「集団と固人」                    安藤 邦男

                           「東雲」第5号 愛知県立名古屋西高等学校生徒会
                                            昭和39年 3月 1日


ある一年生の日記

 集団と個人という問題をここで考えたいのですが、話を進めるきっかけとして、まず今年入学したある一年生ーかりにA君と呼びますーの日記をのぞいて見ることにしましょう。

四月×日
 感激の入学式も終って、いよいよ憧れの高校生。昨日までの灰色の生活とはおさらばだ。新しいホームルームに入る。みな知らない顔ばかり。隣りの奴はいかにも秀才らしい。どの顔も乙に済ましているのが不安である。担任の先生は紳士然とした物腰で、恐しく早口だ。終るとサッと消えてしまった。明日から大丈夫かしらと、心細い。早く友人が欲しい。

四月×日
 早いものだ。もう入学して半月たつ。友人も数名できた。隣りの秀才居士は、案外俗物と見た。口をきけば、みな同じように友人を欲しがっていることがわかる。不安がやっと消えた。

五月×日
 授業にもだんだん馴れた。クラスの者ともたいていは話ができる。これから大いに勉強に運動に張り切ろう。夢にまで見た高校生活だ。悔いのない毎日を送ろう。

九月X日
 二学期がはじまったのに、この頃はどうも調子がでない。勉強も思うようにはかどらない。中学とちがって、高校はどうもエゴイストが多い。自分のことだけを考えている奴は信用できない。

十一月×日
 学校祭はその期間だけのものだろうか。切角出来かけたクラスの協力態勢は、もうくずれ始めている。しかし誰も何とも言わない。俺の発言に対して、皆が反対した。勝手にしやがれだ。

一月X日
 友人はかえって負担だ。高校生活とはこういうものだろうか。みなのために働くのは損だと隣りの奴はいう。勉強が第一だと前の奴はいう。俺も馬鹿らしくなったから、クラスから一切手を引いて、自分のことだけしようと思う。

集団を求める心と集団を避ける心

 この日記は、一人の新入生が最初は希望をもってクラスのものと交友関係をもとうとするが、いろいろな障害にぶつかって失望をくり返すうちに、次第に友人から離れていく過程を示しています。集団と個人について考える手がかりとして、ここには二つの問題が含まれていると思われます。一つはA君が入学当初、新しいホームルームという集団の中で、「不安感」を抱くということです。これは個人がその集団から切り離されていることから来る不安であって、その不安の底には、早く集団の一員として集団に融け込みたいという願望があることにほかなりません。「友人が欲しい」というA君の願いは、その表われで、同時にこのことは、人間が一人だけでは生きていくことができず、人間としての喜びも集団の中の緊密な人間関係の中にしかないということを意味しているのです。

 しかし、もう一つの問題として、そのように求めた集団から、今度は逆に離れていこうとする傾向が見られることです。A君の言葉を借りれば、「友人が負担になる」ということや、「友人が信用できない」ということです。それでは何故一体A君は、入学後一年もたたないのに、最初の集団を求め、集団と一体になりたいという心境から、最後には集団がわずらわしくなり、そこから脱れて自分独りだけの世界に閉じこもりたいとさえ思う心境に変化したのでしょうか。人間には集団を求める心と、集団を避ける心があるからだといえば、それまでです。しかし、少くとも入学当初のA君の気持の中には、集団に対する不信感の存在しなかったのは事実です、集団を避ける気持は、後になってつくられたものであります。それでは何が一体それをつくったのかといえば、それは集団だということになります。集団が「集団から脱れたい」という個人をつくるーこの集団の論理の中に、集団と個人の問題を解く鍵が潜んでいるのではないかと思うのです。

高校生活に対する期待過剰と幻滅

 もう少しA君のおかれている立場を、具体的に分析してみましょう。A君の日記に「昨日までの灰色の生活」という言葉が用いられていますが、これは彼の高校受験の準備がいかに苛酷であったかを物語っています。その灰色の中学生活の中にあって彼の拠りどころとなったものは、おそらく、その向こうにある高校生活という輝かしい未来であったことでしょう。現実が苦しければ苦しいほど、夢は美しいものです。A君にとっては、高校生活は理想の花園でなければならなかったのです。無理もありません。しかし、実はそこにこそA君の非劇の第一歩があったのです。現実の高校生活は、中学と同じように、いやそれ以上に厳しいものです。A君の希望は現実の冷たい壁に打ち当っては、次第にくずれてゆきます。このように考えると、A君の集団不信の感情は、どうやら高校生活に対する期待過剰から来ているもののようです。そしてその期待過剰を生みだしたものが、中学における「灰色の生活」であるとすれば、彼の反集団的な思考は、結局、その遠因を中学時代の受験競争に明け暮れた非集団的生活に、求めることができるといえるでしょう。

 しかし、A君が高校生活に大きな夢を持ちすぎたということは、決して、A君が悪いということにはならないと思います。悪いといえば、A君の夢を受け入れ、それを育ててゆくだけの暖かい人間関係の存在しない現在の集団生活そのものが、問題にされなければなりません。高校生活に理想的人間関係をつくり上げたいと望むのはひとりA君のみではなく、すべての新入生に共通のことだと思われます。しかし、なぜそのような集団づくりが実現できないのか。そこにはA君をはじめとして、それぞれの生徒諸君の意志ではいかんともし難いある力が働いているのではないでしょうか。

自我の確立には集団は障害となるか

 問題をそのように考えると、一つには、高校生の時代は、第二反抗期と呼ばれる自我の確立期にあたるということが、クローズ・アップされてきます。この時期には、自我に目覚めた意識は自由を求め、集団的なものを否定する傾向をもつといわれます。しかし、集団づくりの困難をこのような青年期特有の心理にのみ帰することは、問題の指摘にはなりえても、問題の解決にはなりえないと思います。たしかに、この時期には、自我の成長にとって障害となるものがある場合には、断固としてそれを拒否するか、抵抗を試みるかします。あるいは最初からそのような障害に出会うことを避けて、自意識の世界にのみ沈潜する傾向が目立ってきます。

 それでは、A君の集団不信と個人的世界への逃避ということは青年前期の人間にとっては避けがたいことかといえば、必ずしもそうではありません。もし集団が自我を受け入れ、自我がその中にあって最も自由であると感じるような集団であるならば、自我はなにを好んで反抗したり、逃避したりする必要があるでしょうか。そこでは自我を確立するということが、同時に集団の一員としての自我を確立することであり、個人的であるということが、同時に集団的であるということだからです。だから、かりに集団離反の現象を自我の確立という点から説明できたとしても、それはほんの部分的な説明でしかありません。

 それでは集団を分裂させ、個人をその集団から疎外するものは何でしょうか。いろいろ考えられるでしょうが、もし一つだけ挙げるとすれば、それは集団の中に持ち込まれた出世意識と、それに支えられた競争主義だとわたしは思います。

集団の連帯性を奪う出世主義的競争

 立身出世意識に支えられた競争主義が、社会のどのような構造からつくられたものであろかはさておき、それが学校集団に持ち込まれると、それは集団から連帯感を奪い、信頼感を失わせ、友情さえも破壊します。何故かといえば、立身出世主義は自己を集団から脱出させ、自己をエリート(選ばれたるもの)の立場におこうとする意識であり、あるいはその集団のヒエラルキー(位階秩序)の頂点に立って底辺を支配しようとする意識のことだからです。そこでは横の人間関係より、縦の人間関係が関心のすべてになります。このような意識が学校集団の中にあって勉強と結びつくと、本来は自己の人間的成長と、平和的な社会の建設のためにあるべき勉強が、他人を押しのけ、他人の上に立って自分のエゴイズムを満足させる手段としての勉強になります。自分がいかに成長したかがい喜びではなく、自分がいかに他人より優れているかが喜びになるのです。しかし、現実の学校生活には入学試験という大きな競争が厳として存在しております。諸君はこれを避けて通ることは出来ません。この現実をどう考えたらよいのでしょうか。

 この競争を通過する多くの人たちは、いかにその人たちが集団としての連帯感をもっていても、知らず知らずのうち出世主義的競争意識を身につけてゆくものです。それは入学試験に通るということが、結果的には世俗的な栄達の一段階を通るということだからです。だからそうならないためには、いったいわれわれは何のために進学するのかということを考えなければならないと思います。

進学の目的と人間の幸福

 もし進学の目的が、自分の虚栄心の満足のためとか、自分だけが他人より偉くなって他人を見下ろしてやるためとかであるならば、その人は他人をけ落してでも自分がその競争に勝つことに専念します。しかし、もし進学するということが、自分ひとりの立身出世のためでなく、すべての人間(その中には進学したくともできないで働いている諸君の同世代がいます)の幸福を築き上げるためであるとすれば。そのような人にとっては進学することは、人類の文化遺産を学ぶことによって、自己の能力を最大限に開花させ、再びそれを社会に返してゆくことであります。このような人にとっては、入試の競争は単に個人的な出世のための競争でなく、自分をも含めた集団の向上のための競争ということができます。

 進学の目的をこのように考えるその考え方の基礎には、人間の幸福は何かという、幸福観の問題が横たわっています。そしてここにも、人間の幸福についての二つの異なった考え方があります。一つは出世主義的な幸福観で、これは人間の幸福の条件を個人の相対的な比較の中に求めようとするものです。つまり、自分がいかに他のものより優れているかが幸福の条件になり、その地位を求めて必死の競争が行なわれます。優れた地位を得たとしても、安心できません。いつ他の競争者にその地位を奪われるかも知れないからです。また、自分より地位の低いものを眺め下すことによって、満足を感じ、幸福を味わうとします。しかし、目を頭上にあげれば、逆に自分を見下している幾多の上位者がいます。たちまち、優越感は劣等感に、幸福は不幸に変じるのです。このような幸福がはたして本当の幸福といえるでしょうか。もし言えたとしても、それは何とはかない、ちっぽけな幸福なのでしょう。

 それに比して、もう一つの幸福観は、集団的な幸福観とでも呼ばれるべきものです。それは幸福を個人だけの問題として考えるのではなくて、集団の中の人間関係とその組織の問題として捉えます。人間の幸福は理想的な集団ー個人の尊厳が重んじられ、個人の能力と人間性が充分に伸ばされ、個人が喜んでそれと運命を共にできるような集団ーの中にこそあるというのです。もしそうだとすれば、このような集団の幸福は、一個人の力だけでは手に入れることはできないし、まして個人が集団から離脱するという形では保障されません。そのような集団を、すべての人間が協力してつくっていくことの喜びーその喜びの中にこそ、そしてまたその喜びの彼方にこそ、本当の人間の幸福があるのではないでしょうか。

集団の中での個人の生き方

 さて、結論に近づいたようです。これまで述べてきたように、現在の学校集団とそこでの生活は決して理想的なものではないし、理想的なものにするにはあまりに多くの障害があります。しかし、集団は本来は個人と対立すべきものではなく、個人によって発展させられた集団が、逆に個人を成長させるというような個人と有機的関係をもった集団であるべきです。それが個人を疎外し、個人を自分だけの世界に追いやるのは、現在の学校集団のもっている歪みであります。このような歪みは、結局、出世主義的な競争意識から出て来ると思うのですが、われわれはその集団のもっている歪みを是正し、正しい姿の集団にするために、入試を受けることや進学することの意味を深く考えてみなければならないと思うのです、それは同時に、人間の幸福とは何か、生きることの意味は何かを、考えることにもなるのです。人間の幸福や生きることの意味が、人間集団を除いてはあり得ないことを知ったとき、はじめてその個人はかって見捨てた集団を今一度必要とするようになり、誇りと喜びをもって集団に復帰することができるでしょう。集団と個人ーこの問題を考えることは、集団の中での個人の生き方の問題を考えることであり、それはすぐれて実践の問題であるということを申し添えて、この小論を終ることにいたします。

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