「歳々年々人同じからず」
                  ー東奔西走ー                安藤 邦男

                     「たまみず」27号 愛知県立昭和高等学校 PTA会報
                                        昭和62年 2月26日


▼今年も、四百五十六名がめでたく本校を去る。三年前、鳥にたとえれば雛であったものが、いまや成鳥となって巣立つ。桜にたとえればつぼみであったものが、いまや満開の花を咲かせている。まことに、この三年間の彼らの成長は目覚ましい。保護者の方々の喜びも、ひとしおであろう。しかし教師は喜びの中にも、一抹の淋しさを禁じえない。それは丹精して育てたものを手放すときの、哀惜の念である

▼卒業式のたびに、思い出す詩がある。唐の詩人、劉廷芝の「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」である。詩人はある日、まずこの一連の句を得、それを敷えんして長詩「白頭を悲しむ翁に代わる」を作ったという。むろん「人同じからず」の句には、変わらない花の美しさを前にしての、変わりゆく人間の悲しみが、こめられている

▼ある会社の入社試験にこの句が出題されたところ、「同じことをくり返す自然に対し、年々成長する人間の偉大さを詠んだ詩」と解釈したものが多かったという。誤解とはいえ、いかにも青年らしい考え方ではないか。若者が「歳々年々人同じからず」の句を得たとすれば、それに自分の成長を讃える喜びを託すのは、当然かもしれない

▼発展であれ、退化であれ、人間は同じところにとどまることはできない。それだけに、ひとは現在という時間を大切にし、向上の努力を怠ってはなるまい。四月には、咲き誇る桜を眺めて、白頭を嘆くのではなく、若者のように、自らの成長の成果をかみしめ、喜びたいものである。(安藤邦)

                               教育関係目次へ