「マス・コミュニケーション」                   安藤 邦男

                       「東雲」第4号  愛知県立名古屋西高等学校生徒会
                                        昭和38年 3月 1日


 現在わたしたちを取り巻き、わたしたちの生活に圧倒的な影響を与えている環境の一つに、マス・コミュニケーションなるものがあります。一体、マス・コミュニケーションとはどういうものであり、わたしたちにどのような影響を与えるものでしょうか。また、それにわたしたちはどのような態度をもって接したらよいでしょうか。そのような問題について、ここでみなさんとともに考えてみたいと思います。


パーソナル・コミュニケーションとマス・コミュニケーション

 わたしたち人間の生活は、お互いの意志を相手に伝達し合うことで成り立っていますが、この人間相互の意志の流通をコミュニケーションといいます。文明の発達していなかった昔には、相互の意志の流通は直接相手に話しかける会話の形式で行われていました。今日でもこのような会話による意志の伝達が、日常生活においては普通でることは、学校や家庭で友人や家族のものとする話合いを考えてみれば明らかです。これをパーソナル・コミュニケーション(Personal Communication)といいます。

 ところが、文明の進歩とともに印刷術が発明されたとき、ここに新しいコミュニケーションの方法が生れました。それまで個人と個人との間に一対一の関係でなされていたコミュニケーションが、ここでは印刷された活字を通して、一人の著者と何百、何千もの多数の読者との間になされるようになったのです。印刷術はやがて近代出版事業の成立とともに新聞と雑誌を生みだし、コミュニケーションの規模は飛躍的に大きくなりました。さらに、今世紀に入ってからは、活字文化に対して視聴覚文化といわれる映画とラジオが長足の進歩を示し、戦後はいよいよテレビの登場です。テレビの登場をもって、コミュニケーションの規模と内容は、全国的というよりむしろ世界的範囲にまで拡大されてきていることは、御存知のとおりです。このようなコミュニケーションのあり方を、パーソナル・コミュニケーションと区別して、マス・コミュニケーション(Mass Communication 大量伝達の意味)と呼び、それを可能ならしめる手段である新聞やテレビをマス・メディア(Mass Media)といいます。

 【注】 ただし・マス・メディアという言葉はあまり用いられなくて、マス・コミュニケーションの日本的短縮形であるマスコミという言葉が、マス・メディアをも含めた意味として用いられております。わたしも便宜上この慣用にしたがいます。


知識の蒐集と伝達がマスコミ本来の使命

 さて、文明の進歩につれて、パーソナル・コミュニケーションのほかに、マス・コミュニケーションの方法が次第に人間生活の中に大きな比重を占めるようになったわけですが、このような事情を作りだしたものはいわば生活の必要であります。社会的環境が拡大し複雑化すれば、人間にはより多くの知識が必要となってきます。しかし人間が直接に見たり聞いたりして得る知識の量は極めて限られたものであって、ここに信頼すべき知識の収集と伝達ということを自分以外の他の人間あるいは機関にゆだねる必要が生じてきます。この意味では、マスコミはわたしたち現代人の生活にとって不可欠です。実際、世界のどこで起った出来事でも、いながらにして知ることができるということは、文明がわたしたちに与えてくれた最大の贈物の一つといえるでしょう。

 しかし、マスコミの与える知識がはたして信頼するに足るものかどうか、またその娯楽が健康で有益なものであるかどうかということには、多く疑問があります。のみならず、マスコミによってわたしたちは人間性の貴重な一面を喪失しつつあるのではないかという批判さえあります。では、このような疑問や批判はマスコミのもっているどのような側面からでてくるのでしょうか。


一方伝達のマスコミとテレビの前の唖

 マスコミを構成するものは、すでに述べたように、知識あるいは娯楽の少数の送り手と、それらのものの多数の受け手であります。しかも、送り手と受け手の間には画然とした区別があり、両者の間のコミュニケーションは送り手から受け手へという一方的方向においてのみなされるのです。もしコミュニケーションの本来の姿が言葉によってお互いの意志を通じ合うことであるとすれば、マスコミのこのような一万交通的な、あるいは「片道キップ」的なあり方は、コミュニケーションとしては異常というほかはありません。

 その異常な状態に長くおかれていると人間はどうなるかということについて、アメリカの或る評論家は面白いことをいっています。かつて家庭は一家団らんの話合いの場所でしたが今ではひとびとはもうお互いにしゃべり合ったりしません。話し手はラジオかテレビであり、ひとびとはただ黙々とそれを聞いたり見たりしているだけで、まるで映画館の中の孤独な群衆という人間関係が家庭にまで持ちこまれたというのです。やがてひとびとは唖のように語る能力を失うであろうと、彼は皮肉まじりに警告を発していますが、確かにこのような受け身一辺倒の生活を続けていれば、わたしたちは話したり書いたりする能動的な性質や、主体的な能力を喪失することは明らかです。数年前、日本の或る高名な評論家も、テレビの影響を「一億総白痴化」という言葉で表現しましたが、これも結局はこの間の事情を物語っていると思われます。


映像のもつ意味と言葉のもつ意味

 次に、伝遠手段としてのマスコミの特徴をなすものは何かといえば、その視聴覚性をあげることができるでしょう。現在、わたしたちは活字文化の時代から映像文化の時代への曲がり角にあるといわれていますが、ここでマスコミのもつ視聴覚性を、読書との比較から考えてみましょう。もちろん、書物も本来の意味ではテレビやラジオと同一のマス・メディアに属するのですが、一般にマスコミという場合、活字文化の中では本格的書物を除いた新聞と雑誌が意味されているのです。そして新聞や雑誌をいわゆる書物から区別する根拠の一つとして、その視聴覚性をあげることができます。例えば、今日氾濫している週刊誌は、「読む」というよりはむしろ「見る」といったほうが適切なほど、写真や挿絵で満ちております。これがテレビになるとさらに徹底し、すべてが映像であって、言葉は映像を説明するための、単なる補助的手段にすぎないのです。

 ところで、このような視聴覚映像を人間の言葉あるいは文字と対比してみますと、前者が人間の感覚的経験の世界で得られるのに対して、後者はその抽象化され概念化された理性の世界に生れるものであるといえましょう。感覚によって得られた外界のイメージが言葉によって概念化される過程を通して、人間の認識は感性的なものから理性的なものへ高められていきます。だから、感覚的映像は人間の認識のそもそもの出発点ではあるが、それだけでは意味がなく、その映像は一般化され、概念化され、理論化されなければならない。この働きを行うものこそ、言葉なのです。


映像だけでは人間の思考力は養われない

 したがって、人間がイメージの世界にだけ住んでいると、単に事物を表面的、感覚的に理解できても、その事物の中の内面的必然性は理解できなくなる危険があります。くり返される映像の刺激に機械的に反応するだけで、みずみずしい感動や論理的な思考力を失います。「現代っ子」に欠けているものは、物ごとを深く考える能力だといわれるのも、「現代っ子」の多くが「テレビッ子」だからでしょう。

 もちろん、映画やテレビなどの映像文化は、それなりに大きな長所をもっています。一枚の写真が、数千語を費してもなお表現できない真実を、生々しく伝えてくれることがあります。事物のイメージを言葉にホンヤクして託し、その言葉を受けとったものが再びそれをもとにしてイメージを構成するという厄介で間接的な方法は、ここでは不用です。言葉の媒介を経ずに、直接イメージが伝えられます。イメージが言葉によって損なわれることはありません。しかし、言葉にたよる必要のないことは、映像文化のもつ長所であると同時に、その短所でもあります。読書においては、わたしたちは自分で活字をもとにしてイメージを作りあげなければなりませんが、そこでは精神は極度に緊張し、莫大な知的エネルギーが要求されます。しかし、そのような苦しい過程を通ることによって、はじめてわたしたちは思考力を養い、論理性を身につけることができるのです。ところが最初からすでにイメージの与えられている認識活動においては、精神は緊張するどころか弛緩し、拡散の一途をたどります。ここに映像文化の誇るすべての利点を考慮に入れても、なおかつ補うことのできない一大欠陥があるといえるでしょう。


マスコミの商業主義

 さて、このような「視覚的」なメディアによって「一方伝達」されるマスコミの内容はどういうものでしょうか。わたしたちはここでマスコミの「商業主義」ということを問題にしないわけにはいけません。

 今日のマスコミはまず大衆というものを考えます。大衆の世論は何か、また大衆は何を望んでいるか、こういう問題についてマスコミは最大限の関心を払います。このことはそれ自身として、いうまでもなく、正しいことでしょう。しかし、今日のマスコミは営利企業のうえになりたっており、それの与えてくれる知識や娯楽は一種の商品です。だから、マスコミの想定する大衆なるものは、いわば商品の購買者ということができます。商品は売らなければならないし、売るためには大衆の低俗な趣味にも媚びなければならない。中味は多少犠牲にしても、外観の美はいかにも購買欲をそそるように保たれなければならないのです。実際マスコミは、デパートに飾りつけられた高価な商品が、わたしたちの消費意欲をかきたて、快適生活の幻想を与えてくれるのに似ています。ここでは消費が最大の美徳で、生産は必要悪にすぎないのです。「○OOを飲んでハワイヘ行こう」式のコマーシャルからは堅実な青少年の夢は生れません。


マスコミの中立性と真実

 すでに与えられた紙数を少し超過しましたが、最後にマスコミの真実性という問題について述べて見たいと思います。例えば自分の身近かなところに起った出来事が、マスコミに報道された場合、それが実際とはだいぶ食い違っていると感じたみなさんは、案外多いでしょう。それはマスコミがいかに正確に事実を伝えるかということと同様に、いやそれ以上に、いかに迅速にそれを伝えるかということを重視する結果です。マスコミの真実性を誤らせる第一のものは、その「速報性」といえます。

 第二にマスコミの真実性を誤らせるものは、いわゆる「中立性」というものです。このことを奇異に思うみなさんもいるかも知れません。「中立性」とは事実を出来るだけ公正に客観的に報道する態度のことだといわれているからです。しかし、真実とは何でしょうか。真実はそれだけが眼前に明確な形をとって現われているのではなく、複雑な現実の中に、さまざまな要素と入り混って、偽りのものと分かち難く同居しているのです。わたしたちはその中に入りこみ、そのものと試行錯誤をともにしながら、自分の傷つくことを怖れず泥まみれになって真実をつかまなければなりません。まことに、真実とは与えられるものではなく、発見するものです。二つのもの対立があるとき、そのいずれにも組しないマスコミの「中立的」態度は、このような真実を求める態度とは無縁であります。

 こういうことを考えると、いわゆる客観的事案というものは存在しないのではないかということになりますが、わたしはその通りだと思います。むろん、現実の中に埋没した事実は客観的であります。しかし、その中から一つの現象を、他のものから切り離して、事実として取り上げたとき、そこには取り上げたものの主観が入ります。その事実を取り上げたというまさにそのことが、一つの選択行為です。そして選択は価値判断です。だから、いわゆるマスコミの「客観的事実」の背後には、そのマスコミ自身の主観的価値判断が厳然として存在するのです。

 例えば、今日の新聞には読者の声をのせる欄があります。新聞はこれに筆を加えたり、削ったりすることはないでしょうが、多くの投書の中から一つの投書をのせるということは、その新聞社の主観的判断によります。このように、わたしたちは、いかに努力しても、宗全に客観的になり切ることはできません。わたしたちに残された道はただ一つ、自分の主観的な判断をできるだけ正しいものに高めていくこと、そして自分で真実を発見しようと努力することです。もちろんその場合、マスコミの報道はわたしたち自身の判断の一資料にはなります。しかし、大切なことは、マスコミの与える報道の真実性には大きな制限のあることをわきまえて、それを絶えず批判的に摂取するということでしょう。このことが、わたしのこの小論を終えるにあたっての結論ともいえます。

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