私は敗戦体験をこのように受けとった              安藤 邦男

            ー世代論への試みー
                                    同人誌「われらと」1号
                                     昭和34年 1月31日


 なるほど、歴史的事実としての敗戦はすべての日本人にとって一様ではあるが、その受けとり方ば世代によって、また個人によって、おそらく大きな相違があるであろう。とくに、現在二十代の後期から三十代の前期にかけての私たちの世代は、敗戦を迎えた時期が十五歳から二十歳までの、いわゆる人間形成期にあたっていた。私たちは文字通り敗戦経験を通して、自己の人間形成をおこなってきたといえる。この意味で、私たちの世代ほど、敗戦経験が自己の内部でいまなお生きている世代はほかにないのではなかろうか。つまり、私たちにとって敗戦は単なる客観的事実であるというよりも、むしろ一つの主体的経験なのである。歴史の、あの激しかった変動が、そのまま自意識の歪曲として現在の意識につながり、私たちの現在の意識を規定しているのである。

 私は思うのであるが、このような私たちの世代が敗戦体験を受けとったその受けとり方には、およそ三つのタイプがあるのではなかろうか。第一のものは、敗戦体験の無自覚な受け取り方である。このタイプに属する人たちは、敗戦の影響の受け方が少ながったわけでは決してなく、あまり多くの影響を受けたため、かえって現在の生き方と敗戦体験とが同一化しており、敗戦体験を対象化してその意味を考えることが不可能なのである。第二に、敗戦体験をすべての体験の中で唯一の真実のものとして捉え、そのうえに自覚的生き方を追求していこうとする人たちがいる。この人たちは敗戦体験とそれに続く戦後体験をあまりに誠実に受けとったために、社会的な秩序や価値を信じようにも信ずることができず、自分の「肌の感覚」だけが生きるための拠りどころになる。戦争責任をめぐる世代論の多くは、主としてこの立場から発言されたといよう。

 しかし第三の立場に立つ人たちは、敗戦体験を自覚するだけにとどまらず、敗戦体験による自己の人間疎外を意識し、それを克服することによって全人的な生き方を目指そうとする。彼らの立場は狭い自意識の世界ではなく、それを否定したより広い歴史社会の世界である。

 敗戦体験に対するこの三つの受けとり方を、いま仮りに「無自覚の立場」、「自覚の立場」、「超越の立場」と名づけるならば、これは人間の成長過程に対応する一連の段階をなしていることにならないであろうか。事実、私ばこの三つの段階を踏んで今日にいたっている。では、私はどのようにしてこの三つの段階を経てきたか。そのことを振り返ってみることは、私の世代論を発展させるためにも、是非必要なことなのである。

 戦争の末期、中学生であった私は日本の必勝を信じていた。すでに、名古屋市の大半を焼かれていながら、私にはそれが優者の弱者にたいするハンディキャップぐらいにしか考えられなかった。日本軍は絶対に強く、そして絶対に正しいのである。私の友も、当時、続々と兵籍に志願していった。軍国主義教育に関するかぎり、まことにこれはその完全な勝利といえるであろう。

 そのような私たちにとって、敗戦の事実を知らされた八月十五日は、実に奇妙を日であった。第一日本が敗れたという事実が不思議であったし、それにもまして奇妙なのは、敗れても一向あわてない世間の姿であった。私は悲しかったというより、むしろ無性に腹がたった。日本が敗れたというそのことにたいしてか、また私たちを欺きつづけた大本営にたいしてか、それとも勝利を疑わなかった自分の愚かしさにたいしてか、それはわからなかった。

 しかし、敗戦の意味を批判的に考えるには、私はあまりにも幼かった。批判する前にまず順応するのが少年である。敗戦の日の奇妙な印象が、単なる過去の出来事として薄れるにつれ、私は以前に軍国主義教育を受け入れたのと同じ熱意をもって、今度は新しい民主主義教育を、それも甚しい混乱をともなったまま、受け入れていった。たしかに、歴史は敗戦を境にして百八十度の転回をなした。しがし、私の主体的経験としての戦後はまだそのまま戦争体験と連続し、私の人間形成は敗戦前と敗戦後のいわば未分化に混在した体験を通しておこなわれたといえる。両者を分離して自己の立場を自覚する時期は、私の場合、中学を終え、高専に入学したときに始まる。

 すでに敗戦の日から、私の胸中には学校の教師にたいする不信の念か抜きがたくあった。自分たちの生命をかけてきたものが、まったくむなしいものであったと知ったとき、私たちの憤りがまず教師に向けられたのは当然である。戦時中「聖戦」を教えた教師たちは、戦後になると「侵略戦争」を唱えだしたのである。

 私は思った。「名誉の戦死」を「犬死」だというのは、ただ死者を鞭うつだけではないのか。しかも、教え子をして喜んで「犬死」するようにしむけたのは、ほかならぬ教師自身ではなかったか。私にとって、このような無責任な教師の態度は許すことができなかった。いや、彼らが戦後自殺もせずのんのんと生きていること自体が、私には理解できなかったのだ。

 こうして、教師を通し、世のいわゆる大人たちに不信と反感をもった私は、さらにそのような大人たちによって動かされる政治と社会を、文字通り虚偽のかたまりと考えるようになった。一夜にして社会価値の変動するのを目の当たりに見た私たちには、社会的な価値は信じたくとも信じることができなかった。この世界にもし信じ得るものがあるとすれば、それは自己のみであった。自己にたいしてのみ私は誠実であろうーこれがその頃の私の生活の信条であった。

 このような道の行きつくところがデカダンスとニヒリズムであることは多言を要しまい。自己の肉体の感覚のみを信じるものにとって、社会的秩序とか社会的常識とかいう外的権威はまったく無意味であるだけでなく、学問や理性も、それが客観的なものであるだけいっそう肉体の感覚に遠く、それゆえに真実に遠いのである。なぜなら、真実はなによりもまず自己の主体的、直接的な経験の中に存在するからである。実際、その頃の私は学問をほとんど放棄して、文学や恋愛に熱中した。私はそれらのものを通して、人生には学問よりもっと大切なものがあるということ、そしてそれは真実の生き方を求めて苦悩することである、ということを学んだように思う。

 やがて、私は大学の文科へ籍をおいたのであるが、当時の私には自分の生きる道が文学以外にないような気がしていた。現実の世界がいかに虚偽に満ち、醜悪で覆われていようとも、少くとも文学の世界においてだけは、美と真実がその全き姿で存在しているのではないか。そしてその美と真実を追求することで、自己をその世界の高さまでもたらすことが可能ではないか。当時の私の興味と関心は、とくに世紀末の文学とその芸術至上主義者たちにあった。私が彼らと彼らの文学に深い共感をもったのは、そこに自分と共通の生き方を見出したからにほかならない。彼らの生き方を通して、私は自己をより深く知ろうと欲した。私が学問らしい学問に身を入れたのは、この時が最初であったといえるかも知れない。

 ところが、やがて私は彼らを研究するにつれて、彼らの生き方、彼らの思想、彼らの芸術が決して隅然に生れたものではなく、当時の社会情勢の必然によって生れるべくして生れたものであることを発見した。この発見は私の生き方を根本的に改めさせるほど、私の思想と意識に致命的な衝撃を与えた。

 それまで、自己を偽らず、自己のみを信じ、すべての行為を自己の責任において果してきた私にとって、自己は絶対であった。私は自己の内的な自由を得るために、それを少しでも拘束する外的存在から、自己をきびしく切り離した。そうすることによって、私は同時に自己の純粋性が保証できると考えた。このような私にとって、私の先輩である美の使徒たちの生き方そのものが、実は当時のヨーロッパの資本主義社会に固有なものであるという認識は、恐怖に近いものであった。社会の影響がら自己を守るため、あらゆる外的なものを否定して社会から孤立し、自己にのみ生き、思索し、創作した世紀末の文学者たちの生き方は、実は歴史的社会がそうさせたのであった。彼らが社会を疎外したのではなく、社会が彼らを疎外したのである。

 ひとはいかに社会がら自己を孤立させるとしても、しかしその孤立の仕方そのものが社会的であるという事実からは逃れることができないのである。

 そうして、私はあらためて自己の生き方を考えてみた。私の生き方は、結局は軍国主義教育、敗戦、戦後の混乱という、一連の歴史的事実の中に、人間形成を行った戦後派固有のものではないのか。自己の自由と責任において選んだ私の生き方は、歴史社会に生きる人間の必然の生き方ではないか。この意識は私の誇りを傷つけた。私は傷けられた誇りをもって、今までの自己に復習を企てるがのごとく、歴史社会の勉強をはじめたのである。

 このようにして、私の意識が自己の内部から歴史社会の広場へ出たときは、偶然にも自分自身も象牙の塔から実社会へ出たときであった。私がそこで自分の職業として選んだものが、がって不信の念をいだいた教師であったというのも、偶然である。もはや私は、教育そのものを否定するニヒリズムからは脱却していたが、まだ教育のもつ意義を積極的に評価していたわけではなかった。しかし、教育の社会にも押しよせた逆コースの波と、多くの問題をはらむ教育の現場とは、私の教育観を根本的にあらためる力をもっていた。それまで書物を通じて目覚めたに過ぎない社会意識と、知識の上からのみ求めた個人主義否定の原理を、私は教育現場の実践の中で鍛えなおさなければならなかったのである。

 さて、私はこのようにして、はじめ敗戦の事実を素朴に受けとって驚愕した一少年から出発し、敗戦体験を自覚するにつれて次第にに社会的なものの不信から自意識の世界に閉じこもる青年になり、最後にこのような自己中心の生き方を生みだしたもが社会的なものであるという認識に至ったわけである。

 この最後の立場は、敗戦体験による自己の人間性の歪みを回復しようという意志に貫かれているかぎり、徹底的な自己否定の立場でなければならないであろう。そして自己否定の道は、安易な自己肯定の道とちがって、たしかに苦しいに違いない。しかし、自己を否定することなしにはいかなる意味の自己実現もないとすれば、否定すべき自己の大なるものにとっては、実現すべき自己もまた大なるはずである。このような自己改革の道を経ることによって、私たちの蒙ったむしろ不幸な世代的体験は、やがて歴史を動かす積極的モメントになるであろう。

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