「読書の原理と方法」(1)

                ー感想文コンクール講評ー
                         「柏葉」vol.15 no.2 愛知県立昭和高等学校
                                      昭和47年11月15日

選考の経過

 二年の各クラスからまず五点ずつを、担任の先生に選んで頂き、それに三年生の数点を加えて、全部で約九十点の感想文が、私たち選考委員(香川・山崎・中川美・白井・近藤武・高木・山口・安藤邦)の手もとに集まりました。私たちは慎重に読み、評価し、検討を加え、そして前ページの表(省略)のように選定しました。

 なるほど、形の上では優秀作、入選作、佳作と、十四点をそろえることができましたが、正直にいって、私たちの期待に応えてくれるような作品は極めて少なく、その選定にはかなり苦労しました。「何か欠けている」ーそれが私たちの諸君の感想文から得た第一の「感想」でした。これは諸君の読書の方法自体に何か欠陥があるのではないか、そんな疑問を抱いたのです。そこで、私は諸君とともにその問題を考えてみたくなり、ペンをとった次第です。講評としては少々長くなりますが、最後まで読んで頂きたいと思います。

主眼点の不明な感想文が多い

 まず、私たちが何に不満をもったのかをお話ししましょう。全体の傾向として、誤字、脱字、意味の通らない文章が多く、冗長で、肝心な箇所は説明不足という、表現上の稚拙さが目立ちました。だがそれにもまして、致命的な欠点と思われるものは、諸君の感想文の多くが、主眼点が不明で、一体何をいっているのか、あるいはいおうとしているのか、どうもよく分からないということです。大抵の諸君が断片的な感想をところどころに羅列しながら、ストーリーを追うのに精一杯であるか、またその反対に書物の内容から全然離れたところで、われとわが感想に酔いしれながら、自分の体験だけを語っているにすぎないのです。読後の印象を深く吟味し、組織化し、一つの表現として完成させようとする意欲もなければ、ある感想をさまざまな角度から反省することによって、自分の思想の中へ同化しようとする努力も、あまり見られません。
 つまり、私たちには、諸君のこれだけはどうしても訴えたいという内心の激しい叫びが、感じられないのです。結局、諸君は大した印象も感想も持たずに、何か思いつきを記せばよいというそれだけの気持ちで、ペンを握ったのではないかと、疑いたくなるのです。

すぐれた感想文には対決のドラマがある

 その中でただ一篇、満票で第一位になったすばらしい感想文がありました。小沢純子の「異邦人」です。何がすばらしいかといえば、まず第一に、彼女は深く理解した内容を、自分自身の言葉で正確に表現しているということです。第二に、彼女は作中人物のムルソーになり切っている、あるいはなり切ろうと必死に努力している。第三に、今度は逆にそのムルソーから自分自身を引き離し、「彼の生き方に疑問をいだき」、何が彼の生き方を生み出したのか、執ように追求していきます。見事な読書の態度ではありませんか。

 同じ優秀作の伊藤みどりの「月と六ペンス」の中にも、主人公が彼女を「面と向って嘲笑し、軽蔑さえした。彼の理想主義に陶酔していた私が、彼と対決しはじめたのは、そのときからであった」という文章がありますが、これは作者と読者の関係を象徴的に表しています。

 すぐれた感想文とは、このように、作中人物あるいはそれらを創り出した著者と、それを読む主体としての読者とが、深くかみ合い対決する姿勢から、生まれるものです。そして著者と読者とが「かみ合い」「対決する」ところに発生する息づまるようなドラマが、感想文の魅力になるといえます。

読書の原理は一致と対立

 さて、すでにおわかりのことと思いますが、すぐれた感想文の背後には、それを支えるすぐれた読書の態度があるのです。そしてすぐれた読書の態度とは、主体としての自己が客体としての書物に積極的に働きかけ、かみ合い対決しつつ、書物の内容を自分の経験として同化していこうとする態度のことです。

 私は今、主体とか経験とか難かしい言葉を使いました。話をもっとわかり易くするため、具体的に読書の過程を分析しましょう。例えば、漱石の「坊っちゃん」を読むとします。諸君はそこに描かれている事件を「坊っちゃん」とともに喜んだり、怒ったり、悲しんだりします。つまり、その小説を読んでいる間中、諸君は自分の立場を離れて、作中の「坊っちゃん」になり切っています。「坊っちゃん」は自分であり、自分は「坊っちゃん」なのです。ここでは読書する主体としての自己が、客体としての書物と完全に一体となっています。

 しかし、諸君はこのような「主客合一」の世界にのみ留まっているかといえば、必らずしもそうではありません。諸君は「坊っちゃん」であると同時に、ときには「坊っちゃん」の無鉄砲なせっかちさにハラハラしたり、彼の単純な正義感に疑問を持ったりします。このようなとき、諸君はすでに「坊っちゃん」の立場を離れて、つまり自分自身の立場にかえって、「坊っちゃん」の生き方を批判しているといえます。この関係は「主客合一」の関係でなく、「主客対立」の関係と呼ぶことができます。

 このように読書とは、作中人物あるいは内容と読書する主体との「一致」と「対立」の関係を通して、自分の経験を高めていく過程にほかならないのです。

まず自分を無にして対象に没入すること

 ところで、このように読書が「主客合一」と「主客対立」の過程であるとするならば、諸君は自分の読書を真に実り豊かなものにするためには、それらの原理の上に立って自分の読書の方法を確立しなければならないということになります。

 そこでまず第一に、諸君は書物と自己との間に徹底的な一致関係を作り出さなければなりません。「坊っちゃん」になるだけでは不十分です。その作品の中のあらゆる人物になり切って、彼らとともに感じ、考えなければなりません。さらにいうならば、それらの人物を創造した漱石その人になるのです。そのときにこそ、著者の偉大なる経験が、諸君自身の経験として諸君の中に生きかえることができるのです。

 それでは、そのような主体と客体とが完全に一致する境地をつくり出すには、諸君の側にどのような心の準備が必要でしょうか。何よりもまず雑念を捨て、全関心をあげてその書物に没入しなければなりません。書物の内容を自分の主観や偏見でゆがめることなく、虚心に、ありのままの姿で、いわば心の鏡に映し出さなければなりません。対象を都合のいいように解釈したり、自分の好みに合った部分のみを読みとることは、読書するもののよく陥りがちな悪習ですが、これは自分から対象を閉め出すことであり、同時に対象から自分を切り離すことであって、正しい読書の仕方とはいえません。

 さて、読書では「主客合一」過程の徹底を期することが、まず必要であると述べてきました。しかしさらに重要なのは、次の過程である「主客対立」であります。それでは、諸君は何故、そしてまた如何にして、対象に密着した自己を対象から分離させ、対立すべきでしょうか。その問題は、次号で考えたいと思います。


「読書の原理と方法」(2)


      ー感想文コンクール講評ー
                    「柏葉」vol.15 no.3 愛知県立昭和高等学校
                       昭和47年12月15日

(つづき)

主客合一から主客分離へ

 前号において、読書の原理は主体と客体の「一致」と「対立」であるということ、そしてまず諸君は、対象としての書物と主体としての自己との「一致」の世界を、最大限につくり出す努力をしなければならないと述べました。しかしながら、読書ということが一つの認識活動である以上は、諸君は例えば音楽に聞き入っているときのような、理想的な主客合一の世界に留まっていることは不可能なことです。諸君は意識するといなとを問わず、また好むと好まざるとにかかわらず、主客合一の世界から主体を分離させ客体と対立せざるを得ないということは、先の「坊っちゃん」の例を持ち出すまでもなく、明らかだろうと思います。

 そして、そのことは正しいことなのです。なぜならば、諸君は読書人である前にまず生活者であり、書物の世界に住んでいるのではなく、現実の世界で生きているからです。現実の世界を豊かにするためにこそ、諸君は読書するのではありませんか。されば、諸君は読書三昧の法悦境から現実の場に降り立ち、自己の生き方との関連から読書の意味を考えなければなりません。そのことを、私は主体と客体の分離あるいは対立と呼ぶわけです。

書物を読み終わってから本当の対立が始まる

 それでは、対立の問題を考えてみましょう。いうまでもないことですが、対立とは決して狭い自己の立場に閉じこもって、読書の対象を批判することではありません。諸君の中には一見批判力のすぐれた人(?)があり、例えば小説の批評などにも一家言を吐くことがあります。しかしよく聞いてみると、多くは他人の借りものの批評をそのまま繰り返しているか、あるいはすでに出来上がった批評の価値尺度を対象に当てはめて裁断しているにすぎません。そのような人はどれだけ書物を読んでも、決して経験を深めることはできません。その人の立場は最初から固定しており、一冊の書物を読む前と読んだ後とで、その人の物の感じ方・考え方は一向に変わらないからです。そんなことでは、読書を契機として自分の経験を深めてゆくことができるはずもありません。

 では、正しい主体と客体の対立とはどういうことでしょうか。前述の「坊っちゃん」の例でも明らかのように、読書している最中にも対立は起こり得るのですが、しかし本来の意味での対立は、やはり書物を読み終わってからだといえましょう。読書過程がまず諸君の一切の諸能力をあげて対象としての書物に合一することであるとすれば、読書活動そのものが実は主客合一過程といえましょう。そして書物を読み終わったときこそ、それまで対象に没入し隷属していた主体が真に対象から分離し、対立し始めるときなのです。

拡大された経験をいかに定着させるか

 諸君が現実の場で回復する主体は、読書以前の狭い主体ではなく、読書によって拡大された主体であることは明らかです、しかし、そのような主体はいわばまだ純粋な読書の世界から生み出されたばかりであり、純粋であるだけに強固ではありません。それを本当に諸君自らの独立した主体として現実に定着させるためには、諸君は読書する主体(すなわち書物の偉大さを同化した主体)と生活する主体を対決させ、交互に批判させる過程を経なければなりません。具体的にいえば、友人や先生にその書物について意見を尋ねてみたり、その書物について書かれた他の書物を読んだりすることもよいでしょう。また読書会などで意見の交換をしたり、読後感想文や書評を自分で書いてみることも必要でしょう。いずれも、読書で得た経験を現実の生活の場に生かすための努力といえます。書物を読んでも、読みっぱなしでは、たとえそのときその場での自己の経験が拡大されることはあっても、現実の世界に生きる主体としての経験は決して豊かになることはないからです。

感想文を書くことの意義は何か

 最後に感想文を書くことの意義について、考えてみたいと思います。先に少し触れたように、それは読書によって拡大された主体を、現実の生活の場に定着させるための一つの試みであるといえるでしょう。しかし「書く」ということはただそれだけではありません。主客一如の読書の理想郷において主客分離が始まるとき、主体はまずその未分化の混沌を漠然たる印象として意識しはじめます。やがて主体はその印象を秩序づけ、言葉として語り出します。それは対象を語ることであり、同時に自分を語ることであります。こうして対象即自己の境地を語るとき、その主体は以前の主体であるとともに、すでに以前の主体ではなくなるのです。何故かといえば、自己を描くということは自己を客観化することであり、描かれる自己を描く自己から分離することだからです。描かれる自己は古い自己であっても、描く自己は古い自己を脱皮した新しい自己なのです。このような自己分離あるいは自己疎外を通して、人間は成長し、進歩していくものなのです。

 話が大変むつかしくなりましたが、結局、私のいいたいことは、読書の世界において諸君はまず第一に、書物に没入し、書物自体になり切ってしまうのです。そして第二に、そのような「書物になり切った自己」から「書物の偉大さを同化した自己」を分離し、現実の生活の場で独立させなければなりません。これは一種の自己否定の過程といえるかもしれません。つまり自己が自己と対立し、自己が自己を分離し、自己が自己から独立するとき、はじめて諸君は一冊の書物を読み終えたといえるのです。

 このような自己分離をもたらす一つの契機として、読書感想文を書くことがあるのですが、諸君の感想文をこの見地から考えると、少なからずの不備が感じられ、あえてこの一文を綴った次第です。

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