情報化社会」                 共同執筆者 古川金憲 安藤邦男他

              「自由と国家」 山手書房刊 監修 勝田吉太郎  昭和59年7月5日

【筆者注】「自由と国家」は、高校教科書「現代社会」の副読本として出版されたものである。その中の「情報化社会」の章については、共同執筆者たちの度重なる討議を経て、最終的に筆者がまとめた。
 今日の報道機関は、「第4の権力」といわれるほどの強大になったが,その結果生じた問題の一つは,報道の行き過ぎであり,もう一つは受け手の側の情報の盲信である。この弊を脱するために,国民各自が情報に主体的に接する必要があるというのが、この論文の最大の主張である。


(1)報道の自由と責任

「報道の自由」か「報道機関の自由」か

 国民の基本的人権として、日本国憲法はその第二一条に、集会・結社及び言論・出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。この「表現の自由」の中に位置づけられる「報道の自由」は、自由主義社会を社会主義社会から区別する大きな特徴の一つであり、国民の知る権利の保障として、尊重されなければならないのは当然である。しかし、この「報道の自由」に対する尊重の意識は、近年のマスコミ産業の隆盛に支えられて、「第四の権力」と言われるほど強大な影響力を報道機関に与えることになった。この「司法」「立法」「行政」と並ぶ「第四の権力」の中身は「批判する権力」であるが、その特徴として、他のあらゆる権力を批判しても、自己批判はしない、あるいは自分自身に対する批判を拒否するという、いわば権力主義的な姿勢をしばしば露呈する。それは一つには、報道機関がフィードバックの機能のない、一方通行的回路しか持たないという体質に基づくからである。いずれにしても、報道の自由は国民のためにあるのであって、単に報道機関のためにあるのではない。「報道の自由」が、「報道機関の自由」になってはならないのである。

報道の自由には責任と限界がある

 報道機関が国民に対して責任をもつ以上、その自由には当然限界がある。一つはプライバシーなどの個人的権利からの制約である。マスコミ情報の提供を受ける国民の側から言えば、あらゆる情報を知りたいというあくなき願望がある。しかし同時に、誰もが個人的秘密は知られたくないし、そのプライバシーは守られたいという欲求がある。そこにニュース報道の直面する困難がある。未成年者や平均的な市民に対しては、報道機関は比較的プライバシーを守ろうとする。しかしタレントや有名人など、大衆の好奇の耳目を集める人物に対しては、ともすれば、マスコミは無遠慮となる。誇張された表現や興味本位の記事によって、著しく名誉を傷つけられたり、社会的信用を失って被害を受けた個人の例は、決して少なくない。それはまさしく「マスコミの暴力」であり、報道の自由の乱用といわなければならない。

 報道の自由が制約を受けるもう一つは、社会の秩序や国家の安全などという公共の福祉からのものである。たとえば、昭和四八年(一九七三年)オイルショックの際、石油不足の見通しが大きく報道された。その結果、人々は争ってトイレットペーパーの買いだめに走り、ついに何日も店頭から姿を消したことがある。今でこそ笑い話となっているが、当時の危機感はまことに深刻であった。しかし、マスコミ報道がもっと冷静であったなら、当時のオイルショックはあれほどの騒ぎにはならなかったであろう。報道機関はある事実を報道するにあたって、それが報道された場合、社会にどのような影響を与えるかを十分考慮に入れなければならない。その場合、少なくとも公共の秩序を損なうことが明らかであれば、報道が規制されるのは当然である。

(2)氾濫する情報にどう対応するか

判断のデータとしての情報

 物質やエネルギーが人間の生活に不可欠であるように、情報は人間生活ーとくに現代の複雑でしかも急激に変化しつつある社会生活ーにとって不可欠である。しかし現代人は、ともすれば氾濫する情報洪水の中にあって自己を見失い、情報どおりに行動しがちである。情報は、本来自分の意志決定や行動に際してのデータにすぎないのに、多様な価値観に基づく膨大な情報量が、かえって人々の判断を困難にする。その結果人々は、自分の考えを放棄し、特定の権威ある情報機関にその代行を求めるようになる。そのようなことになれば、情報を駆使して主体的に意志決定を行うべき人間が、逆に情報のとりこになり、情報に支配されることになってしまう。情報処理は目的のための手段であって、目的そのものではないということを、まず認識することが大切である。

情報の選択・吟味

 われわれは、マスメディアを通して入手する情報をすべて無批判に真実と思い込み、受け入れる習性がある。しかし既述のように、その情報は、多くの欠陥を持っている。そのことは、ある一つの事件を扱う複数の報道機関の記事が、いくつかの点で相違することがあることからもわかるであろう。しかもどの報道機関も、自分の報道する情報こそが正しいと主張する。そこで取るべき方法の一つは、複数のニュースソースを持つということである。一つだけの機関に情報のすべてを頼ることは、まことに危険である。複数の情報を比較・吟味し、その中から自分の判断で最も真実に近いと思うものを選択しなければならない。しかし、情報の選択・吟味と一口にいっても、実行はすこぶる困難である。氾濫する多種多様な情報の中で、どの情報がどこまで正確であるか、あるいはある目的に対してどの情報が役に立つかを判断するにあたっては、ただ単なる情報処理能力だけでなく、幅広い教養や深い専門的知識が必要だからである。そのためには、日常不断に自己の知識・能力の向上を図ることこそ、この複雑な情報化社会を生き抜くために必要な、人間の知恵であると言ってよいであろう。
                                          終わり

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