「詩と科学の合体」  ー「ユリーカ」におけるポオの方法ー      安藤邦男

        名古屋経済大学・市邨学園短期大学人文科学論集51号 1993年2月15日

【筆者注】 本編は「ユリーカ」についての第2部である。
 本稿では,ポオがいかなる方法で宇宙に美と真理を見いだしたか,またそれをいかなる方法で「ユリ−カ」という文学形式に表現したかを,主として彼の「直観」の方法に照明を当てながら掘り下げた。美と真理の合体というポオが生涯追求したテーマは晩年のこの「ユリ−カ」において,宇宙という最適の題材を得ることによって最大限に実現されることになったが,一方それに比例して彼の方法のもつ矛盾も拡大している。ここでは彼の試みの成果およびその限界を,ヴァレリーなどの批判に基づいて取り上げ,宇宙創世譚としての「ユリ−カ」の位置づけを行った。


はじめに
前号の論文では,「ユリーカ」におけるポオの思想,とくにその「単一回帰」の思想を中心に取り上げ,それがポオの諸作品の中でどのように発展してきたか,またそれはいかに「ユリーカ」に結実し,具体化されているかを追究した。この論文はその続編として,主として「ユリーカ」におけるポオの物語叙述の方法に照準を合わせ,その方法と彼が宇宙に見いだした美・真理との間の関係を掘り下げようとするものである。ポオ文学を一貫するテーマは美と真理との結合であるが,この「ユリーカ」でポオはそのテーマに最適の宇宙という題材を得て,それを最大限に追求することができたといえるであろう。しかし一方では,その方法のもつ矛盾は一層拡大せざるを得なかった。ここではそのようなポオの試みの成果およびその矛盾・限界を取り上げ,宇宙創世譚としての「ユリーカ」の位置づけを行いたい。

1「ユリーカ」の意図 ー 詩と真理の統一の試み

真理の中にみなぎる美

 エドガー・アラン・ポオの初期の詩「ソネットー科学によせる」(1829年)では,科学は詩人の心を夢の世界から追いだす敵として捉えられている。

    科学よ! お前は「老いたる時間」の娘だ!
     お前は鋭い視線で あらゆるものを変えてしまう
    何故お前は このように詩人の心を食い荒らすのか
     退屈きわまる現実の翼を持つ禿鷹よ?(1)

 ここには詩が純粋性を保つために,それは科学あるいは科学の目的とする知識や真理から隔離されなければならないという考え方がある。科学の目的は真であり,詩の目的は美である。両者は峻別されなければならない。

 しかし「ユリーカ」では,ポオは詩と科学の間にもはや区別をもうけない。ポオは「ユリーカ」を「真理の中に漲る美」(2) のために書いたというし,「詩と真理は同一に帰する」(3) と断言してはばからない。美と真理の二つを同一視するポオの思想の背後にあるものは,結局神の概念であるといえるであろう。神が宇宙を創造したとすれば,詩も真理もどちらも神の領域に属し,神によって支配される故に,両者は原理的には同じものであることになる。そして同じ神の子である人間も,神のつくった美を通して神の国に達し,真を発見する。神の国では,真なるものは美であり,美なるものは真である。両者に差異はない。

 では「ユリーカ」では,ポオは詩について彼が従来もち続けてきた考え方を変えたのであろうか。ある意味では変えたが,ある意味では変えていない。というのは「ユリーカ」以後書かれたエッセイ「詩の原理」(1850年)においては,ポオは再び「ユリーカ」以前の彼に戻って詩と真理は「水と油のごとく相容れない」として,両者を峻別している。「真理の要求は厳しい。(中略)『詩歌』において不可欠のものは,真理とは何の関係もないものばかりである」という言葉からも,そのことは窺うことができる。(4)

 詩に関しては,実作においても,理論においても,ポオは詩の純粋性に生涯固執したといってよい。そして詩のうち,最高のものは美を歌う叙情詩であるとする考えも,生涯変わっていない。しかし叙情詩を最高の詩形式と考えるということと,広大無辺の宇宙の神秘に詩を感じ,それを宇宙創世譚という長編の散文詩に表現するということは,まったく別の事柄である。いいかえれば,ポオの詩的精神が美を見いだしたところの宇宙は,あまりにも広大すぎ,叙情詩形式の枠には納まりきれず,ポオは自ずと知的興味に一層適した散文の世界にはみ出さざるを得なかったというべきであろう。
 しかし,叙情詩形式をはみ出し,散文詩形式(「ユリーカ」には「散文詩」という副題がつけてある)となることによって,詩がその純粋性を失うことも確かである。したがってポオが序文で控えめながら「私の死後この作品はただ詩としてのみ批判されることを希望する」と述べたとき,そのおこがましさを一番よく知っていたのは他ならぬポオ自身であったろう。せいぜいのところ「一個の芸術作品として,いわばロマンスとして受け取ってほしい」という一節は,おそらく偽らざる彼の本音であったろう。(5)

 では「ユリーカ」において,ポオはそれまでの詩の概念をいかにはみ出しているのかを見てみよう。

 序文にあるように,ポオはこの真理の書を「真理を語っているという性格のためでなく,真理の中に漲る美のために捧げる」(6) と書き記している。美が真理の中にあるというポオの考えは,美が真理とは別個のものであるというそれまでの彼の考えとは,甚だしい相違を見せる。宇宙においては真理の中に美があり,美の中に真理がある。その美と真理,詩と科学を一体化することによって,宇宙はその全貌を捉えることができるというのが,「ユリーカ」を貫くポオの信念であった。

 詩のアンソロジーとしての宇宙

 それまでのポオの詩論の信奉者たち,あるいは純粋詩の概念にとらわれた人たちは,「ユリーカ」を一編の詩とーあるいは一編の散文詩とさえー見なすことに大きな心理的抵抗を感じるであろう。何故ならそれは宇宙の起源・生成・終末という科学論文にふさわしい主題であるし,文章は例証や三段論法に相応しい論理的散文だからである。しかしポオにとっては,主題が宇宙であるにもかかわらず,いや宇宙であるからこそ,「ユリーカ」は詩なのである。というのは宇宙は神の創造した作品であり,そこには均整の美があり,「宇宙はその均整美の素晴らしさにおいて最高の詩」だからである。(7) ポオはただ彼が宇宙の中に感じた美を,「言葉の力」(8) によって忠実に再現したにすぎないといえる。

 1848年1月22日,ポオは Nathaniel P. Willis への手紙の中で次のように述べている。「2月3日木曜日,『図書館協会』で講演会を予定しています。そしてテーマは口論の種にならないように,文学関係のものではなく,宇宙という広い "text" を選びました。」(9) 「宇宙という広い "text"」なる言葉は,「ユリーカ」のもつ意味を象徴的に表している。つまり宇宙を意味内容のあるひとつの「テクスト」として解読した結果を綴ったものが「ユリーカ」であるとすれば,「ユリーカ」の言説が「詩」となるのは当然である。なぜなら「宇宙」はポオにとって神の著した詩のアンソロジーだからである。彼自身宇宙を詩として読んだように,読者も「ユリーカ」を一編の詩として読んで欲しいというのが,ポオの願いであった。

 宇宙をテクストにおいて忠実に再現するためにポオの採った方法は,宇宙の生成・消滅についての言説を,実際のプロセスとの間に厳密に一致させることであった。まずポオは「単一」の原子が「放射」と「収縮」を経て原初の「単一」へ復帰するという宇宙変遷のプロセスを,直観によって「単一」なる起源の仮設から出発させ,「演繹法」で見事に論証した。そして今度は逆に,原子が無限に拡散し,多様化した現状の宇宙から出発し,「単一」に向かって回帰・消滅するプロセスを,ニュートンの重力原理などを援用しながら「帰納法」で証明した。このような叙述の方法について,Michael Williams は「原子の拡散を説明するとき叙述が中心から周縁へと移動していくが,引力の説明のときはプロセスが反対になっている」と指摘し,「宇宙と言説との間に暗黙の相関が続けられている」といっている。 Williams はさらに続けて「『ユリーカ』は宇宙と文学作品とを同一化している。読者は読み進むにつれて,『宇宙の筋書き』がテクストの言説と相互に絡み合うという奇妙な効果を受ける」と書いている。(10)

 「ユリーカ」で提出する新しい詩の概念

 しかし「ユリーカ」を詩として見ると,それはポオ自身がそれまで「構成の哲理」(1846年)等で立てた詩の基準にかなり違反していることもまた認めなければならないであろう。例えば,この作品の長さは詩的感興の持続限度である「100行」を遥かに越えるし,またそこには最も詩的な主題という「美女の死」もなければ,「音楽的旋律」を伝える韻文の美しさもない。そして詩の扱う「唯一の正当な領域である美」の代わりに,圧倒的に「理知の満足を目指す真理」がある。(11)

 にもかかわらず,ポオは「ユリーカ」を詩として読まれることを願望する。その瞬間ポオは自分の立てた詩理論の土台を,自ら掘りくずさなければならない羽目に陥る。W. H. Auden は「ユリーカ」は「ポオが自分で立てた詩についての規範をすべて破る詩」であるという。(12) もしわれわれがポオの願望にしたがって「ユリーカ」を詩とみるならば,われわれもポオとともに彼が以前に主張した詩の必須要件を否定し,新しく詩の概念をつくり直さなければならないのではなかろうか。

 「大鴉」(1845年)においては,主人公は死せる恋人にエデンの園で再会することができないが故に,「美女の死」は悲しくも美しい。しかしこの「ユリーカ」に舞台を移すとすれば,彼は今は亡き恋人にエデンの園で再会できる。のみならず彼は神にさえ出会うことができる。そして神の神秘を入手し,やがて彼自身は神になることができる。ここでは憧れの対象はもはや「死せる美女」ではなく「宇宙の真理」である。表現の対象である「美」も,もはや「詩の唯一の正当的領域」(13) としての美ではなく,「真理の中に漲る美」(14) であり,「宇宙の均整の中にある美」(15) である。

 このように形式を脱して内容へ赴こうとする「ユリーカ」でのポオの新しい試みは,「美の旋律的創造」(16) なる概念についても,その見直しを迫る。短詩についてポオの主張するリズムの繰り返しによる美的効果は,この「ユリーカ」では内容の繰り返しからもたらされる快感として捉え直さなくてはならない。すなわち単なる韻律形式のリズムではなく,物質的宇宙を作り上げる原子や原子集塊の放射や収縮のリズム,換言すれば宇宙における原子の満ち引きの永遠の反復のリズムとして,理解しなければならないであろう。

 ポオが「構成の哲理」で主張する「詩作品における適切な長さは100行前後である」という規定は,いうまでもなく「魂の高揚と興奮」を主目的にした純粋詩について当てはまるものである。ポオは長詩は統一の効果を失うから100行という制限をつけたのであって,「『ロビンソン・クルーソー』のような効果の統一を要しない散文作品」は,むろん「この制限を越えたほうが有利」であるとする。そして当然のことながら「真理という知性の満足」は,詩よりも「散文における方がはるかに容易に達せられる。」(17)

 明らかに,詩についてポオの主張することは,一般的に詩の形式や題材はその詩のテーマ,つまり何を表現目的にしているかによって決まるということである。表現内容に合わせて形式が選択されるかぎり,宇宙創世を物語る知的内容の詩が,短文の純粋詩でなく長編の散文詩形式にならざるを得ないのは,ポオの理論からすればむしろ当然であろう。その意味では,この散文詩「ユリーカ」は自己の詩理論の否定ではなく,むしろその拡大・発展というべきである。彼の宇宙創世という壮大なテーマとそれを選択した彼の詩精神が,狭隘な短詩の枠を破って,散文への志向をポオに実践させたと解釈できる。

2.美と真理を把握する「直観」の方法

 方法論を超越する直観

 「ユリーカ」は,「物質的ならびに精神的宇宙に関する試論」というその副題が示すごとく,あくまでも宇宙論という「真理の書」である。しかしすでに述べたように,ポオは前書きでこの宇宙論を「真理を伝えるという性格のためではなく,真理の中に漲る美のために」捧げると明記する。(18) このことは真理は美とは別の場所にあるのではなく,まさに美の中にある,いいかえれば真理は美なるが故に真理として存在するということである。そのような真理あるいは美は,明らかにもはや知的分析の対象ではなく,直観の対象である。そして美と真理とを同時に捉える直観は単なる直観ではなく,いかなる知的吟味にも堪え得る至高の直観でなければならない。

 同じ「ユリーカ」の序文の冒頭でポオはこの真理の書を「考える人よりむしろ感じる人」へ捧げると書き記している。これは John Irwin が主張するように,ポオが「言語的言説で宇宙の起源を表現しようとする試みの中には,本質的な矛盾が存在することに気付いていたから」かもしれない。(19) いずれにしても「考える人より感じる人へ」という言葉には,直観は感性による事物の本質的把握であるという,直観の持つ本質的方法についての示唆がある。

 直観とはポオによれば,「演繹および帰納のいずれかによって到達した確信であるが,ただそのプロセスがあまりに漠然としているので,意識や理性には捉えられない。」(20) したがって「直観」を駆使する人間は,推理の過程に演繹や帰納の方法論をもってはいるが,ただ彼はそれを意識的に使用することを避け,むしろそれを飛び越え,一挙に真理に到達しようとする。いいかえれば,論理による推論より,想像力による感覚的把握を重視する。というのは直観の方法には,理性による対象の意識化を拒否するものがあるからである。

 エトナ山頂からの鳥瞰

 「ユリーカ」は「単一」の原子から始まった宇宙が再び「単一」に帰るまでの,いわば宇宙の一生を描いた衝撃的直観の書であるが,そのような直観をポオに可能にしたのは,宇宙の鳥瞰図的把握の方法である。「ユリーカ」の冒頭でポオは,エトナの山頂に立ち,踵で一回りして世界の荘厳なパノラマ的鳥瞰を得ることを提案する。鳥瞰とは宇宙を一瞬のうちに全体として捉えること,ポオの言葉でいえば宇宙をその「全一」の姿において感覚的に把握することである。宇宙は無限の広がりをもつ無限に複雑な事物の集まりであるが,その錯綜の中から宇宙の本質を抽出するためには,複雑な細部を切り捨て,事物を出来る限り単純化しなければならない。そのための認識の方法としてポオの推奨することは,高所で踵を中心にぐるりと「旋回」し,万物を「通観」する方法である。そうすればすべての細部が消え去り,万物の真理が見えてくるという。(21)

 ところで,ポオの持ち出したエトナ山頂の比喩は,われわれを次のような想像へと導く。つまりポオがエトナの山頂に立ったのは,旋回と通観によって宇宙の全貌を一瞬のうちに捉えるためであったが,火口から吹き出す火炎や黒煙を見たとき,彼の脳裏にひらめいたのは,宇宙は「原子の放射」から始まったという「ユリーカ」のモチーフではなかったか。この想像図の中にあるアレゴリーは,ちょうどガモフが原爆の炸裂を見てビッグバンを思いついたというのと同様に,真理の発見は偶然と直観の産物であるということである。

 平地に立つ人間の感覚が直接捉える世界は,通常狭く限られている。ポオの推奨するように,エトナ山頂に登ればより広い地平が開けるし,旋回をすればさらに世界はその全貌をわれわれの眼前に現す。そのとき人間の知ることは,かつて地上でひとつだけ孤立した事物や現象と見えたものは,実は孤立しているのではなく,より広い外部の世界とつながっていることである。しかもそれだけではない。彼は眼前に開けている地平は,自分の感覚の限界を越え,空間的にも時間的にも無限に広がり,しかも巨大な物体の一部を構成しているのではないかという類推である。いいかえれば,それは感覚のつかんだ世界は地球の一部に過ぎず,また地球そのものも宇宙天体のひとつに過ぎないという直観である。

 いずれにしてもパノラマ的鳥瞰から,人間は世界を一つの統一体として認識することができる。何故なら鳥瞰における旋回と通観により,世界はさまざまな細部の矛盾が捨象され,その中に太い線の全体像が本質として浮びあがるからである。John Irwin はいう。「『ユリーカ』の主張することは肉体的直観の得た真実であり,精神が外部世界を熟視したとき発見するさまざまの対象がひとつの統一体を形成しているということである。」(22) いいかえれば,「ユリーカ」の描いた世界は,直観が把握した一つの矛盾の統一体としての自然である。

 このように世界をパノラマ的「全一」として捉えることは,「星の宇宙」論完成のための必須の条件であるが,同時にそれは宇宙論を構築する主体としての人間自身の発展のためにも不可欠の出発点である。というのは「旋回」による「通観」をただ自然に対してだけでなく人間精神にもおよぼすとき,人間はそれまでもっていた個人としての諸特徴を失って,類としての特性を獲得し,「人類となる」からである。(23) そしてそのとき人間ははじめて自分自身を作り出したものの存在,すなわち神を意識し,神を通して自らを知ることができる。

 直観のメカニズムー「単純化」と「類推」

 ポオの用いた直観の方法を解明するには,デュパンが犯罪解決に用いた方法を調べるのがよい。「デュパンの得る結果は,方法論のエッセンスからもたらされるのであるが,そこには直観の雰囲気が付きまとう。」(24) つまり直観は,結論に達する手段として厳密な方法論をもっているが,それは表面的知識として存在するのではなく,その人の心の内面に取り入れられ,無意識化されている。そのため他人にはその modus operandi が神秘の靄に包まれているように見える。しかし当の本人にとってはその方法論を意識化することはきわめて簡単である。それはデュパンの事件解決後の謎解きを聞けば分かる。つまり,靄と思われる世界の向こう側には,実は澄明の世界がある。

 「盗まれた手紙」(1845年)でデュパンは知事に対し,犯罪解決における問題点を次のように説明する。「あなたを誤らせるのは,その問題がまさに単純だということにほかなりません。」(25) これを敷衍すれば次のようになる。一般の常識としては,単純なものは真理とはほど遠いと考えられているが,しかしそれは錯覚であり,いかに単純な事実といえどもそれを生じさせる背後に一つの法則がある以上,その単純な事実を切り捨てては真理を掴むことはできない。「Bーへの手紙」(1836年)には次の一節が見られる。「より大いなる真実についていえば,それを水面より水底に求めることによって,人はかえってしばしば誤りをおかす。」(26) デュパンに先だつこと10年にして,ポオはすでに表面に現れた単純な事実こそ,その奥の真実を最もよく伝えているという確信をもっている。

 しかし,単純さというものは,ただ自然に表面に現れているものではなく,努力の結果発見するものでもある。ある事実が単純だということは,そこに単純さを発見することであり,そのような発見は他の多くの事実の錯綜する困難な中でなされるものである以上は,それはちょうどパノラマ的鳥瞰における「旋回」と「通観」のように,細部を消して本質を浮かび上がらせるための「単純化操作」の結果としての発見である。その意味で単純は単なる複雑より,いっそう真理に近いものである。

 こうして,デュパンにとっては単純さを発見することが事件解決の第一歩であった。そして次にデュパンが要求するものは「類推」である。「類推」とはある事実や現象を,それによく類似する他の事実や現象に当てはめ,その本質や意味を明らかにすることである。「単純化」と「類推」,この二つがデュパンの直観を可能ならしめる modus operandi である。

 「ユリーカ」においても同じ方法がとられている。ポオはまず観察したまわりの事実や現象を集め,それに「単純化」の操作を加え,「類推」によって直観的に仮説を引き出す。宇宙の起源が「単一」原子であったというのも,そのような仮説のひとつである。

 ここでポオのおこなった単純化と類推の例を「ユリーカ」の中に見てみよう。

 例えばすでに述べたように,エトナの山頂で旋回し,細部や諸観念の錯綜を消し去ることによって,「全一」を入手した方法(27) は,「単純化」の典型的例であるが,後述するような「矛盾撞着の外皮をはぎ取り」,一貫性を表面に浮き出させる方法にも,同じ「単純化」の手続きがとられている。(28) また「単純化」の方法が起源を求めて止まないポオの思考過程に持ち込まれるとき,それは物質をそれ以上分割不能な微粒子すなわち「単一原子」にまで「単純化」することになる。(29) さらにその「単純化」が神におよぶと,「単純は神の太初の行為の特徴である」(30) となるし,宇宙の原理におよぶと,「究極の原理はすべて単純である」(31) となる。

 そして「単純化」の後には,「類推」の方法が用いられる。例えば,物質の放射の説明を,光の放射の類推によって行なったり(32),地球の収縮過程においては,生命や意識現象を電気に類比したりする。(33) あるいは収縮する太陽の惑星投擲時における星雲の外側の表皮をパンの耳にたとえたりする。(34) また,太陽系をひとつの聚合の例に過ぎないとして,それに類する無数の宇宙を暗示させたり(35),太陽系をはじめとする各星団をそれぞれ一つの原子と見て,その各原子を吸引するさらに大きな中心を想定し,そこから無限に宇宙を拡大させたりする。(36)

3.美と真理を確かめる「一貫性」の方法

 「直観」の正しさを証明する「一貫性」

 それでは「単純化」と「類推」によって直観的に導き出された仮説が,はたして真理を正しく反映しているかどうかを,人はいかにして見極めることができるか。換言すれば,直観が真理であることができるための基準は何か。

 ポオによれば,人間は真理へ至る道においてまず対象を観察することから始め,ついでその観察した事実について「思索」をめぐらし「体系化」をほどこす。そして一つの仮説を立てる。その過程において「矛盾撞着の外皮は徐々に剥がれ」,最後に純粋な「一貫性」が残される。この最後に残ったものが,疑いようのない絶対的真理である。(37) 別の言い方をすれば,その仮説から演繹される推論が観察された事実と一致するとき,それは真理となる。つまり仮説が真理となるのは,演繹と帰納の完全な一致によってその「一貫性」が証明されるときである。デカルトの "cogito, ergo sum" の命題を思わせるこの方法こそ,ポオが「ユリーカ」で行なった真理発見の方法である。

 ポオは「ユリーカ」の結末近くで次のようにいう。「自然の法則はどれひとつを取り上げてみても,すべての点においてそれ以外の多くの法則に依存している。」 そして「多くの法則を凝縮してひとつの法則にまとめ上げることが必ずできる」ともいう。(38) Paul Valery は「『ユリーカ』をめぐって」(1923年)で,ポオのこの言葉に触れて次のようにいう。「これは法則として公式化されていないとしても,少なくとも一般相対性理論を目指した表現である。その方向が最近の考え方に接近していることが明かに分かるのは,この詩の中に物質,時間,空間,重力,光の間の『均整のとれた』相互依存的な関係があることを,ポオが断言していることを知るときである。」 つづいてValery はこの引用文の中にある「均整のとれた」という言葉を取り上げ,アインシュタインの宇宙を特徴づけるのはこの「形式的均整」であるといい,ポオの宇宙観との類似を指摘している。(39)

 このような宇宙における存在や現象の深い相互関係の認識は,次いでポオを「原因と結果の互換性」という考え方に導く。「一貫性」を無限の相互関係の中において見れば,ある結果を生みだした原因は,実はその前にある原因の結果であることが分かるし,その前の原因はさらにその前の原因の結果であることが分かるというように,原因は結果となり,結果は原因となる。つまり起源を無限に追求する精神にとっては,原因と結果は固定されたものではなく,互換性を持ったものである。ポオはこれを「適応の互換性」と呼び,神の宇宙計画の特徴であるとした。(40) これについてはすでに前号掲載の拙論で触れた通りである。(41)

 このようにポオの「一貫性」の論理は,宇宙と人間の知性との間に深い相関を発見する。ポオが「ユリーカ」で提示することは,「一貫性」は宇宙のすべての領域に行きわたっていること,すなわちただ自然の世界だけでなく,人間の知性の中にも広く行きわたっているということである。 同じことを Paul Valery は次のようにいう。「『一貫性』はポオの体系において発見の方法であると同時に,発見そのものでもある。」(42) すなわちポオは宇宙体系の中に「一貫性」のあることを発見しただけではなく,それを発見する方法自体に「一貫性」のあることを発見したのである。

 このように宇宙と人間とが同じ原理のもとにあるからこそ,人間は自然の中に存在する真理をまさに人間の求める真理として共感することができる。「一貫性」をもつ精神が,宇宙の「一貫性」を発見することができる。同じことを Valery は次のような言葉で語っている。「数学上の諸発見は数学者の才能による創造」ではなく,自然の中に最初から存在していた真理を,「彼らの知的訓練,感性,意志による稀なる推測によって」,幸運にも捕捉出来たものに過ぎない。(43)

 「一貫性」と「均整」

 さて,これまで直観が真理を正しく反映しているかどうかということについて,「一貫性」を尺度にして見てきた。ここで再度ポオの言葉を引用すれば,「事物はその真実さに比例して首尾一貫しており,その首尾一貫さに比例して真実である。」「完全なる一貫性は絶対の真理である。」(44) しかしポオは「ユリーカ」で,真理の尺度としての基準を「一貫性」のほかにもう一つ挙げている。それは「均整」という概念である。ポオが明確な意図をもって「均整」という語を使用するのは,次のような文脈においてである。「均整感は宇宙の詩的本質である。」したがって「それは盲目的に信頼してよい本能である。」(45)  Valery はこれを敷衍して,「宇宙は精神の内部構造に現れているような深い均整をもつ設計の上に構成され」ており,「詩的本能は盲目的に,われわれを真理に導く」という。(46) すなわちわれわれの詩的本能が美を感得した対象には,必ず均整があり,そして均整があるところには,必ず真理がある。なぜなら美と真理とは,宇宙においても人間精神の中においても,別々のものとしてあるのではなく,ひとつのものとして一体化しているからである。

 つづいてポオは次のようにいう。「均整と一貫性は置換可能な語であり,したがって詩と真理とは同一に帰する。」(47) ここでポオがこのような「一貫性」と「均整」という異質の語を「置換可能語」といったのは,むろん「真」と「詩」という異質の価値概念を一体化しようとする「ユリーカ」のテーマを成就せんがためである。「一貫性」は人間の知性が対象の中に発見する論理的整合性であるのに対し,「均整」は美的感覚が把握する幾何学的形態の対称性を表している。前者は言語的・時間的概念であるのに対し,後者はむしろ非言語的・空間的概念ということができ,より直観的認識にふさわしいものである。この意味の相違を踏まえたうえで,ポオはそれらを置換可能な同義語であるとする。そうすることによってポオの目指したことはいうまでもなく,科学と詩とを合体させることであった。つまり,彼は「一貫性」に「均整」の概念を取り入れることによって,「科学的真理」に美的要素を加えようとしたのであり,同様に「均整」に「一貫性」を取り込むことによって,「詩」と「芸術」を知的吟味に堪え得るものとしようとした。

 人間の詩的本能である「均整」感と絶対的真理のメルクマールである「一貫性」とが,言い換え可能な語であるとすれば,詩と真理,すなわち芸術と科学とは同一の基盤に立つことになる。ポオにとっては科学と芸術は形態は異なっても,それを貫く原理は同じである。直観が宇宙の中に感じた美と真理を,ポオは「ユリーカ」の中に啓示しようとした。そこでは科学と芸術,真理と美は,もはや別々のものではない。

 美と一体化した真理

 さて,真理と美とが一体化した世界として「ユリーカ」を眺めれば,「ユリーカ」における議論はそれが知性の基準を満たすかどうかより,美意識の基準を満たすかどうかに基づいて行われているということが分かる。「非相関の分子」という考え方も,「単一」という美的直観の打ち立てた基準を満たしているし,ポオがラプラスの星雲説をその宇宙生成のモデルとしたのも,「その本質において真実性を否定するには,あまりにも美しすぎる」という直観がまず最初に働いたからである。(48) ポオにとって宇宙は幾何学的であり,数学的均整美を備えていなければならない。つまり真理を裁くのに,ポオは知性ではなく,美意識を基準にするのである。それは,「人間はその詩的本能に忠実である限り,大きな間違いを長時間にわたってすることはない」からである。(49)

 このように真理が美と一体化しているとすれば,真理にとってもはや知性による証明は必要でなく,美的感覚さえあればよいということになる。事実,ポオが直観で得た仮説は,すべて理性の手段で証明できるものばかりであるとは限らない。物質が「単一」においてつくられたという仮説について,ポオは次のようにいう。「わたしは仮説という言葉を普通の意味で使っているが,しかしそれは単なる仮説以上のものである。」「この仮説より確実に,また厳格に演繹されたものはほかにない。」「そのプロセスは人間の分析力を越えたところにある。」(50) さらに,別のところで次のように述べる。「わたしは暗示で確信させるだけである。そして暗示だけで充分満足する優れた知性が存在するのである。このような知性に対しては,原理としての太初の単一という偉大な真理を,数学的論拠で証明することはできない。」(51) つまりポオは太初の「単一」を証明することのできない,またその必要がない自明の,絶対的真理であるとする。

 しかし,ポオは自らの「均整を求める詩的本能」に対して盲目的に信頼すると同時に,またそこから生じる誤りの危険に対しても,決して警戒を怠らない。つまりこの均整感への信頼が逆に正確な真理の把握を阻害する原因になり得るとする。ポオはいう「われわれを誤らせて来たものは,大部分,この均整美への偏向である。」 そして真理へ導く「均整」は,「形式や運動のもつ表面的な『均整』ではなく,形式や運動を決定し支配する原理のもつ『均整』」でなければならないという。(52) このことは「均整」が単に形態美のそれではなく,分析的知性に裏付けられたもの,つまり「一貫性」によるテストをもクリアするものでなければならないという意味である。

4.修辞として用いられた科学

 探偵小説としての「ユリーカ」

 さて,「ユリーカ」をポオが序文でいうように「ロマンス」として眺めるとき,どのような見方ができるであろうか。まずその登場人物であるが,最初の哲学的手紙の書き手を除けば,一人は全体の語り手である「私」であり,もう一人は宇宙の創造者である「神」である。「私」は推理物語におけるデュパンよろしく,宇宙の起源という「証拠」と,その証拠を残した神という「犯人」を探しに出発する。時代背景や場所は,ポオの多くの作品と同じく,不明である。

 語り手であるポオを「ユリーカ」というロマンスの探偵役と見る見方の中からから,そのひとつとして Carol Hopkins Maddison の次の言葉を取り上げてみよう。「いまポオは芸術家としての役割を放棄し,科学者探偵の役割に足を踏み入れた。自分の創始した推理ものの方法を駆使して,手がかりを求め,証拠を調べた。彼はすべてが「単一」という仮説に向かっているということ,そしてこの仮説からの推論は観察された事実と一致しているということを突き止めた。だから探偵としてのポオは,芸術家としてのポオが発見できると期待した原理を,宇宙の中に発見したのである。」(53)

 この「探偵としてのポオは,芸術家としてのポオが発見できると期待した原理を,宇宙の中に発見した」という Maddison の言葉から,われわれは二つの重要な意味を読みとることができる。ひとつはそれがいみじくも「ユリーカ」の本質を物語っているということである。つまり詩人として宇宙の神秘に美を感じたポオは,その神秘の美を探偵として科学的に解き明かそうとしたということである。いうなれば「ユリーカ」は,芸術家が直観的に感じた美を,科学の方法で知的分析の篩にかけ,科学的に再構成しようとした書だということである。

 Maddison の言葉がわれわれに与えるもうひとつの意味は,それが探偵小説の本質を物語っていることである。「ユリーカ」の「語り手」は,探偵として宇宙の起源という神の秘密の探索に着手する。しかしその場合,宇宙の秘密は「作者」としてのポオにはすでに分かっている。犯罪解決のクライマックスはすでに設定されている。「登場人物」は倒叙法にしたがって「一貫性」を保ちつつ終局に向かえばよい。ただ「ユリーカ」がデュパンの登場する探偵小説と違うのは,探偵である「語り手」の探し求める対象が神であり,事件の現場は神のつくった宇宙であるという点だけである。

 効果として用いられた科学

 現代の科学者は,理論というものは実験によって絶えずチェックされ,修正される仮説であると考え,決して完成された絶対的真理と断定しない。科学者にとって必要なのは,観察された事実であって,理論ではない。理論は事実に合わせて修正されるべきものである。その意味で,現代科学の方法は帰納法的である。

 しかし,詩人であるポオがそのような意味での科学者ではないのは当然である。なによりも直観を優先するポオにとって,直観の想定したものがすべてである。しかしポオはその直観や仮説の正しさを客観的に立証するというより,むしろ主観的に信じ込ませようとする。直接証拠がなくても,間接証拠をふんだんに利用する。直観の想定した仮説を真理とするために,あらゆる科学的知識を動員する。いいかえれば,ポオは直観を科学的事実で傍証することによってその具象化をはかろうとする。

 Northrop Frye は,科学と芸術の方法の違いについて次のようにいう。「科学はわれわれが住んでいる世界から始め,データを集め,法則を説明しようとする。そこから今度は,想像力の方へ向かう。やがてそれは精神的構築物となり,経験を解釈するためのひとつの方法となる。その方向へ向かえば向かうほど,それは数学の言語をしゃべり出すのである。数学の言語というのは,文学や音楽とともに,実は想像力の言語のひとつであるのだ。」「一方,芸術はわれわれが見るままの世界から始めるのではなく,われわれが構築する世界から始める。それは想像力から始め,普通の経験の世界へ向かっていく。」(54)

 この Frye の区別にしたがえば,ポオの方法はいうまでもなく第二の芸術のカテゴリーに属する。ポオの方法は想像力が直観的に感じ取った世界から出発して,日常経験のレベルにいたる過程を描く。しかし「ユリーカ」におけるポオのすぐれた論理性と科学性は,逆に第一のカテゴリー,すなわち事実から出発して法則の発見に至ろうとする科学者の態度を彷彿させる。むろん,そこには「構成の哲理」と同じ原理が働いており,すでに出来上がった仮説に合わせて事実が選ばれる。(55) そこでは科学は法則発見のために用いられているのではなく,想像世界のリアリティーを増すための効果として用いられている。「ハンス・プファールの無類の冒険」(1835年)などの擬似科学物語に見られるように,科学が修辞として用いられているという意味では,それは今日のSFのはしりということもできる。

5.「ユリーカ」における宇宙論の矛盾

 矛盾点のいくつか

 さて,「ユリーカ」が修辞としての科学を目指すものであるとすれば,そこには詩と科学という本来対立するものを折衷した場合に見られる矛盾を,この「ユリーカ」も作品として当然もっていることになる。事実,ある意味で「ユリーカ」は,そのようなパラドックスの集積といってよい。
 ここで「ユリーカ」に現れたいくつかの矛盾を見てみよう。例えば,原初の「単一」なる原子は「正当な状態」にあるが,そこから「分散」し「逸脱」した原子は「不当」であるという。しかし「多様化」が何故「不当」であるのか,「正」なる神が何故「悪」をつくったのか,ここではその説明はない。(56) しかも「単一」からの「分散」や「逸脱」は,「ある困難に打ち勝つことによってのみ生じた」というが,「ある困難」とは何であるか,何故それが困難であるのか,それも不明である。(57)

 「神がその意志によって霊から,あるいは無からつくった物質は,考えられる限り単純な物質である」という命題は,この論説の「唯一の絶対的仮説」であるとしながら,その数ページ先で,「分散」から「単一」に復帰しようとする原子の性向を阻む「反発力」の説明に,ふたたび神を介入させるのは,いささか不用意で,仮説の乱用のそしりを免れないであろう。(58)

 また,ポオは「われわれは神が『無』から物質をつくったと仮定することで満足しよう」(59) といいながら,Michael Williams の指摘するように,「神について知ることは何も『無い』というその『無』から,彼は彼の言説の『物質』をつくり始める。仮定は『直観』によって正当化され,完全に過去の事実となる。」(60)

 小山田義文は次のようにいう。「ここにひとついかがわしい現象に注意しよう。空間の有限か無限かを論ずる命題において,ポオは「困難」という言葉を詭弁だとして,「不可能」という表現に置きかえようとする。この性急な,有無をいわさぬ論断ははたして妥当であろうか。「不可能」ならば証明が必要だろう。「困難」とは方法の欠如,能力の不足を意味するだけだ。つまり,彼は論理的可能性の問題を精神能力の問題とすり替えようとした。」(61)

 ポオはまた「無限」という言葉は,「神」という言葉や,「霊」という言葉と同様に,「観念の表現ではけっしてなく,それへの努力の表現である。それは得ようとしても到底不可能な観念を目指すことだけは可能であるという意味の,その努力を象徴している。」という。(62) そして「われわれはそれ(無限なる観念)を得ようとして一歩一歩進んでいく。(中略)この努力を続ける限りは,事実われわれは意図した無限の観念を形成しつつあるといえる。(中略)しかしこの努力を中止したとき,その無限の観念に到達した(と信じた)とき,(中略)われわれは究極の,それ故に有限の一点に停止し て,それまで織り続けてきた思想の織物を一挙に覆してしまう。」(63) つまり無限の観念は無限の思考の持続を必要とするから不可能であり,人間の思考が停止するとき,無限に思われた観念も有限になるという。これも小山田義文流にいえば,観念を主観的幻影とすることによって,それのもつ客観的側面を否定しているのである。

 物質的宇宙の背後に精神的宇宙が潜むというパラドックス

 「ユリーカ」のパラドックスを指摘して, John Irwin は次のようにいう。「それはすべてを統一的にイメージできない『統一された』巨大天体というパラドックスである。」 彼はさらに続けていう。「ポオの示すのは超論理的,直観的信念であり,その真実性はポオの主観的意識の中にしかないのである。つまり起源に関する宇宙論や神話は,一見物理的宇宙を描くと見せかけて,実は願望の宇宙を描くところの精神地図である」。(64)

 このように「宇宙論」は,宇宙の起源を説明・記述する Cosmogony であろうと,宇宙の現状を科学的に説明・記述する Cosmology であろうと,本質的に形而上学たらざるを得ない宿命をもつ。何故なら,「宇宙論」が宇宙のすべてを包括するものとすれば,それは宇宙の定義だけでなく精神の定義をもその中に含まなければならないからである。「事物の本性を想像しようとこころみる人間は,自己の精神の範疇をそれに適用することしかできない。」(65)

 ところで,ポオに自然科学を越え,形而上学を志向させたものは何か。それは分析的知性と自意識である。ポオの飽くなき分析精神は,彼に事物をその起源にまでさかのぼって徹底的に追求させる。外部の対象に向けられていたその分析精神が内なる自己に向けられるとき,それは自意識となる。ポオの分析的知性には常にこの自意識がつきまとっている。自意識とは対象を意識する自己をさらに意識する自己であり,自己を超越してその本源に迫ろうとする意識である。そして事物を起源にまでさかのぼって追求する分析精神や,自らを超越して本源に迫ろうとする自意識は,一種の超論理的衝動である。それゆえそれは観察によって得られた事実に推論を加え,一つの仮説にまでまとめあげる科学的方法の過程においても,その方法論の領域をはみ出す危険が常につきまとう。ポオの宇宙論が科学の衣をまとった形而上学であるのはそのためと考えられる。

6.宇宙創世譚としての「ユリーカ」

 自意識の限界

 しかし自意識に沈潜することは,外部の感覚の世界に目をつぶり,論理と抽象の世界に閉じ込もることを意味する。そのような観念の世界では,確かに人は時間や環境の束縛を脱して限りなく自由である。しかしその自由のために失うものもまた大きい。 Paul Valery は「ポオの『ユリーカ』について」(1923年)で,「ユリーカ」の中心的意味を指摘して次のようにいう。「時間の限界を去るや否や,われわれの存在をその外へ広げようとするや否や,その自由のためにわれわれは力を失う。」(66) つまり人はその存在の限界を越えるとき,無力となるということである。 Allen Tate によれば,それはポオが「ユリーカ」で「自らを神の面前ではなく,神の座につかせようとした」ことから来る無力感である。「感覚の世界からの知的自由の結果として の力の喪失」ーーこれがポオの Angelism の注釈としての,Tate による Valery の読みである。(67) 知力が真の対象を持たなくなると,それは力を失う。つまりポオは感覚を捨て,神の座につこうとしたがため,力を失ったというのである。

 さらに Allen Tate はいう,「人間は自然界へのアナロジーとしての神に到達できるだけである。」 何故なら,有限の人知は「感覚の力によって見たものの中にしか,見ることが出来ない」からである。感覚は素晴らしい力を持っている。「人間の知力の中には,いままで感覚によって把握できなかったものは何ひとつない。」 しかしポオは「自然を見ることを拒絶するので,何も見えない」のである。「人間の想像力の及ぶ範囲は,類推の梯子を越えることはない」。その梯子の頂上に立って,われわれが見ることのできるものは,「地上の感覚世界からわれわれ自らが運び上げたもの」だけである。感覚を捨てた,抽象的で空虚な天使の知恵では,頂上から見下ろしても,何も見えないという。(68)

 Valery によるポオ批判

 1840年に雑誌に発表した批評文の中で,ポオは次のように書いている。「人間の精神は実在しなかったものを想像することはできない。(中略)グリフィンは想像できるが,グリフィンは実在しないと,たぶん人はいうであろう。なるほどグリフィンは実在しない。しかしその構成要素は実在する。それはすでに知られている四肢や容貌の単なる組合せにすぎない。」(69) ここには人間の想像力の限界についての鋭い洞察がある。しかし Valery はポオのこの言葉を捉え,逆にそれをポオ批判の根拠につくりかえる。すなわち Valery は「事物の起源についてのあらゆる思想は,事物の現在の組み立てによる空想,すなわち現実のひとつの変質形態にすぎない」として,「人間は宇宙の起源やその総体を把握できない」(70)と書いたのである。

 ここでしばらく「ポオの『ユリーカ』について」における valery のポオ批判を見てみよう。Valery によれば,起源における虚無とは,絶対的な「虚無」でなければならない。しかし人が虚無という観念を持つとき,その虚無は本源的意味の「虚無」ではなく,すでに「何物か」になっている。つまり「虚無」という観念にとって,「私」はなくてはならない存在である。この意味で,私は「私自身」を指して便宜上「虚無」と呼んでいるに過ぎない。「虚無」とは主体の色濃い投影である。

  Valery はまた,宇宙の起源と同様に,人間は宇宙を「全体」として直覚的にも理論的にも把握することができないと考えた。まわりを見渡すと,目にはさまざまのものが 映る。しかしわれわれの感覚を通して知覚される現実の事象は,その背後に時間的にも空間的にも膨大な体系を持っており,その体系はわれわれの目には見えないが,現実の様々の要素を支え,貫いていることを感じないわけにはいかない。したがってわれわれが経験する「いま」「ここで」という認識は,すべてその周囲やその過去に存在する無限の体系に結び付けられていると感じざるを得ない。そこに生きる個人の生命は,Valery の言葉を借りれば,ちょうど「ひとつの石ころに付着した磯巾着」のようなものである。このちっぽけな,不安定な石ころの上に,人間は如何にして恒久的・絶対的宇宙像を構築することが出来ようか。もしわれわれが現前する一瞬を離れて,自分の存在以上のものを志向しようとすれば,われわれはたちまちその過度の自由に堪えられず,われわれの有するあらゆる知識や能力は混乱に陥る。

 最後に Valery は宇宙創世説の不可能なることを,次のように証明してみせる。宇宙論が人間の想像を絶した絶対的なものであるためには,それは何物にも似ていてはならない。しかし,何ものにも似ていないものの概念を,人間はいかにして獲得することができるだろうか。われわれの描いた宇宙が何ものかに似ているとすれば,それはわれわれの知識や経験を超越した「総体」としての完全な宇宙ということにはならないであろう。また,もしそれが何ものにも似ていないとすれば,言い換えれば人間の想像力を越えるような,総体として完全な宇宙であるとすれば,そもそもそのようなものを不完全な人間が考え付くことは出来ないではないか。

 かくして Valery によれば,宇宙の起源については,そこには常に「神話しかない」のである。

 「ユリーカ」の歴史的意味

 しかし, Valery は「ユリーカ」を評価して次のようにいう。「ポオは数学的な言葉を用いて,ひとつの抽象的な詩を書いた。まさにそれは物質的で精神的な宇宙を,総体的に説明しようとするたぐいまれな現代の Cosmogony(天地創世譚)である。そして Cosmogony は大昔から数多くある一種の文学形式である。」(75) また W. H. Auden は,ポオの「ユリーカ」を書いた意味について触れ,次のようにいう。「叙事詩における英雄物語よりも古いテーマである宇宙創世というテーマを取り上げ,それを現代的観点から書くこと,つまり何百年も前にヘシオドスやルクレティウスがギリシャ語やラテン語でなしたことを,19世紀の英語でなしとげることは,大胆かつ独創的な考えであった。」(76)

 このように,Valery や Auden は「ユリーカ」をルクレティウスやヘシオドスにまでさかのぼることのできる「天地創世譚」という最古の文学形式として分類した。「ユリーカ」をそのようなものとして読めば,それが科学の体裁を保ちながら内容的には科学を越えているのを,われわれはむしろ当然として受け止めることができる。何故なら「天地創世譚」は歴史的に見れば,神話,聖典,宗教詩,叙事詩などのジャンルとして存在し,なにより宗教に関係してきたからである。しかし,ルネッサンス期以降科学が発達し,宇宙が科学という素晴らしい代弁者を発見するにつれて,宗教は世界や宇宙の創世を語る情熱を失い,ついで芸術や哲学もそれに続いた。

 やがてコペルニクス(1473ー1543),ケプラー(1571ー1630),ガリレオ(1564ー1642),ニュートン(1642ー1727)などが現れ,宇宙論はヘシオドスやルクレチウスの時代の文学的色彩を一掃し,精緻な科学となった。いわば宇宙論は Cosmogony から Cosmology へと変貌を遂げたといっていい。科学が宇宙を制覇したという意味では,それは科学の勝利といえるであろう。しかし科学をも含めた人間の文化全体から見れば,われわれはその一部門である科学だけの勝利を率直に喜ぶわけにはいかない。というのは宗教や芸術や哲学は,宇宙という無限の想像力の宝庫を失うことによって自らの貧困化を招いたからである。

 ポオの生きた19世紀前半はそのような影響の延長線上にあって,宇宙論はまだ Cosmology の側面を大きくもっていた。20世紀にアインシュタイン(1879ー1955)の相対性理論が出るにおよんで, 宇宙論は Cosmology から再びかつての Cosmogony への方向へ軌道修正することになった。アインシュタインに先立つこと半世紀,このような宇宙起源論に対する関心を文学の世界から強く喚起したのが,幼いときから星と宇宙に興味をもちつづけてきた詩人ポオであった。彼は宇宙の起源についての考察を文学の題材とすることによって,それまで科学に奪われていた宇宙を芸術の領域へ取り戻し,そうすることによってそれまであった科学と芸術との間の断絶を取り払い,両者を結びつけようとした先駆的な詩人ということができる。
                                終り


[注]

(1) The Complete Works of Edgar Allan Poe, ed.by James Harrison (hereafter cited as CW ), Vol.VII, "SonnetーTo Science", p.22.
(2) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.183.
(3) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.302.
(4) CW, Vol. XIV, "The Poetic Principle", p.272.
(5) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.183.
(6) Ibid., p.183.
(7) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.302.
(8) これはポオの作品の題名。CW, Vol. VI, "The Power of Words", (1845)
(9) CW, Vol. XVII, "Letters", p.292.
(10) Michael Williams, "A World of Words", p.147ー148.
(11) CW, Vol. XIV, "The Philosophy of Composition", pp.193ー208.
(12) W. H. Auden, "Introduction to Edgar Allan Poe: Selected Prose and Poetry", p.280. ("Edgar Allan Poe, Critical Assessments", ed. Graham Clarke, Vol.I.)
(13) CW, Vol. XIV, "The Philosophy of Composition", p.197.
(14) CW, Vol. XVI, "Eureka",p.183.
(15) Ibid., p.302.
(16) CW, Vol. XIV, "The Poetic Principle", p.275.
(17) CW, Vol. XIV, "The Philosophy of Composition", pp.196ー198.
(18) CW. Vol. XVI, "Eureka", p.183.
(19) Irwin, op.cit., p.117.
(20) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.197, P.206
(21) Ibid., p.187.
(22) John T. Irwin, "The White Shadow", p.118,("Modern Critical Views", ed. Harold Bloom.)
(23) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.187.
(24) CW, Vol. IV, "The Murders in the Rue Morgue", p.146.
(25) CW, Vol. VI, "The Purloined Letter", p.29.
(26) CW, Vol. VII, "Letter to Bー", p.39.
(27) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.187.
(28) Ibid., p.196.
(29) Ibid., p.206.
(30) Ibid., p.221.
(31) Ibid., p.222.
(32) Ibid., pp.225ー232.
(33) Ibid., pp.212ー214.
(34) Ibid., p.256.
(35) Ibid., pp.267ー268.
(36) Ibid., pp.268ー269.
(37) Ibid., P.196.
(38) Ibid., P.255.
(39) Paul Valery, "On Poe's Eureka", p.406. ("Edgar Allan Poe, Critical Assessments", ed. Graham Clarke, Vol.II.)
(40) CW, Vol. XVI, "Eureka", pp.291ー292.
(41) 名古屋経済大学・市邨学園短期大学「人文科学論集」第50号, 「ポオのユリーカにおける単一回帰の思想」参照
(42) Valery, op.cit., p.405.
(43) Ibid., p.405.
(44) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.302.
(45) Ibid., p.302.
(46) Valery, op.cit., p.405.
(47) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.302.
(48) Ibid., p.252.
(49) Ibid., p.302.
(50) Ibid., p.206.
(51) Ibid., p.221.
(52) Ibid., p.302.
(53) Carol Hopkins Maddison, "Poe's Eureka", p.351.
(54) Northrop Frye, "The Educated Imagination", P.23.
(55) 名古屋経済大学・市邨学園短期大学「人文科学論集」第48号, 「大鴉におけるポオの方法」参照
(56) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.233.
(57) Ibid., p.233.
(58) Ibid., p.212.
(59) Ibid., pp.205ー206.
(60) Williams, op.cit., p.149.
(61) 小山田義文,「エドガー・ポオの世界」,60頁.
(62) CW, Vol. XVI, "Eureka", p.200.
(63) Ibid., p.203.
(64) Irwin, op.cit., p.118.
(65) 小山田義文,op.cit., 60頁.
(66) Valery, op.cit., pp.403ー408.
(67) Allen Tate, "The Angelic Imagination", p.48.
(68) Ibid., pp.48ー49.
(69) CW, Vol. X, "Alciphron: A Poem", p.62.
(70) Valery, op.cit., pp.403ー408.
(71) Ibid., p.408.
(72) Auden, op.cit., p.280.

 <英文題名>The Identification of Science with Poetry
        ー Poe's Method of Narrative in "Eureka" ー

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