「ユリーカにおける単一回帰の思想」                安藤邦男

       名古屋経済大学・市邨学園短期大学人文科学論集50号 1992年2月15日

【筆者注】 散文詩「ユリ−カ」は,単一の原子から始まった宇宙が再び単一の原子に還るまでの,いわば宇宙の一生を描いた形而上学的宇宙論である。そこに集約されているのは 「単一回帰」の思想である。 この「単一回帰」の思想は,ポオの生涯を貫くアレゴリーであるとともに,彼の全作品における「ユリ−カ」の位置を象徴するものでもある。本稿ではまず「単一回帰」の思想やそのパタンが彼の著作活動を通じていかに発展してきたか,あるいは繰り返されているかを,「難破船もの」や「アッシャー家の崩壊」等の作品を通して跡づけようとした。また,宇宙の終末を扱う場合は,「神」や「人間の運命」の問題を避けて通ることはできないので,それらの問題にも触れるとともに,「単一回帰」の瞬間に人間はいかにして神になることができるか等の問題を,「催眠術の啓示」に言及しながら考察した。


1 「ユリーカ」と「単一回帰パタン」

(1)ポオの形而上学的宇宙論の概略

 エドガー・アラン・ポオ(1809ー1849)が「ユリーカ」(1848年)(1)で目指したものは,その導入部にもあるように,ただ単に「物理学的」あるいは「天文学的」宇宙論ではなかった。彼は宇宙を星の宇宙としてだけでなく,人間存在を含めた空間の宇宙として,総体的に捉えようとした。その対象は「物質的」であるとともに「精神的」な宇宙であり,その方法は「物理学的」であるとともに「形而上学的」であった。(2)

 では,ポオは宇宙をどのように描いたか。まず彼の宇宙論の概要から見ることにしよう。「ユリーカ」に述べられた宇宙創生物語は,要約すれば次のようである。

 宇宙は分割不可能な物質の最小単位である原子から始まった。その原子は無限の数の微細な原子群となって四方の空間に放射された。最初の原子の単一体がどうして生じたのか,またそれはどうして無限の数となって四方に飛び散ったのか,それは分からない。分からないから,それは神の創造だとまずポオは仮定する。

 放射によって拡散した無数の原子は二つとして,同じ大きさ,同じ性質,同じ距離を持ったものはない。そのような無限の差異の生まれる理由も,神によって最初の原子に限りなく多様な分割可能性が与えられたためである。

 原子の拡散が宇宙のほとんど果てにまで及んだとき,神は放射を中止した。すると今度は神の力に代わって,物質的な自然の力がその反作用として始まる。すなわち拡散し,分離した原子は,最初の単一の状態を求めて復帰しようとする。そのとき各原子の求める中心は,宇宙のすべてに存在するパスカル的中心(パスカルは「宇宙はその中心がどこにもあるが,その周辺がどこにもない球体である」という)(3)であり,放射の出発点としての中心点ではない。すなわちこれは原子が密集し,他の原子を牽引する力を持った地点であって,それは宇宙の至るところにある。そして各原子は拡散されたその場で多数の原子の聚合する方向へ向かって収縮していくことになる。この凝縮運動を支配する原理がいわゆる重力の原理である。原子は重力すなわち引力の原理にしたがって移動する。

 さて,この凝縮運動を始めた原子は,宇宙の中で次第に固まり,体積を持った物質を形成し,やがて目に見える「星雲」へと変化する。この星雲は凝縮作用が原因となって,やがて旋回運動を行うようになる。ある時期になると,その遠心力が求心力を上回り,収縮した外殻がはがれ,環状の層となり,それが凝固して惑星をつくる。惑星も自転運動を起こし,同様にして衛星をつくる。このようにして太陽系をはじめ,多くの星団がつくられ,宇宙が形成された。

 ところでこのように収縮し,凝固する宇宙の物質には,引力のほかにもう一つの力が働く。それは収縮に反発する力,すなわち斥力である。何故斥力が働くのか,それは分からないとして,ポオは再びここで神の力を導入する。いずれにしてもそれは原子と原子の直接の結合を妨げ,それぞれの原子を異質のまま存続させるために神の働かせた力である。斥力は異質性の原理といえる。その異質物に力を加え無理に結合させようとすると,そこに電気が発生し,光や磁気もそれに伴う。斥力が電気を生む過程で,地球上には生命が発生した。生命は物質の収縮に基づく異質性の産物であって,収縮が異質性を増し,異質性の増大がさらに生命と意識の発展を促す。

 さて,収縮を続ける宇宙では,各所でいくつかの星雲がいくつかの恒星となり,そのいくつかの恒星はさらに他の恒星との合体を行いながら,次第に原初の単一の状態に近づいていく。やがて諸星団は宇宙の計り知れない深淵の中で相互に結合し,想像を絶する強烈な光を放ついくつかの巨大恒星を生みだし,それは同様な過程を経て生まれた他の巨大恒星を引き連れ,さらにその共通のワンネス「全一」めがけて殺到することになる。

 終局の場面においては,一つに固まった球体はすでに目的を失い,引力も斥力もなくなる。引力と斥力という二つの原理として存在した物質は,その原理を失えば,もはや物質であることを止めなければならない。すなわち凝縮した宇宙は一瞬にして非物質,虚無に帰する。

 Allen Tate はいう。「神を宇宙ほど大きい墓場に連れ込むこの壮大な光景の中には,恐ろしいほどの崇高さがある。」(4) しかし神は不死である。その墓場の虚無から,神は原初に単一原子を創造したように,再び新しく単一原子を創造し,宇宙に向かって第二の放射を始めないとは誰が保証できようか。かくして宇宙開闢のプロセスは無限に繰り返されるであろうというのが,「ユリーカ」におけるポオの宇宙創生論の概要である。

(2)ポオの生涯と文学における「単一回帰パタン」

 「ユリーカ」で,ポオは起源から終局に至る宇宙の一生を,「単一」で始まった宇宙が最後には「単一」を求めて回帰する過程として描いた。このようなポオの宇宙創生論の骨子である原子の「単一」→「拡散」→「単一」の回帰運動を,ここで便宜的に「単一回帰パタン」と呼ぶことにする。パタンという言葉を使用する意味は,それが「ユリーカ」以外の他の著作においても何度も繰り返され,彼の文学を特徴づけているからである。そしてこの「単一回帰パタン」をもとにしてポオの文学を振り返ってみると,そのパタンは彼の物語や批評だけでなく,それらを生み出したところの彼の生涯をも深く貫いていることが分かる。

 1848年2月3日の夜,ニューヨークのソサイエティー・ライブラリーの講演会に集まった約60人の聴衆を前に,ポオは「宇宙創生論について」と題して一つの原稿を朗読した。それが今日「ユリーカ」として残る散文詩の原型である。

 一年前の1月,ポオは妻ヴァージニアを失い,失意のどん底にあった。その中で,アルコールやアヘンにたよりながら,ポオは自分の文学の総決算としてこの「ユリーカ」を書いた。それは彼のいわば文学的遺書であった。「ユリーカ」を書き終ってポオはクレム夫人に次のような手紙を書いている。「わたしに道理を説いても今や無駄です。わたしは死ななければなりません。わたしは「ユリーカ」を完成したので,もう生きる願望はありません。これ以上何も完成することはできません。」(5) 翌1849年10月3日,ポオはボルティモアの酒場の前で意識不明で発見され,4日後の10月7日,息を引き取った。

 18歳で処女詩集「タマレーンその他の詩」を出してから,ポオは実生活でも波乱に満ちた生涯を送るかたわら,次々に詩,物語,批評などさまざまなジャンルに手を出したが,しかし最後には再び詩に戻って,死の約1年半前「ユリーカ」を完成した。これは彼の文学を集大成する意味を持つ作品であった。ちょうど宇宙が多様化を求めて拡散した後再び単一に帰るように,ポオは「ユリーカ」に帰り着いたといえる。その意味で,「ユリーカ」はポオの生涯における単一への収斂の過程,統一原理の探求の成就を示すアレゴリーと解釈できる。

 「ユリーカ」が回帰の中心となるべき「単一」体であると言う場合,そこには二重の意味があることを知らなければならない。そのひとつは,宇宙の起源から始まって終局に至るまでを一つの過程として統一的に描写している「ユリーカ」は,そのもとである宇宙と同じ特徴を備えているということだ。例えば,拡散の途中で原子が中心を求めて聚合するように,多様化の原理によって多方面に拡散されたポオの創作衝動は, それぞれの領域で同様な観念を牽引し, 「種」という複合体を生み出す。「種」は別の「種」と合体し,さらに大きな観念複合体である「類」を生み出す。「瓶の中の手記」や「メールシュトレームに呑まれて」などは「難破船もの」に一括されるし,「難破船もの」は「推理もの」などと集まって「物語」というジャンルを形成する。このようにして,ポオの作品すべてがさらに上位の大きな力を求めて収斂し,最終的に「ユリーカ」という中心体に統合される。

 「ユリーカ」が「単一」体であるという場合のもう一つの意味は,それを一つのジャンルとして分類しようとするとき,われわれは非常な困難を覚えることである。一体「ユリーカ」は、副題のごとく散文詩であるのか,それともロマンスであるのか,探偵物語であるのか,SFのはしりであるのか,滑稽風刺ものであるのか,科学的宇宙論であるのか,形而上学であるのか。「ユリーカ」はそのいずれでもあり,いずれでもない。それは余りにも広く,どんな一つのジャンルにも押し込むことが出来ない独自の文学形式である。それは宇宙のごとく広大で,すべてを統一しているという意味で,彼のそれまでのすべての多様な作品を総括する「統一」体である。

 かつて Maurice Beebe は「ユリーカ」に描かれた宇宙の生成と消滅の過程を「アッシャー家の崩壊」に当てはめ,その真髄を見事に解き明かした。(6) ここではその方法を参照しながら,その対象をさらにポオの他の物語にまで広げ,上述のような「単一回帰パタン」の観点から,「ユリーカ」に現れた思想を追究してみたい。その場合の方法は,「ユリーカ」と同じ方法すなわち「単一」体としての「ユリーカ」から出発し,「拡散」としての意味をもつ彼の物語や批評に言及して,再び「ユリーカ」へ帰るというものである。そうすることによって「ユリーカ」の中の思想は,その萌芽の断片や発展の軌跡を取り込んで,より豊かな実体を明らかにするであろう。

2 「単一回帰パタン」とポオの短編物語

(1)「難破船もの」に見られる「単一回帰パタン」

 「単一回帰パタン」がポオの物語の中でいかに具象化されているかについて見てみよう。ポオの短編物語の中には,語り手の航海,難破,瀕死体験などを扱った「難破船もの」と呼ばれるものがある。その中からとくに類似点の多い「瓶の中の手記」(1833年)と「メールシュトレームに呑まれて」(1841年)を取り上げる。

 「瓶の中の手記」は,難破した主人公が瓶にいれて書き残した航海日誌である。ここでは書き手が水平線の彼方に奇妙な雲影を見たときから,「単一回帰」への過程が始まる。やがて船は大嵐に見舞われ,語り手と老スエーデン人を除いて全員が死ぬ。船は嵐の中を南極へと引き付けられていくうちに,太陽は姿を消し,暗闇に閉じこめられる。闇と嵐の中,船は突如幻のごとく現れた巨船に衝突し,はずみで書き手はひとりだけその甲板に打ち上げられる。船上はすでにこの世ならぬ別世界であって,その乗員たちは一種の亡霊である。やがて巨船は大渦巻の「中心」に向かって突入していくが,乗員たちの表情には何故か絶望の表情はなく,希望の熱気さえ見られる。

 ここで注目すべきことは,書き手が終局に近づくにつれて「中心」の引力は強まり,それとともに船の進行も物語の展開もスピードを増すことである。そして書き手の心には,新しい感覚が芽生え,それまでの恐怖心は薄れ,未知なるものへの好奇心が増大していく。彼は「中心」に何か神秘が隠されているのではないかという直感を得るが,それが何であるかは分からない。彼は次のように考える。「魂を震憾させるような知識ーそれに達すると同時に破滅がもたらされるが故に決して知ることのない神秘の知識ーに向かって,われわれが今接近しつつあることは明らかである。」(7) ここに暗示されていることは,書き手が最終の破滅に近づくにつれて,彼はこれまで知ることのなかった秘密を入手出来るであろうという予感である。その秘密が一体何であるかについては,書き手は何も語っていない。しかしまさにそれこそがポオが「ユリーカ」ではじめて体系化した宇宙の秘密であり,端的にいえば人間が神になるという洞察であるが,その天啓の知見をこのときポオはまだ入手していない。

 さて,「瓶の中の手記」が吸引する「中心」に巻き込まれて助からなかった男の話であるのに,「メールシュトレームに呑まれて」は渦巻から危うく脱出した男の語る異常体験である。行き先は南極ではなく,ノルウェイ付近だという違いはあるが,大渦に捉えられ「中心」に引きつけられていくという構造パタンは同じである。渦巻に呑み込まれるとき,主人公は生き延びるための幸運を求めて必死になるが,それが無駄だと知ると,かえって恐怖心がなくなり落ちつきを取り戻すことができた。そして掴まっていたマストの根もとのボルトの輪をせがむ兄に譲って,自分は船尾の樽にしがみついた。こうして運命を甘受し,「中心」への引力に身をまかせると,周囲を冷静に観察する自由を手に入れる。死に臨んで,彼はいう「神の力の素晴らしい啓示を目の当たりにみて,自分個人の生命を考えるとは何と愚かなことかが分かった。」(8) 死と破滅の接近が,知覚力を増すという考えは,後に「ユリーカ」ではカタストロフィーにおける生命力の増強という考えに発展していく。

 「メールシュトレームに呑まれて」の中心的モチーフとして, Richard D. Finholt は恐怖と平静との間の矛盾葛藤をあげる。(9) 「恐怖心から命を助かりたいと思った兄はそれを失ったが,命を失う必然性を理性的に甘受した主人公は生き延びる。」 語り手は死の運命の必然を認識することで,恐怖に打ち勝ち平静を入手するのである。

 しかし,最後の破滅の認識がどうして恐怖の克服になるのかという難問は,依然として未解決のまま残る。破滅が恐るべき終末ではなく,人間にとって新しい生への飛躍であり,超越であるという認識が可能になるのは,「単一回帰」が人間と神との合体であるという,ポオが「ユリーカ」で到達した確信が前提にならなければならないであろう。この確信は「メールシュトレームに呑まれて」においては,なお不確かであるが,ただ語り手が逆巻く大渦巻の中心に人間を救う偉大なるものが存在すること,そしてその力に身を任せることによって破滅が救いとなるという逆説を認識し始めていることだけは,確かなようである。語り手の船乗りは渦に呑み込まれそうになることによって,神の完全さに接近し,神の思想を一部入手する。しかし彼は神のすべての思想を獲得することは出来ないまま,引き返した。引き返したというまさにその事実が,彼が神の思想をまだ完全に入手していないことを象徴している。

(2)「アッシャー家の崩壊」に見られる「単一回帰パタン」

 「ユリーカ」の「単一回帰パタン」の観念にしたがって解釈するのに一番相応しい物語は,「アッシャー家の崩壊」(1839年)である。両作品を比較すると,そこには多くの共通点があり,われわれは「ユリーカ」で理論的に説明したことを,ポオがすでに9年前に「アッシャー家の崩壊」で象徴的に描いていることを知る。

 「アッシャー家の崩壊」と「ユリーカ」の共通点の第一は,いずれもが「統一体」として完成されていることである。「ユリーカ」が宇宙の単一を象徴するように,「アッシャー家の崩壊」も多様性の完全なる統一体としてさまざまな属性を持っている。ここでは,すべての細部が相互に関連を保ちつつ,物語の中心テーマに向かって秩序づけられている。Beebe のいうように「すべての要素が他の要素に依存しているという点で,完成された短編は完成された宇宙のごとく統一されている」のである。(10) 例えば,アッシャー家には分家がなく,ほとんど直系のみの一族で続いた家系であるということや,アッシャー家という本来屋敷の名前であったものが次第にその住人を表す呼び名になっていたほど建物と人間が一体化しているということ,建物とそれを取りまく地所とには妖気が漂い,朽ちた木や沼から有毒の神秘な蒸気が立ち上り,屋敷の屋根から土台まで亀裂が走っていることなど,これらすべての細部が物語の一つの効果に貢献し,最後のカタストロフィーに向かって集中していくのである。さらに,「統一」は「有限」であることを前提とする。何故なら統一とは各部分を一定の原理にしたがって相互関連させることであり,そのことは無限の広がりの中では行うことが出来ないからである。「ユリーカ」では,神は途中で拡散を中止して宇宙は有限となり,重力原理によって統一された。「アッシャー家の崩壊」では,場面が都会から隔絶した奥深い田舎に限定されることによって,双生児兄妹の愛と憎しみはより激しさを増し,その葛藤は出口を見失って一層凄惨となっている。

 「アッシャー家の崩壊」と「ユリーカ」との共通点の第二は,人間も含めて事物にはエーテルに似た放射力があり,さらに無生物にも生命力があるということである。宇宙の拡散が神の放射によって始まったように,屋敷や湖から立ち上る妖気は,放射となってアッシャー家の住人に影響を及ぼす。のみならず,ロデリックの心も周囲の事物に注がれ,憂鬱の気分が客観的な事物に浸透していく。「こうして次第に親密の度が増し,彼の心の奥底に遠慮なく入りこむにつれ,わたしは彼の心を奮い立たせようとする試みが無駄なことに気付いた。なにしろ彼の心からは暗黒が,一筋の絶えざる憂愁の放射となって,精神的・物質的宇宙のあらゆる物体に注がれていたからである。」(11) これは精神と事物が一体化している世界である。その世界から,事物が感覚を持つと考えられる世界までは,それほど遠くはない。ロデリックはまず,植物には知覚があるという考えを持つようになり,やがてそれは,無機物にも知覚があるという考えにまで発展していった。 事物が感覚力を持つという証拠をロデリックは,「水面や土塀の周りの空気が徐々に,しかし確実に凝縮していくこと」の中に発見した。そして「その結果は何世紀にもわたって,彼の一族の運命を形成してきた」と述べる語り手の心にも,ロデリックのアニミズムは知らず知らずのうちに影響を与えている。(12) 「ユリーカ」におけるポオの思想は,ロデリック・アッシャーと同じようにアニミスティックである。「ユリーカ」ではポオは動植物と無生物との間に厳密な区別をしない。しかも物質は本質的には,引力と斥力に還元できるのである。「引力は物体で,斥力は精神である。前者は宇宙の物質的原理を表し,後者は宇宙の精神的原理を表す。ほかに原理なるものはない。」(13) そして「形態と霊魂は手を携えて歩く。」(14) アッシャー家を取り囲む雰囲気や時の流れが,ロデリックの精神に影響を与え,ロデリックは逆に周囲の事物に影響力を注ぐという,いわば人間と環境との一体化の現象は,ポオの宇宙観の導く必然的結果である。物質の根底には神がいるし,人間の心にも神がいる。したがって物質は人間であり,人間のように感じることが出来る。人間は物質であり,最後には物質として無に帰する。このことは次章で「催眠術の啓示」を取り上げて詳述したい。

 第三の共通点は,究極の中心に近づくにつれて生命力が強くなるということである。「ユリーカ」でポオは次のように述べる。「まず子細に物質を観察すると,動物の構造が異質性や複雑性を増すにつれて,その生命力が一層顕示されるだけでなく,生命力がますます重要性を増大し,その質を向上させていることが分かる。・・・かくしてわれわれは地上の生命力の発展は地球の凝縮過程と平行して進むという命題に到達する。」 つづけてポオは「地球上の動物の系譜を調べてみると,これとまったく一致している」として,「地球が凝縮していくにつれて,ますます優秀な種族が現れてきた」という。(15) 死期の近づくアッシャー家兄妹に見られる生命力の増強は,凝縮過程の地球の生命力の増強に似ている。妹のマデラインを埋葬してから数日後のある夜更け,兄のロデリックが語り手の部屋を訪問したとき,「その顔はいつもの屍のように青ざめていたが,目には狂気じみた喜びの色が見え,挙動全体に明らかに病的興奮を押さえているらしい様子が見られた。」(16) 兄の興奮は次第に高まっていくが,最後に仮死の妹が生き返り,棺桶を破り,牢獄の蝶番を壊し,地下室から這い出して,二階の兄を目がけて突進し,兄の身体を押し倒し,その上で二人ともが断末魔の悲鳴と共に息絶えるときの生命の燃焼力はまことにすさまじい。結末近くに生命力が増強する有様は,「エイロスとカルミオンとの対話」(1839年)にも見られる。

 第4には,終局の場面で無に帰する物質が,引力と斥力という相反する力からなるように,最後には死において一体化する二人の兄妹も,お互いに牽引しながらも反発する。兄妹は双生児であるにもかかわらず,男女の性の差以上に本質的な性格の相違があるように思われる。 Edward Davidson は「アッシャー家の崩壊」を「分裂した自己」を追究する物語であると分析し,「ロデリックは知的側面を,マデラインは感覚的あるいは肉体的側面を代表する」という。(17) このように,相反する兄妹は,異質なるが故に強く牽引し,異質なるが故に強く反発する。兄妹が最後に抱き合って死ぬことは,死において異質の二人が精神的にも肉体的にも同質性に帰着し,単一回帰することを意味する。そして最後にアッシャーの館は荒れ狂う嵐の中,真っ二つに裂けて湖の中へ崩壊していく。後には全てを呑みこむ太古の単一さながらの湖だけが残る。兄妹の悲劇と古い館の崩壊は,中心を求めて破局し,単一に帰る宇宙の運命に似ている。建物は消え,兄妹は一体化し,神に帰することによって,アッシャー家の起源に戻る。「アッシャー家の崩壊」は世界の破滅の縮小版として読むこともできる。

 しかし最後に注意すべきことは,「ユリーカ」と「アッシャー家の崩壊」との相違点である。死に対する態度という点では,両作品は大きな違いを見せる。「ユリーカ」では,後述するように,宇宙の収斂による終局場面において,恐怖心ではなくむしろ歓喜を持ってカタストロフィーを迎えている。そこでは意識のレベルが個人の域を脱し, 神との一体化を成就している。 しかし「アッシャー家の崩壊」ではそうではない。マデラインを埋葬してからしばらくたつと,ロデリックの心がある秘密に苛まれるようになったということや,物語の最後でロデリックが「彼女は私の早すぎた埋葬をとがめにやって来た」と叫んだことなどは,妹の埋葬後数日にしてロデリックは妹の生きている気配に気付きながら,故意に放置しておいたことを示している。そこには確かに Beebe が指摘するように,妹を安楽死させ,自らも死の道を選ぼうとする兄の意図が伺えるかも知れない。(18) しかし死の願望は兄の側におけるものに過ぎず,妹はむしろ復讐のため,生にすさまじいばかりの執着を見せている。しかもその兄にしても精神の異常を来さずには,つまり狂気というスプリングボードなしには,妹の安楽死を実行できないのである。それは彼らが,したがって作者自身が,まだ死の向こう側に神を見ていないことを物語っている。

3 「単一回帰」と神 ー「催眠術の啓示」に描かれた神ー

(1)「神を知るには自らが神にならなくてはならない。」

 「難破船もの」では,神は竜巻や渦巻の向こう側で神秘のベールをまとっていた。「アッシャー家の崩壊」では,神は湖や古い屋敷から立ち上る蒸気に包まれていた。いずれの場合も,神はその姿を現していない。しかしポオの最大の関心事は神であり,彼の願望は「単一回帰」の彼方にいる神の姿をはっきりと見ることであった。

 ポオは「ユリーカ」で宇宙論を始めるにあたって,「神の性質ないしは本質についてわれわれはまったく何も知らない。神の何物たるかを知るためには,われわれ自身が神とならねばならない」(19)というビールフェルド男爵のこの言葉を引用している。この不遜な言葉には,神を知ろうとするポオの並々ならぬ覚悟が秘められているのが感じられる。しかし,同時にそれはポオの「ユリーカ」における立場を象徴する言葉でもあった。何故なら,神を知るために人間が神にならなければならないとしたら,人間はまず神になり得る条件を探し求めなければならないということになるからだ。その条件とは神が人間と同じ原理の上に立つということを証明することである。そこでポオの行ったことは,神の真の姿を描くことを保留したまま,人間と神に共通する原理を模索することであった。そのためには神と人間との間には程度の差はあっても,質の違いはあってはならず,したがって神は人間と同じ物質で出来たものとする必要があった。

(2)「無分子の物質」としての神

 「ユリーカ」に入る前に,われわれはその4年前に書かれた「催眠術の啓示」(1844年)(20)でポオが神をどのように定義しているかを見てみよう。この作品は神と物質の本質,両者の関係,人間の思想など,「ユリーカ」に現れる基本概念を探求した物語で,後年の「ユリーカ」のいわば前奏曲をなすものである。それはヴァンカークという人物とポオを思わせる「P」なる人物との間の対話物語であって,催眠術にかけられて知覚を鋭敏にされたヴァンカークが,常人では捉えることの出来ない宇宙や神についての秘密を,彼の直覚によって解き明かしていくさまを描いたものである。 「マルジナリア」(1844年〜49年)でポオの述べるところによれば,「催眠術の啓示」に述べられていることは,実は完全なるフィクションであるが,霊体験に詳しいスエーデンボルグ主義者たちでさえそれがまったく事実として間違いがないことを確かめたという。(21)

 まず,ヴァンカークによれば,神は世間でいうところの霊でもなければ,また物質でもない。しかし彼の新しい概念によれば,それは霊であり,同時に物質でもある。換言すれば,限りなく霊に近づいた物質といえる。物質には重い金属から軽いエーテルまで,さまざまの段階があって,われわれはこれを全て物質という名称で一括している。しかし金属とエーテルを同じ物質という概念で一括するには,あまりにも差異がありすぎる。エーテルよりさらに希薄な物質が存在すると仮定すれば,それはもはや普通の意味での物質ではなく,「無分子の物質」(22)という概念を立てざるを得ない。このようにしてヴァンカークは物質を,分子を持つ物質と分子を持たない物質の二つに分ける。分子を持たない物質とは,「ユリーカ」でいう太初の「単一」物質と同じである。そしてこの「無分子の物質」は宇宙の一切のものに浸透するだけでなく,一切のものを存立させ,動かす。「そしてそれ自身の中において一切のものになる。この物質こそ神である。」(23)

 この「無分子の物質」が静止状態にあるとき,それは神(あるいは神の心といってもよい)である。それがそれ自身の法則にしたがって運動するとき,それは思想となる。神が万物を創造するとき,神は運動を行なっているので,それはすでに思想と呼ぶべきものである。したがって神は静止したままで,何ものとも合体しない。しかしその心が動いて存在をつくるとき,それは思想となって万物の中に浸透する。そして「神は自分の心の一部に肉体を与え」,人間という思考する存在をつくった。それゆえ,「肉体をはぎ取れば,人間は神になる。」 しかしヴァンカークはいう「人間は肉体を脱ぎ捨てることは決してないであろう。」(24) 何故なら人間は生きる限り,肉体が必要であるから。

(3)神は高度に発達した肉体をもつ。

 しかし,肉体をもった人間がまったく肉体のない無分子の物質である神にどうしてなることが出来るか。 その疑問に答えるものは神の「思想」である。「神」そのものは動かず,なにものにも合体しないが,「神の思想」は動いて万物をつくる。ということは神の思想には神の力が宿る肉体があり,命があるということだ。

 そこでポオはヴァンカークに,肉体には高度に「完成された肉体」と「未発達の肉体」(25)の二種類があると言わせる。前者は神が所有し,後者は人間が所有している。人間の感覚や知覚は神の感覚や知覚が捉えるものを捉えることは出来ないが,神は人間の知覚の範囲を越えて,知覚することが出来る。

 この二種類の肉体は画然と区別されていて,簡単には乗り越えることが出来ない。ここでヴァンカークは比喩として「昆虫のメタモルフォーシス」(26)を持ちだす。毛虫から蝶への変身は,蝶という肉体にとっては新しい生であるが,毛虫という肉体にとっては死である。メタモルフォーシスの意味を知っている人間は,それを生命の継続として捉えることが出来るが,毛虫にはそれは出来ない。同様に究極の完成された心を持った神には人間の死や再生の意味が分かっても,人間にはそれが分からない。分からないまま人間は死を迎える。

(4)人間の直感が神および神の直感を捉える。

 では,人間は神の世界を瞥見することが出来ないのか。神に対する無知はビールフェルド男爵がいうように「人間の精神が未来永劫忍ばねばならない宿命的無知」(27)であるのか。その「宿命的無知」を脱出して,究極の生である神へ至る道を見いだすものこそ,人間の直感の力である。ポオはヴァンカークに催眠術をかけることによってその直感力を入手させる。催眠状態になったヴァンカークが語るところによれば,催眠状態は死に似ており,そこでは平素使用している「未発達の感覚や知覚」が停止し,外的な事物を感覚によらず,直感によって直接知覚するという。

 そしてヴァンカークが催眠状態で入手した「感覚や知覚を停止させて直接事物を知覚する方法」こそ,ポオが「ユリーカ」その他で使用する「直感の方法」である。そしてヴァンカークによれば,この「直感」こそ「組織をもたない究極の生命」である神の使用する方法であるという。(28) 神の肉体には組織された肉体的器官はない。それはすべて無分子の物質で出来ており,周囲のエーテルと微妙に交感することによって,無媒介に事物を知覚できるという。

 催眠術によるよらないは別にして,人間が神へ至る道は直感しかないというのが,ポオの思想の根底にある。しかも直感によって瞥見した神は,直感により知覚する「無組織の生命」をもつ存在であった。

4 「単一回帰」と人間 ー「ユリーカ」に描かれた人間観ー

(1)「不当を知らない正当」と「不当を知る正当」

 さて,人間が終局において帰りつくべき神は,無組織の物質あるいは精神である。それは拡散された多様な物質と生命を集約した「単一」である。ところで,宇宙の始まりもやはり「単一」の物質であった。では,帰りついた「単一」は始まりの「単一」とどのように違うか。ここで直接ポオが「ユリーカ」で述べている言葉を取り上げよう。

 ポオが宇宙の創生を説くに当たって前提とした「単一」の分子は,「非相関で,絶対的で,それ故に正常であり,正当な微粒子」であった。しかし分子が「非相関」であることが,何故に「正当」であることになるのか。その疑問にポオは次のように答える。「事物が不当であると言い得るための基準となる存在,法則,条件などがもしなければ,その事物は不当ではあり得ない。したがって正当でなければならない。」(29) つまりあるものが不当であると言えるためには,それを不当ならしめる基準となるべき何かがなければならないのである。その比較さるべき他の存在がない以上は,太初の「単一」なる物質には絶対的な正当性しかないことになる。

 しかし回帰する「単一」はどうかといえば,「正当な」原初の「単一」から大きく逸脱し,不当な「拡散」の状態を経験して帰りついた「単一」である。ポオによれば「拡散」は,暑さにおける寒さのごとく,光における闇のごとく,正常を否定するものである。したがって出発時における「単一」が不当なるものを知らないが故の純粋な正当性であるとすれば,回帰時における「単一」は不当性を経験し不当性との区別の上に立った正当性であるといえる。寒さを知り闇を知るが故に,暖かさや光の有難さが分かる。悪や不当との対立の上に築かれた正当性なる概念は,それらを知らない正当性よりはるかに高次の概念である。こうして多様さを経験することによって人間は神に近づく資格を得る。

(2)人間は悪や不幸を経て,神への道を見いだす。

 神の働きに関しても,ポオは弁証法的考え方をする。神は最終的には正義の実現を目指すとしても,それは不正には無関係な,単なる正義というものではない。神は悪を犯すし,不正も働く。悪は神の一つの意図である。でなければ神は人間という不完全な生き物をつくるはずはない。このような考えはすでに「催眠術の啓示」において示されている。ヴァンカークによれば,神が人間をつくった意図は,「神の意志を阻止する」ことによって「真の神の意志を実現する」(30) ことであるという。何故かといえば,神の意志は阻止されなければ,正義であり,完全である。しかし単なる正義,単なる完全は真の意味の正義,完全ではない。正義や完全が不正や不完全によって阻止されるとき,はじめて真の正義と完全を期す神の意志が実現される。

 ポオはこのような考え方を幸福や苦痛についても拡大する。神は完璧でその法則は無謬である。しかし無謬の法則によってつくられた生命は,完全であり正義であるからこそ,「消極的な幸福」しか持つことが出来ない。何故なら,未発達の有機的生物が神の法則を犯し,苦痛を経験してはじめてその幸福は完全なものになるからである。幸福は「苦痛の対比物」である。「幸福であるためには,苦痛を嘗めなければならない。」「地上の原始的な生命のなめる苦痛は,天上における究極の生命の唯一の幸福の基盤である。」(31)

 このように,神が人間に不正や悪を働かせ,苦痛や不幸を感じさせるのは,そうすることによって人間がやがて神に一体化したとき,その人間を通して神自身が実現するであろう正義や幸福を完璧なものにするためである。その神の意志を人間が認識するとき,彼は自分の苦痛も,悲しみも,さらには死さえ恐れない存在となる。「ユリーカ」の終章近くでポオはいう,「このような考え方においてのみ,われわれは神の不正,冷酷な運命という謎を理解することができる。つまり悪の存在が理解できるのである。しかし同時にこのような考え方に立ってはじめて,悪は単なる悪以上のものになり,堪え忍ぶことの出来るものとなる。われわれの精神は,喜びを増すつもりでかえって逆に悲しみを招く結果となっても,もはやそのことに反抗しようとは思わない。」(32) 続いてポオはいう「彼(神的存在)は今,無限にある不完全な幸福を介して,自分の生命を実感している。彼の幸福はその無限の個別化である宇宙のすべての創造物の半ば不完全な,苦痛を伴った幸福である。・・・その創造物すべてが持つ感覚を合計すれば,神的存在が自らの内部に収斂していくとき当然彼に属すると考えられる幸福の量とまったく同じである。」(33)

 宇宙のカタストロフィーにおける人間の運命を,ポオは「ユリーカ」の最終パラグラフで次のように予言する。「これらの創造物は多少の差はあるが,すべて意識を持っている。第一にそれはまず自己との同一化の意識を,その後でかすかな一瞥によってではあるが,神的存在との一体化の意識を持つ。」(34) この二種類の意識のうち後者の意識が強くなるにつれて,前者の意識は弱くなる。個別的なアイデンティティーの観念が普遍的意識の中に同化していくにつれて,人間は「ついに自分の存在をエホヴァの存在と認める勝利の時に到達するであろう。」(35) かくして人間が神になることによって,宇宙の変遷のドラマは終焉する。

5 「単一回帰パタン」と文学理論

(1)因果関係における「適応の互換性」

 さて最後に,「単一回帰パタン」とポオの文学理論との関係を眺めてみよう。「ユリーカ」でポオの述べるところによれば,神が芸術家に似ているのは,それが宇宙という完璧なプロットの作者だからである。宇宙が完全無欠である以上は,それを創造した神もまた完全でなければならないというのが,ポオの考えである。「宇宙をつくった神のプロットは完全である。」(36) しかし人間のつくったプロットは不完全である。それ故,人間は芸術の創造において,神に見習わなければならないのである。
 では,神のプロットの完璧性とは,具体的には何を指しているのか。「ユリーカ」から,その完璧性を構成すると思われる要素を二つ取り出してみよう。一つは「適応の互換性」という考え方である。人間が神のプロットの完璧性に気付くのは,まず宇宙のあらゆる事物に無限に近い相互関係のあることを発見したときである。ポオは「ユリーカ」で次のようにいう。「例えば人間のつくる構成においては特定の原因が特定の結果を生む。特定の意向が特定の対象をもたらす。そこには相互作用がない。」 しかし「神のつくる構成においては,ある対象物は見方によっては,意図の向けられる対象にもなるし,また意図そのものにもなる。」 また「原因を結果と見ることも出来るし,結果を原因と見ることも出来る。」(37) そしてポオが一例として挙げるのは,極寒地で生活するのに必要な高カロリーの鯨油のことである。ポオは次のように尋ねる。「鯨油を多く含むアザラシやクジラは,人間が必要とするからそこにいるのか,それともそこにいるから人間が必要とするのか。」 それは「いずれとも決められない」というのが,ポオの答えである。(38)

 このように原因と結果とが相互に入れ替わることが出来ることをポオは「適応の互換性」 と呼び, 神の創造と人間の創造を区別する最大のものとする。「われわれが人為的につくる快楽は,このような互換性に接近する度合によって増減する。例えば小説のプロットを構成する場合,最大の快楽を得られるようにするためには,ある事件がある事件の結果であるか,その原因であるかを決めることが出来ないように,事件を配列しなければならない。」(39) つまり神のプロットでは,原因と結果が自由に入れ替わる。人間も事件を組み立てるには,原因と結果がはっきり区別できないようにすべきであるとポオはいう。

 このようなプロットの「適応の互換性」の考え方は,「ユリーカ」の「単一回帰」の思想で説明がつく。分散した物質や精神が原初の中心を求めて「単一回帰」する過程は,いわば遡行の過程であり,そこではある結果の原因であったものは,さらにそれを生み出したもう一つの原因からみればその結果に過ぎないことになり,こうして原因と結果は主客転倒せざるを得ない。同時に,精神は「第一原因」を求めて無限の起源に遡ることになり,やがてそれは「ユリーカ」の根本思想である「最初のものの根源的な単一状態の中に,次代に生じるものの原因が潜んでいるとともに,その必然的な破滅の萌芽をも含んでいる」という命題に到着する。(40)

(2)構成における「単一」性

 神のプロットの完璧性を構成するもう一つの要素は,「単一」性である。宇宙の拡散した分子のさまざまの運動やそれによって引き起こされるさまざまの現象は,すべて相互に無限の関連を有し,しかも一つの原理によって統一されていなければならない。その統一の原理こそ,そこから万物が発生し,そこへ万物が回帰すべき原初の「単一」性である。宇宙はその「単一」性の原理の支配から逃れることはできない。したがって宇宙の説明も,「単一」の原理によってなされなければならないし,宇宙の完璧を模すべき芸術もその原理に則って創造されなければならない。「ユリーカ」では,例えばエーテルが天体の運行を遅くしてやがて宇宙の破滅をもたらすという説明は,恣意的・副次的原因による宇宙消滅の解釈であり,決して真の原因を把握していないとして,ポオは次のようにいう,「もし宇宙の終局がそのような副次的原因で説明されたとしたなら,・・・天地創造は不完全なプロットをもった物語のごとき印象をわれわれに与えるであろう。そのような物語では,結末が主要な主題とは無関係な外部的事件によって不細工にもたらされるからである。」(41) ここに述べられているような「主題と無関係な外部的事件」という考え方は,ポオの短編論では更に徹底される。「構成全体の中で,当初に設定された計画を直接的にも間接的にも支持しない語は,一語たりとも書かれるべきでない。」(42) ここでわれわれは,「ユリーカ」における宇宙の「単一」性は,作品構成における「効果の統一」としてポオの批評理論に位置づけられているることを知る。

 さて,作品における「効果の統一」としての「単一」性とは,具体的には何を指すのか。 それは構成の中核をなす「クライマックス」のことであろう。 「構成の哲理」(1846年)でポオは自作の「大鴉」の解説を行ない,作者が最初に決定するのは結末のクライマックスだといった。(43) この作詩の方法は,詩のプロットよりもむしろ物語のプロットを構成する方法として,いっそう適切であろう。物語の創作においては,作者はまずクライマックスという「中心」の「単一」体から出発する。それは宇宙の拡散が原初の「単一」から出発するのと同じである。(44) 神がまず「単一」の物質をつくり,その後,放射によって無限の多様性を創造したように,作者はまずクライマックスを設定し,それに基づいて細部の肉付けを行なわなければならない。作者の仕事は,放射による宇宙の拡大過程とアナロジーをなす。

 同様に,宇宙創生の「単一回帰パタン」は文学の鑑賞にも適用できる。尤もポオはこの点に関しては触れていないが,文学の鑑賞過程は創作過程と同じ原理に立つことを考えれば,「単一回帰パタン」はわれわれが作品を読む場合の指針ともなり得ることが分かる。作者が単一から出発して放射に向かうとすれば,読者は逆に放射から出発して単一へのコースをたどる。つまり読者は放射によって多様化した細部の描写から読み始め,さまざまの事件をリンクさせ次第に範囲を狭めながら,作者にとって物語の起源であるところの「単一」というクライマックスに集中していく。読者の仕事は,引力による宇宙の縮小過程とアナロジーをなす。ここにおいてわれわれはポオの批評理論が彼の宇宙論と深いつながりのあることを,あらためて発見するのである。

(3)「天使の知性」

 さて,人間が神の芸術の完全さを学ばなければならないとした場合,ここに二つの疑問が生じる。一つは人間は神を模倣することにより,はたして神のもつ崇高さにまで到達することが可能かということであり,もう一つはそのような模倣の行為の中に,いったい創造の喜びはあるのかということである。それらの疑問に対する答を,われわれはポオの使用した「天使の知性」という言葉の中に発見できる。

 短編「言葉の力」(1845年)の中のアガトスは「天使の知性」について次のようにいう。「どんな結果からでもあらゆる原因を推測する能力は,むろん神にだけ許された特権であるが,しかしその能力は,たとえ絶対的な完璧さの域には到達しないとしても,ある程度は『天使の知性』の持ち主にも働かせる力である。」(45) この「天使の知性」とはむろん神と人間の中間者としての天使のもつ知性であるが,ここでアガトスの示唆することは,人間はたとえ神の至高の力にまでは達することができなくても,少なくとも天使の力は入手することが出来るということである。

 そして人間は「天使の知性」の限界内においては,神の完璧性を模倣できるし,また場合によっては神の技量をすら凌ぐことができるという。例えば「庭園」(1842年)では,ポオは自然の事物を2種類に分けて考える。一つは部分としての自然すなわち個々の生物や無生物と,もう一つは全体としての自然すなわち風景としてである。そして前者の美については,どんな芸術家も太刀打ち出来ないが,後者の美は人間の技術や芸術がそれを変更したり,それに付け加えたりする余地があるという。すなわち自然美においては,「全体を構成する部分のひとつひとつは画家の最高の技量さえ凌駕するが,各部分の配列という点では常に改善の余地がある。」(46) したがって「庭園の眺めに純粋な人工を混ぜ合わせることによって,大いに美観を増すことはできる」(47)が,しかし人工に伴いがちな「どぎつさや技巧の過剰」を除去することに成功すれば,そこにみられる人工は「中間的な『第二の自然』というという印象を与えることになるであろう。すなわちそれは神でもなければ,神の影響で生まれたものでもない『自然』,人間と神の間を羽ばたく天使のつくったものという意味でやはり一種の『自然』と呼んでよいものである。」(48) つまり人間は第一の自然は創造できないが,第二の自然は創造できる。第一の自然である各部分の組合せを人間的観点から手を加え,一層人間的にしたものが,第二の自然であるといえる。ここに人間が「天使の知性」を働かせて創造に従事する余地がある。 Allen Tate が「人間は第二の創造の行為を果たす権限を与えられている」(49)といったのは,その意味においてである。

 しかし,人間の芸術より,神のつくった自然の芸術に重きをおくポオは,すぐにエリソンに次のように言わせることを忘れない。「自然美が増したと考えるのは,実際は人間的観点に立つものに過ぎないかもしれない。」 そして原始的なままの風景に変更を加えることは,どこか空の遠くから眺めればそれを損なうことになっているかも知れないとして,エリソンは「細部を近くから詳しく眺めた場合は改善と思えるものも,遠くから全体的にみた場合は効果を損なっていることもある」という。(50) このことは,人間にとっての美は必ずしも神にとっての美ではないということであり,人間は創造力の行使において最終的には神に従わなければならないということであるう。つまり人間の創造における自由と喜びは,あくまで「天使の知性」の行使による「第二の自然」の領域に限られるのである。このようなエリソンの考え方は,「アルンハイムの地所」(1847年)や「ランドーの小屋」(1848ー49年)のようないわゆる「風景もの」にも見られるが,それは結局神の創った宇宙は「その至上の均整の故に詩のうちで最も崇高なものだ」(51)という観念につながっていく。

(4)「単一回帰パタン」と創作衝動

 ところで,「単一回帰」が宇宙の終焉を意味する限り,それは同時に人間や芸術の死滅も意味する。だから「単一回帰」を求めるポオが,いわゆる破壊衝動にとらわれるのは,ある意味では必然であろう。ポオの短編物語に,死を主題にしたものが多いのはそのためであろう。 例えば「モレラ」(1835年),「リジイア」(1838年),「エレオノラ」(1842年)などの女性の死,「アッシャー家の崩壊」の双生児の死,「瓶の中の手記」「メールシュトレームに呑まれて」における強力な外的な原因によりもたらされた死,「ベレニス」(1835年),「ウィリアム・ウィルソン」(1839年),「黒猫」(1843年)などにおける殺人等々である。死とは生命の対極にあるものであり,生命の破壊である。確かにポオの創作衝動の中には破壊的要素があるといえるであろう。しかし「ユリーカ」の「単一回帰パタン」からみれば,それは決して単なる破壊ではないことが分かる。

 破壊が創造につながるということを,すでにわれわれは「アッシャー家の崩壊」で見た。絵と音楽をたしなみ,学問を愛するロデリックは,アッシャー家という古い屋敷の魔力で精神を病み,妹も病魔に冒されている。精神と肉体の均衡を回復し,正常な宇宙の「単一」へ帰るためには,異常を来した肉体と精神を抹消する以外に道はない。それ故に,ロデリックは自己を破壊して無に帰ることによって,「単一」への帰還ーすなわち神との一体化ーという最大の創造を成就できたのである。

 「 逆説的だが, ポオの破壊性は基本的には創造的な衝動である」 という Richard Wilbur の言葉や,「ポオの破壊性の中には精神的美の観念への憧れが存在する」という John Lynen の言葉を引用して, Robert L. Carringer はポオの創作衝動には天上美を求めるあまり,「現世的経験を抹消しようとする」破壊衝動があるという。つづいて Carringer は別世界に天上美を求めるこの衝動は,「個別的に分散した自然が再び『全一』に帰ろうとする憧れを表す」ともいう。(52) われわれがこれまで辿ってきた観点にしたがえば,この「全一」への憧れこそ,ポオが「ユリーカ」で目指した宇宙における物質と精神の究極的統一,すなわち「単一回帰」への指向にほかならない。


[註]

(1) The Complete Works of Edgar Allan Poe, ed.James Harrison (hereafter cited as CW), Vol.XVI, "Eureka", pp.179-315.
(2) Ibid., p.185.
(3) Ibid., pp.204-205.
(4) Allen Tate, "The Angelic Imagination", p.45. (in "Modern Critical Views, Edgar Allan Poe" ed.Harold Bloom)
(5) John Ward Ostrom ed.,"The Letters of Edgar Allan Poe",U,p.452.
(6) Maurice Beebe, "The Universe of Roderick Usher", pp.81-90. (in " Edgar Allan Poe, Critical Assessments", ed.Graham Clarke)
(7) CW, Vol.II, "MS Found in a Bottle", p.14.
(8) CW, Vol.II, "A Descent into the Maelstrom", P.241.
(9) Richard D.Finholt,"The Vision at the Brink of Abyss", pp.357-358.
(10) Beebe, p.82.
(11) CW, Vol.III, "The Fall of the House of Usher", p.282.
(12) Ibid., p.286.
(13) CW, Vol.XVI, "Eureka", p.214.
(14) Ibid., p.256.
(15) Ibid., p.259.
(16) CW, Vol.III, "The Fall of the House of Asher", P.291.
(17) Edward H. Davidson, "Poe: A Critical Study", p.196.
(18) Beebe, p.87.
(19) CW, Vol.XVI, "Eureka", p.205.
(20) CW, Vol.V, "Mesmeric Revelation", pp.241-254.
(21) CW, Vol.XVI, "Marginalia (August, 1845)", p.71.
(22) CW, Vol.V, "Mesmeric Revelation", p.245.
(23) Ibid., p.246.
(24) Ibid., p.249.
(25) Ibid., p.250.
(26) Ibid., p.250.
(27) CW, Vol.XVI, "Eureka", p.205.
(28) CW, Vol.V, "Mesmeric Revelation", p.250.
(29) CW, Vol.XVl, "Eureka", p.233.
(30) CW, Vol.V, "Mesmeric Revelation", p.250.
(31) Ibid., p.253.
(32) CW, Vol.XVl, "Eureka", p.313.
(33) Ibid., p.314.
(34) Ibid., p.314.
(35) Ibid., p.315.
(36 Ibid., p.292.
(37) Ibid., pp.291-292.
(38) Ibid., p.292.
(39) Ibid., p.292.
(40) Ibid., pp.185-186.
(41) Ibid., p.306.
(42) CW, Vol.XI, "Twice-Told Tales", p.108.
(43) CW, Vol.XIV, "The Philosophy of Composition", p.202
(44) Beebe, p.82.
(45) CW, Vol.VI, "The Power of Words", p.143.
(46) CW, Vol.IV, "The Landscape Garden", p.265.
(47) Ibid., p.269.
(48) Ibid., p.270.
(49) Tate, p.47.
(50) CW, Vol.IV, "The Landscape Garden", p.267.
(51) CW, Vol.XVl, "Eureka", p.302.
(52) Robert L. Carringer, "The Poe's Tales: The Circumscription of Space", p.18.(in "Modern Critical Interpretations", ed. Harold Bloom)

(英文題名)
The Idea of Return-to-Unity in Edgar Allan Poe's "Eureka"

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