でレンタカーを借りて、一家がそれに乗る。先導する次男は、初めて左ハンドルの運転をする長男のことを思慮してか、慎重運転である。

14・30  次男宅に到着。長屋形式ではあるが、2階建ての内装のしゃれた家に住んでいる。1階はダイニングキッチンと居間、2階は書斎と寝室で、前の高層住宅よりかなり余裕がある。それに、共同の裏庭が広く、芝生が美しい。【写真左】

15・30  次男が買ってきたハンバーガーで、遅い昼食を食べる。食後、雑談したり、裏庭を散歩したりする。

20・00  夕食は、次男の嫁の手料理のシチュー、薄味な健康食である。まずビールで乾杯。長男の博士号を取得したことや、次男の留学が6月で無事終わることなど祝う。長男は今年の10月、単身ロスへやってきて学会に参加するという。次男は今週の金曜日のテストを1科目残すだけとのこと、それを済ませば後はJICAに報告する資料をまとめるだけという。

こうして、次男家訪問の第1夜は更けていった。そしてそれぞれが寝室に引き下がる。私と妻は次男の書斎に泊まり、長男らは次男の寝室に、次男らは階下の居間に寝るという、臨時の部屋割り。1軒に3世帯9人が寝るのだから、狭いのは当然である。

23・00 就寝。


3月18日(月)(第2日) スタンフォードの英会話学校見学とショッピングセンター巡り


07・00  起床。朝食

08・30  ミセスシャレイに会いに語学学校の授業に出かける。歩いて5分ほどの距離のところに大きなビルがあり、そこの1階で外国人のための英会話の授業が開かれていた。ここは妻が去年の4月、孫の誕生の時やってきて、半月ほど授業を受けた学校である。

ビルの入り口でシャレイ先生に会う。妻から名乗ると、すぐに思い出したようである。妻は絵葉書などのお土産を渡す。そのまま授業に参加させてもらう。30人ほどが3、4人ぐらいのグループに分かれて、テーマ別に質問し合う形式の授業であった。私は、イラン人とトルコ人のグループと話し合う。たまたま食べ物の話しがテーマとなって、それぞれの国の食べ物を話し合ったが、外人は2人ともアメリカのフードは嫌いだと主張していたのが印象的であった。もっと居たかったが、時間がないので、30分ほどで退席する。

10・00  全員が車で、キャンパスの中心であるメイン・クワッドに出かける。このあたりは大学の中心で、フーバータワーや教会をはじめ、校舎、研究所、図書館などが集中している。私は2度目である。格調のある雰囲気が懐かしい。それからまた車で、近くのスタンフォード・ショッピング・センターへ行く。ここは、一大マーケットプレイスで、数多くの有名デパートやブティークが軒を並べている。【写真右】

昼食は、メイシーズ(Macy's)の側にあるレストランで、ハンバーグなどの軽食。食後は買い物。私は半袖のTシャツを買って、早速着替える。博士号取得を記念して、次男が長男にプレゼントをするという。その品選びもあって、長男らもそれぞれ買い物に忙しい様子。

今日はむしばむほど暑い。プロムナードの木陰に休むと、風が心地よい。しかしこの暑さは、今日を最後として、帰国するまで戻らなかった。肉屋によって、バーベキュー用の肉とソーセージをたんまり買い込む。

帰途、パロ・アルトという地名の起源となったレッドウッド見るため、回り道をする。「Palo Alto」とはスペイン語で、「高い木」を意味する。このアメリカ杉、今は真ん中ほどで折れ、枯れはじめた老木であるが、18世紀、スペイン人がこの地に始めてきたときは、目を見張るばかりにそびえ立った巨木であったという。次男が息子に「大樹」と名付けたのは、むろんこのパロ・アルトに由来している。

「大樹」の名の出たついでに一言加えるならば、中国に「大樹将軍」の故事がある。「後漢書馮異伝」によれば、後漢の武将馮異は諸侯が功を誇る中で、ひとり大樹の下に退いて、誰にも功を誇らなかったという。そこから「大樹将軍」の異名がつき、略して「大樹」ともいった。謙虚であるばかりでなく、馮異はまた、なかなかのインテリでもあって、読書を好み、「春秋左氏伝」や「孫子」の兵法に通じたという。

ところでこの「巨木」、ちょうどカルトレイン(CalTrain)という鉄道の線路わきにある。次男の最初の説明によれば、列車の通行は1日1、2回くらいだという。しかしである。われわれのいた30分くらいの間に、2度も列車が通過したのには、みな呆れて、大笑いする。ラッシュアワーのせいとか何とかいったが、それにしても次男の知識は、鼎の軽重を問われることになった。だが、列車の通過は多ければ多いほどいい。写真を撮るチャンスが増え、みな喜んだ。あとで旅行案内を見たら、このカルトレインはサンフランシスコとサンノゼを結ぶ郊外通勤列車で、1時間に1、2本のわりで運行していると書いてあった。

18・00  裏のテラスでバーベキュー。よく飲み、よく食べた。11・30 睡眠剤を飲み就寝。


3月19日(火)(第3日) サンフランシスコ市内見学とベイクルーズ


07・30  起床。熟睡の後の快い目覚め。裏庭を見ると、リスが2匹跳ねている。のどかな風景である。カメラを手にして出てみると、リスはもういない。麻綾や紗綾らと、しばらくシーソーに乗ったりして遊ぶ。アメリカ人女性が1人、孫を連れて日光浴をしている。挨拶を交わす。

09・30  車でサンフランシスコに向けて出発。

10・00〜10・30  途中のハンバーグ店で朝食。

12・00  サンフランシスコのニッコーホテルに到着。早すぎて、まだチェックインできない。車と荷物を預け、昼食を取る予定のヤムチャ料理店まで歩くことにする。途中、中華街を通る。このあたりは1昨年の夏の夜、歩き回り、その中の1軒でロブスターや北京ダックを食べたことを憶えている。そこをさらに通り抜ける。ビジネス街にある中華料理店までは、かなりの距離があって、歩き疲れる。

14・00  高層ビルの1階にある「ハーバー・ビレッジ・レストラン」で、点心のヤムチャ(飲茶)料理を食べる。なかなかうまい。店内は、ビジネスマンらしき白人が多い。ウエートレスが、ちょうど新幹線の車内販売のようなカートを押して回ってくる。客は好きなものを自由にとって食べるというシステム。なかなか合理的である。

15・30  近くからタクシーに乗り、フィッシャマンズワーフで降りる。そこで遊覧船に乗り、約1時間のサンフランシスコ湾周遊クルーズ。【写真左】

風は少々冷たいが、快晴。携帯用ラジオで説明を聞き、甲板上をあちこち移動しながら、左右の湾岸の風景を眺める。大型遊覧船は、西はゴールデンブリッジまで行って引き返し、東はアルカトラズ島を回遊して、再び出発地点に帰ってくる。ゴールデン・ゲート・ブリッジを真下から眺める光景は、また格別である。アルカトラズ島は今は観光地であるが、以前は脱獄不能を誇った監獄で、マフィアの帝王アル・カポネもここに収容されていたという。

17・00  上陸してから、ワーフの露店を歩く。とある店で、カニを買って食べる。この図、1昨年と同じパタンである。しかし、妻によれば、その時ほどのうま味はないという。2度目はやはり感激がうすいと知れた。ケーブルカーの乗り場は、相変わらず混雑している。大道芸人のショーも、1昨年と同じである。1時間ほど待って乗車。激しい坂道を上下しながら、終点まで来て、そこで下車。ホテルまで歩く。

途中、次男か次男の嫁がどこかで見たような顔を見つける。1昨年のあの時のあの男だ、と言い出す。なるほど、間違いない。世の中、まことに狭いもの。去年、この同じサンフランシスコの街で、添乗員だと偽って、われわれをある日本人ツアー目当ての店まで連れていったぽん引き氏である。今回も、2人の日本人女性を案内している。あれから同じことを繰り返しているのかと思うと、商売とはいえ、いささか哀れな人生ではないか。

ニッコウ・ホテルのロビーで手荷物を受け取り、カギをもらう。部屋は、21階に3家族ならんでいる。設備は新しく、気持ちがいい。窓から眺める夜景も、素晴らしい。時間が少々あるので、ホテルのプールで泳ぎ、ジャクージーにつかる。長男、次男、麻綾と1緒に泳ぐ。後から妻と長男の嫁も泳ぎに来る。

19・00  ホテルから出て近くの寿司店「勘太郎」で夕食。有名らしく、すごく混んでいる。3家族バラバラに席につき、好きなものを注文する。期せずしてみな上寿司を食べる。人気の店だけあって、さすがにうまい。カウンター越しにしゃべる日本人の板前によると、寿司ネタはすべて、アラスカのような遠海で漁れたものばかりらしい。サンフランシスコ湾の魚は、汚染がひどくて食べられないという。

21・00 ホテルに帰る。次男の部屋と違って、まったく広い。ベッドにのびのびと横になる。

22・00 就寝。


3月20日(水)(第4日) サンフランシスコから動物公園を見てナパ・バレー・ロッジへ


07・30  起床。次男がどこかでハンバーガーを買ってくる。次男の部屋で、一緒に食べる。

09・00  ホテルを出発、ナパに向かう。途中、急傾斜ではサンフランシスコ第一というアジサイの坂道を車で降りる。一昨年ほどのアジサイは咲いていなかった。途中、ゴールデン・ゲート・ブリッジの南の橋下で下車、写真を撮ったりする。【写真右】

そこから、要塞フォート・ポイント(Fort Point)に向かう。ここは、海上からの攻撃からサンフランシスコを守るために建設されたという砦。今は博物館になっているが、館内には入らず、岸壁に立って、湾を眺める。風が強く、波が高い。サーファーが1人だけ泳いでいる。しばらく勇壮な波しぶきに見入る。

11・00  「マリン・ワールド・アフリカ・USA」(MARINE WORLD AFRICA USA)に入場。ここは、人間と動物の触れ合いを目指したというテーマパークの1つ。【写真右】

キリンに餌をやったりして、園内を周遊しているうちに、昼食の時間になる。

12・00 カフェテリア前のベンチで、サンドイッチの昼食。この頃から、私は何となく喉に痛みを覚え始める。どうやら風邪の前兆のよう。昼食後、蝶の温室に入ったり、トラのショウを見たり、カンガルーの囲いの前を通ったりする。しばらく行くと、エレファント・ライディングをやっている広場に出る。象乗りの体験は初めてなので、早速長男一家とわれわれ夫婦とで乗ることにする。象の背中はすごく広い。大の大人4人と子供2人が、楽に乗れる。しかも、象はびくともしない。ただ、歩き出すと、象の背中の骨が人間の尻の骨に当たって、かなり痛い。150メートルほどを1周する。次男が地上から写真を撮ってくれる。よい記念になった。【写真左】

15・30  シャチとイルカのショーを見る。トレーナーの合図で、シャチは泳いだり、飛び上がったり、水をはねたり、プールサイドの見物客は水びたし。しかしアメリカ人の若者や子どもたちは、歓声をあげて喜んでいる。すごく飼い慣らされたものだと感心する。その後で、マジック・ショウを見る。人体の空中浮遊や、人間とトラの入れ替わりなど、薄暗い部屋でもなければ、まして護摩化しのきくテレビ画面などではない。眩しい太陽の下の、目の前に180度広がる舞台の上である。それが、人間の姿が忽然と消えるのである。仕掛けは皆目わからない。まるで白日夢を見る思い。

終わって帰るとき、長男の嫁がハンドバッグをなくしたという。探しに行ったが見当たらない。落としたか盗られたか、いずれにしても、出てくることはまずなかろう。しかし、保険の請求が出来るかも知れないということで、ひとまず遺失物事務所へ届け出る。このとき、われわれはそれが見つかるなんて思いは露ほどもなかった。しかし驚いたことに、1ヶ月ぐらい後に、連絡先の次男の家にそのバッグが見つかったという知らせが入り、実際に戻ってきたのである。アメリカでもそんなことが起こり得るのである。

17・00  遊園地を出る。

18・00  「ナパバレーロッジ」に入る。ハイウェー沿いの辺鄙な一角にある山荘風ホテルである。外観がみすぼらしいので、次男が嫁に「ここに間違いないか」と念を押したほど。しかし、中へはいると素晴らしくきれいで、部屋は広い。喉がやはり痛いので、長男にうがい薬をもらう。入浴後、少々寒気を感じる。次男に頼まれていたので、ロッジのフロントへ行き、近辺の適当なレストランを尋ねる。フロント係は「フランキー」というイタリア料理店が1番うまいという。場所を地図に書いて、親切に教えてくれる。

19・30〜21・30  イタリア料理に舌鼓。【写真右】

ビールとワインもうまい。酔いも手伝い、私の風邪の熱はますます上がった模様。明日の朝の気球小旅行は、みんなの反対で中止と決める。残念。元気ならば、予定どおり夫婦で、絶対に乗っていたものを。

22・00  帰宅。今日はよく歩いた。万歩計を見ると、1万歩になっている。道理で疲れたはずだ。うがいをし、解熱剤と抗生剤を飲む。すぐ休む。

22・30  就寝。


3月21日(木)(第5日) ナパのワイナリー(ブドウ酒醸造所)を見学し、スタンフォードへ


07・30  起床。まだのどが痛く、体がだるい。微熱がある模様。

08・00  ロッジの中庭のプールサイドで、バイキング形式の朝食。次男1家と1緒に食べる。プールは温水で、1人が泳いでいた。長男一家はまだ寝ているらしい。食べ終わって帰ろうとする頃、長男らがやってきた。1人先に帰ってベッドで休む。昼までとろとろと眠る。その間、みんなは温水プールで泳いでいたと、後で聞く。眠ったせいで、少々元気になる。

11・00  ロッジを出発、ナパのワイナリー(葡萄酒醸造所)を見に行く。30分ほどで、ワイナリーの1つ、スターリング・ヴィニヤード(Sterling Vineyard)に着く。【写真左】

まず空中ケーブルに乗り、丘の上からナパの一帯を見おろす。ついで、葡萄酒の出来るまでの過程を工場見学。【写真右】

最後に、ワインの試飲をする。私は空きっ腹にワインの味がしみて、なかなかうまいと思ったが、妻や次男はあまりうまくないと言う。帰り間際に、スターリング・ヴィニヤードの商標入りのワイン袋を6個買う。

13・00  ワイナリーを出発、ガイザー(間欠泉)を見に行く。【写真左】

ナパバレーの北、カリストガー1帯には温泉がいくつか湧き出ている。しかし間欠泉は珍しく、この「オールド・フェイスフル・ガイザー」しかないという。説明によれば平均40分に1回噴出するという。入り口を入り、広い中庭で待つことしばし、10メートルほどの熱水が1、2分吹き上がった。運良く、写真に撮れた。似たような光景は別府で見たことを思い出す。しかし案内掲示には、間欠泉は世界に3つ、このカリストガーと、イエローストーンと、もう1つニュージーランドにあるだけとあった。日本の別府のことを知らないとは、情報不足もいいとこだ。

14・00  スタンフォードの次男宅に向かう。ドライブの途中、食事する場所を探しても、なかなか格好な場所がない。結局、ハンバーガーサンドとコーラなどを買って帰り、家で食べることにする。

道すがら、次男と経済学のことを話す。

私の考えでは、先の見通しの出来ない経済学は、学問の名に価しない。科学性を標榜したソビエトのマルクス経済学が、実は自国の政治体制も維持できないような脆弱なものであったり、不況を克服したと豪語する近代経済学が、バブルの崩壊とそれに続く不況の予測もできなかったりするのは、人間の経済活動を法則化して掴んでいない証拠ではないか。そんなものは学問ではない。のみならず、日銀が勝手に公定歩合を引き下げ、年金生活者の利息収入を収奪して、銀行を肥やすような政治の仕組みを許すのもまた経済学であるとすれば、この学問は人間の福祉のためにあるどころか、むしろ犯罪に手を貸しているとさえ言ってよいだろう。

次男はさらに続けて言う。経済学はマクロ的には景気の動向を把握しているし、また小さな好況不況の波を起こすことによって、大不況の到来を回避させている。これは何といっても近代経済学のお陰であるという。しかし、小さな不況でも、不況は不況で、弱い人間には命取りにさえなる。ないに越したことはない。どうしてもなくならないとすれば、不況を乗り越える対策を、制度としても、個人としても、もっと強力に推進すべきである。地球科学が地震予知に本腰を入れているように、経済学はもっと本気で不況の予知と、そしてその対策に取り組むべきでないか。

ときどき、妻が私の背中をつつく。次男を話しに夢中にさせては、危険だという合図だ。気がつくと、車はすでにベイブリッジを通り、スタンフォードに入っている。早いものだ。

15・00  帰宅。買ってきたもので腹ごしらえをする。少々休む。

19・00  近くの日本料理店「権兵衛」へ行く。相変わらず、日本料理店はアメリカ人で繁盛している。刺身や海老の盛り合わせを、みなで分け合って食べる。身体を心配してくれるのは嬉しいが、ビールを制限されるのは辛い。

21・00 帰宅。その足で、次男は大学の図書館へ出かける。明日の試験に備えるため、これから勉強してくるという。はじめは深夜までの予定だったのが、1時間ほどで戻ってきたようだ。

23・00 就寝。


3月22日(金)(第6日) スタンフォード・ショッピング・センターで買い物


07・30  ゆっくり起床。すでに次男はテストを受けに、大学へ出かけている。最後に残った1単位で、これが終わるとマスターに必要な単位はすべて終了という。あとは暇になり、最後のクオーターでは好きなものを取ってもよいし、取らずに自由研究をしてもよいという。人生には、このような仕込みと発酵の時期が必要である。

10・00  次男が帰る。夕べ予習したところがばっちり出たと言って、喜んでいる。すぐ買い物に、再びショッピング・センタ−へ出発する。途中で、小高い丘がある。妻が去年来たとき登って、感激した場所という。みんなを連れていくよう、次男にたのむ。丘は、ちょうど奈良の若草山を大きくしたようなもので、1面緑の芝生で覆われている。なだらかではあるが、登るにつれて、息が切れる。【写真右】

頂上からの見晴らしが、素晴らしい。遠く地平線上には、サンフランシスコ湾が瞥見され、左手にはフーバータワーが屹立している。次男によれば、スタンフォードから右手に広がるこの一帯は、有名なコンピュータ・ビジネスのメッカ、シリコン・バレーだという。【写真左】 何枚か写真を撮った後、丘を降りる。

12・30  ショッピング・センター内のハンバーガーショップで、サンドイッチなどの軽食。食後は、拡大鏡つきスタンドを買いに、次男は私だけを電気ショップへ連れていく。みな買い物に忙しい様子。長男夫婦はカーテンの生地選びに時間をかけている。われわれはリッカーショップで、スターリングヴィニヤードのラベルのあるワインを発見、計8本を買う。

下痢気味だったので、メイシーズでトイレを借りる。トイレで新しい発見をする。何と便座に敷く用紙が備え付けてあるではないか。思い出すのは、20年前ヨーロッパ旅行をしたときのこと、誰が使ったかわからない公衆トイレの便座に、裸の尻を押しつけたときの気色悪さといったらなかった。この嫌悪感は、日本人が洋式便器になれていないせいであると、まるで非がこちらにあるような言い方があの頃はされていた。しかし、時代は変わったものである。外国航空機はすでに何年も前からJALなどの真似をして、便座用紙を備え付けていた。それが今では、これは後になって知ったことだが、サンタクルーズの遊園地の公衆トイレにも、便座用紙が備え付けてあった。公衆衛生の普及のせいかも知れないが、ここはやはり清潔を尊ぶ日本文化の輸出が原因だと考えたい。

18・00  帰宅。食事は次男の嫁の手作りの豚カツ。なかなか美味しい。ついでだが、豚カツはれっきとした日本料理である。その理由は、箸で食べられるように切ってあるからだという。そういえば、ラーメンも日本化した麺類であって、本格的中華料理店では食べられないことは、ロンドンで体験済みである。

23・00  就寝。


3月23日(土)(第7日) サンタクル−ズへ日帰り旅行


07・00  起床。風邪が再発したのか、喉が少々痛い。缶ビールを1本飲む。朝食はまたハンバーガーにジュースとコーヒー。この食べ物、アメリカ人の定番なのか、彼らは本当によく食べる。次男らはすっかりアメリカナイズされたのだろう、ハンバーガーやホットドッグが好きなようだ。長男らも、日本にいるときも結構ファーストフードへ行っている。若者には合うかもしれないが、和食になれた日本人には、脂っこくて少々胃にもたれる。年のせいもあろう。むかし学生の頃、進駐軍のPX(酒保)でアルバイトしたとき、ハンバーグとコーラを初めて知り、世の中にこんな旨いものがあるかと、感激したことを思い出す。だが今は、そのハンバーガーが負担である。

09・30  サンタクル−ズへ出発。

12・00  フィッシャマンズワーフに到着。【写真右】

1昨年はワーフの先端の小さいレストランで、やはり海を見ながら、スープやコーヒーを飲んだことを思い出した。だが、桟橋の下を覗いても、この前見たアザラシは1匹もいない。時期が悪いのだろうか。ワーフの中間に位置するかなり大きなレストランで昼食。クラムチャウダーなどの海鮮料理を食べる。食後、ワーフから見渡すことのできる「サンタ・クルーズ・ビーチ・ボードウォーク」に出かける。カリフォルニアで1番古いといわれる遊園地である。

土曜日だけあって、かなりの人出。快晴ではあるが、遠くの波打ち際にはかなり高い波が打ち寄せ、サーファーたちが10人ほど波乗りを楽しんでいる。私と妻は、浜辺で孫たちを相手に遊ぶ。若い親たちは、久しぶりのカップルを楽しんでいる。交替しては、われわれ老夫婦も若者よろしく、空中リフトにツーショットで乗る。観覧車や洞窟列車には、麻綾と紗綾を連れて乗り込む。終日、遊びほうける。

18・00  サンタクル−ズ遊園地を出発。帰途、夕食をサンノゼあたりのコリアンハウスで、韓国料理を食べる。前菜から始まって、メインの焼き肉、デザートにいたるまで、すごく種類が多い。韓国ビールもうまい。みんな、最後の夜の晩餐を楽しむ。

20・00  帰宅。明日は早いので、早速荷造りにかかる。妻が風邪気味という。大事にならなければよいがと思う。来るときと比べて、帰りのスーツケースはかなり軽い。ただ、ワインは重いので、6本はショルダーバッグで機内持ち込みにし、2本はスーツケースに入れる。ワインはスーツケースに入れてはいけないことを、このときわれわれはまだ知らなかった。

24・00 就寝。


3月24日(日)(第8日) 次男宅からサンフランシスコ空港へ


07・00  起床。私はすっかり風邪が治ったが、妻がいよいよ本格的な風邪の模様。妻を寝床に残し、次男と自転車で、家のまわりを2周する。しばらくあとで、長男と長男の嫁もサイクリングに出かける。フーバータワーまで行ったという。

09・30 スーツケースなどの荷物を、車に積み込む。孫の大樹も風邪で発熱、38度台らしい。家に残すという。次男の嫁と大樹に別れを告げ、思い出の次男宅を後にする。それにしても、麻綾も、紗綾も、いや、いつも花粉症で苦しんでいた長男夫婦が、熱も出さず、体調も崩さなかったのには少々驚いた。このアメリカの気候が合っているのか、それとも風邪はすでに日本で十分引き終わってしまったというのか。

10・20  サンフランシスコ空港着。長男と次男がレンタカーを返しに行っている間に、UA航空のカウンターで受け付けを済ませる。来るときと違って、帰るときは割と簡単に、10分ほどで手続きが終わった。ただ、預けたスーツケースのレントゲン透視で、中身のワイン2本が発見され、入れないようにと注意を受ける。「ワインを出すのか」と尋ねると、向こうも面倒と見えて、結局「割れ物注意」の特別扱いをしてもらうことになり、そのまま許された。それにしても、透視の精度の確かさには感心する。次男が戻ってきたので、1週間の世話になったお礼をいう。あと3カ月だから、頑張るようにとも伝え、別れる。

11・00〜12・00  免税店で買い物。長男たちも何か買っているらしい。われわれは当初の予定どおり、チョコレートとナッツをまとめて買う。時間があったので、1杯のうどんを妻とわけて食べ、長男らには寿司を買い与える。

13・50  予定(12・50)より1時間遅れの出発である。座席は窓側3つと、スクリーン前の中央が3つである。長男の嫁と子供らは窓際にすわる。飲み物と食事はなかなか出てこない。出発して2時間ほど後にやっときた。軽く昼食を取っておいたのは、正解であった。風邪気味の妻は食欲がないのであろう、ほとんど箸をつけない。

18・00  日付変更線を通る関係で、時計を17時間すすめ、日本時間に合わせる。サンフランシスコの24日午後6時は、日本時間の翌25日の午前11時である。


3月25日(月)(第9日) 関西空港からわが家へ


11・00  17時間進めて、時計を日本時間に合わせる。眠れないので、映画をずっと見る。

16・00  2回目の食事。今度も妻はほとんど食べない。

18・00  関西空港着。飛行時間は約11時間ということになる。宅急便のデスクで、スーツケース2個を依頼する。ワインは割れやすいので、もって帰ることにする。帰りの切符を買い、新大阪で下車。うどんの立ち食いをし、長男一家と別れる。

21・33  ひかりに乗り、新大阪を出発。1時間後名古屋に到着。地下鉄に乗り換える。妻の風邪ますます激しい様子。

11・30  なつかしのわが家へ帰る。いつもはここで終わるのだが、今回はそうはいかない。妻が風邪でダウン、私は慣れぬ家事できりきり舞い、やっと平静にもどり、時差ボケも脱したのは、29日(金)味鋺の叔父の家に招待された日であった。


<後日談>

3月25日、妻は病み上がりの身体を押して,一緒に叔父の家へ出かける。アメリカからの遠来の客、保子は元気であった。従兄の正義氏も来ている。95歳になる叔父は、やや弱ったとはいえ、まだまだ元気である。88歳の叔母もしっかりしている。寿司屋でご馳走になり、帰りは正義氏に送ってもらう。楽しい1日であった。
                                  終わり

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