「学ぶことと問うこと」                             安藤 邦男

                              「ちぐさ」No.9 愛知県立千種高等学校
                                         昭和42年 3月 1日


 「われ思う。故にわれあり」というデカルトの命題の意味するものは、ひとはあらゆることに疑いをもつことはできても、このように疑っている自己の存在だけは疑うことはできないということである。こうして、デカルトは自我を発見し、学問と科学の近代化への道を開拓したのである。

 諸君はこれから大学へ入り、いよいよ本格的学問に取り組むことになる。ところで、学問とは何であろうか。学問とは、字義のごとく、「学ぶ」ことであり、また「問う」ことである。「学ぶ」とは「まねぶ」であり、与えられた知識を摂取することである。「学ぶ」ことによって、われわれは知識の遺産を継承することはできるが、しかし発展させることはできない。知識や学問の発展は「問う」ことによって可能になる。「問う」ことは「疑う」ことであり、すでに出来上ったものを批判し、新しいものを付け加えることである。

 学問における「学ぶ」ことと「問う」ことの二つの契機は、個人の問題としてもあてはまる。学ぶ心と問う心の両方があって、はじめて勉強の効果はあがる。しかし両方といっても、高校時代はむしろ学ぶことに重点がおかれる。それに反して大学では、問うことに大きな比重がおかれる。何故なら、大学は学問の発展自体に寄与しなければならず、学生は学習者であると同時に、真理の探究者だからである。真理は、あるときは混沌の中で虚偽と一体となっている。その中にあって、われわれはまず一切のものを疑わねばならぬ。どうしても疑い得ないものがあらわれたとき、それが真理である。しかし、このようにして到達された真理は、次の瞬間には再び疑われ、否定され、創りかえられなければならない。こうして、真理はより高い絶対的なものへと、無限に発展していくものである。

                              教育関係目次へ