「大鴉(おおがらす)におけるポオの方法」               安藤邦男
 

         名古屋経済大学・市邨学園短期大学人文科学論集48号 1991年7月1日

【筆者注】 これは、市邨学園短期大学へ移って、筆者が最初に書いた論文である。筆者は、大学卒業以来、初めて本格的にポーに取り組んだ。「大からす」を「構成の哲理」と比較し、ポーの創作の秘密に迫ろうとした。
 ポオは「大鴉」の約1年後に「構成の哲理」を書き,そのテーマ,プロット,長さ,リフレイン等すべて厳密な計算に基づいていると主張した。しかし、この詩が必ずしも「構成の哲理」通りに書かれたのではないことは,ほかならぬこの書が明白に物語っている。また完成された詩がポオの意図を裏切り,分析的知性を超えるものをもっているのも事実である。ここに文学における無意識の問題が生じる。本稿は,ポオの無意識が言語表現においていかに暗示的意味を獲得しているか,またそれが彼の作品の中でいかに反復されているかを,「大鴉」を中心に追求したものである。またポオがここで 「Nevermore」という,意味から切り離された音としての言葉の美しさを発見したことが,20世紀言語理論や批評理論につながる新しい地平を切り開くことになったことにも触れた。


お お か゛ら す       エドガー アラン ポオ

STANZA 1
かつてもの寂しい真夜中のこと 身も心も疲れ果て 忘れられた学問の
古風で奇妙な書物を読みながら 物思いに耽っていたときー
うつらうつら眠りかけていると 突然聞こえてきたのはこつこつという音
だれかがやさしく 部屋の扉をこつこつこつこつと叩いているようなー
わたしは呟いた 「たれか客人にちがいない 部屋の扉を叩いているのはー
            ただそれだけだ ほかにない」

STANZA 2
ああ いまはっきりと思い出す あれは荒涼たる師走のことー
消えかけた薪の燃えさしが あちこち亡霊のような影を床に描いていた
夜明けがひどく待ち遠しかった わたしは空しく書物に求めていたー
悲しみを忘れさせてくれるものをー亡きレノアへの悲しみをー
天使らがレノアと名づけた 類いなき輝くばかりの乙女へのー
            その名はここに もはやない

STANZA 3
そして深紅のカーテンの 悲しげでかすかな衣擦れの音のするたび
わたしはかつて感じたこともない いわれなき恐怖に満たされた
それゆえ胸の鼓動を鎮めんとして そこにたたずみ繰り返した
「たれか客人が 部屋の扉を開けてほしいと乞うているのだろうー
夜更けの客人が 部屋の扉を開けてほしいと乞うているのだろうー
            それに違いない ほかにない」

STANZA 4
やがて こころも前よりは落ち着きを取りもどし もはやためらうこともなく
わたしは言った 「殿方か それとも奥方か 失礼をばお許し頂きたい
じつは わたしはまどろんでいたのです するとあなたは部屋の扉を
こつこつと叩かれた あまりひそかに叩かれたので わたしの耳には
聞こえたとは思われませんでした」ーそこでわたしは さっと扉を開けたが
            そとは闇ばかり ほかにない

STANZA 5
わたしは深く闇を覗きこみ 怪しみ おののき 疑いつつ いつまでも
そこに立ちつくしたー想うだに恐ろしいことをあえて思いながら
されど沈黙は破られることなく 静寂はなんの変化も兆さずー
そこに響いたのは わたしの呟いたただひとこと 「レノア」 という言葉だけ
これをわたしがささやくと 返す木霊のつぶやきもまた 「レノア」 とー
            ただそればかり ほかにない

STANZA 6
身を焦がすほど わたしのこころは燃え上がり 部屋にもどり来ると
やがてまた聞こえてきたのは 前よりも高くこつこつと叩く音
「間違いない」 わたしは言った 「何かが格子窓のところにいる
されば そこにいるのが何ものかを見つけ出し この謎を解いてみようー
しばしわたしのこころを鎮めて この謎を解いてみようー
            おそらく風だ ほかにない

STANZA 7
そこで鎧戸をさっと開けると はたはたと羽根揺るがせて
舞い込んで来たのは いにしえの聖なる時代のいかめしい大鴉の一羽
遠慮会釈もなく 一瞬たりとも飛び止まず また休むこともなく
やがて王侯か王妃の物腰をもって わが部屋の扉のうえに降り立ったー
わが部屋の扉の真うえの パラスの胸像のうえに降り立った
               降り立ち 動かず ほかにせず

STANZA 8
そのときこの漆黒の鳥は 重々しくもいかめしい表情を端正な顔に浮かべ
わが悲しみの思いをまぎらわし 微笑へと誘ったーわたしは言った
「お前はとさかを刈り取られているが けっして並の鴉ではあるまいー
夜の岸辺からさまよい出た 薄気味悪い老いぼれ鴉ではあるまい
言え 夜の支配する冥府の岸辺で お前の高貴なる名はなんというのか」
             大鴉は答えた 「もはやない」

STANZA 9
この異様な鴉がかくも鮮やかに語るを聞いて わたしは肝をつぶした
たとえその答えがそれほど意味がなく また適切さを欠いたとしてもー
それというのも 鳥の姿をあろうことか自分の部屋の扉のうえに 
眺めるほどの幸運に恵まれたものが これまでほかにいただろうか
鳥であれ 獣であれ 部屋の扉の真うえの彫刻の胸像のうえにー
                    しかも名乗りは 「もはやない」

STANZA 10
されど鴉はただその一言を話しただけ その静かな胸像に留まり
さながらその一言に 魂のすべてをそそぎ込んでしまったかのようにー
その後は何もしゃべらず また羽根ひとつ羽ばたかせることもなくー
ついにわたしはただ呟くほかになかった 「仲間たちはもはや飛び去ったー
この鳥も明日には飛び立つことがあろう 希望がすでに飛び去ったように」
              そのとき鳥は答えた 「もはやない」

STANZA 11
突然に静寂をやぶって発せられた答の あまりに的を得た適切さに驚き
わたしは言った 「きっとこの言葉は 以前の飼い主から覚えたものであろう
不幸にもその飼い主は 度重なる無慈悲な“悪運”に憑きまとわれ
ついにかれの口ずさむ唄には ひとつの繰り返し句が生まれたのであろうー
“希望”を葬るかれの挽歌に生まれたのは ひとつの悲しい繰り返し句ー
             その句とは 「もはや もはやない」

STANZA 12
しかし大鴉はなおも 物思いにふけるわがこころを微笑へと誘い
わたしは長椅子を 鳥と 胸像と 扉のすぐ前へと動かした
それからそのびろうどに身を沈め あれこれと思いの糸を手繰り始めた
このいにしえの不吉の鳥のー気味悪く 異様な 色青ざめ やつれた
いにしえの不吉の鳥のーしわがれ声は何を意味するかと考えながらー
             その声とは 「もはやない」

STANZA 13
わたしは座し この声の意味の推測に耽ったー鳥の燃えるような眼差しは
わが胸の奥底まで突き刺さり わたしは一言も話しかけることはできなかった
ランプの明かりは 長椅子のびろうどの裏地を心地よく照らし
わたしはそこにゆったりと頭をもたせかけ あれこれと思いをめぐらせた
されどランプの明かりが照らす すみれ色のびろうどの裏地にーあのひとの
               凭れることは ああ もはやない

STANZA 14
そのとき気のせいか空気は濃密になり 天使の打ち振る見えざる香炉から
匂いが立ち昇り 天使の足音が絨毯の床の上に鈴のように響いた
「ああ情けない」 わたしは叫んだ 「わが神がこの天使たちを遣わして 
せっかく送ってくれた安息日なのだ それにレノアを忘れるための薬なのだ
さあ飲もう この思いやりの薬を飲めば 亡きレノアを忘れることもあろう」
            大鴉は答えた 「もはやない」

STANZA 15
「予言者め」わたしは言った 「悪なるものよ 鳥か魔物か ともかく予言者よ
悪魔がお前をよこしたのか それとも嵐がお前をこの岸辺に吹き寄せたのか
ひとり見捨てられ しかも臆することなくーこの呪縛の荒野の地にー
恐怖にとりつかれたこの故郷にー願わくばわれに告げてくれー
ギレアデにわが苦しみを癒す香油があるのかー後生だから教えてくれ」
             大鴉は答えた 「もはやない」

STANZA 16
「予言者め」わたしは言った 「悪なる者よー鳥か魔物か ともかく予言者よ
頭上に円をなす天に誓ってーわれらがともに崇める神に誓ってー
悲しみのこの荷を背負う わが魂に教えてくれ 遥かなるエデンの園にて
天使らがレノアと名づけた聖なる乙女を わが魂の抱きしめる日があるのか
天使らがレノアと名づけた類いなき 光り輝く乙女を抱きしめる日がー」
         大鴉は答えた 「もはやない」

STANZA 17
「この言葉を別れの合図としよう 鳥か 悪魔か」 わたしは立ち上がり叫んだ
「お前に聴く耳はあるかーお前は嵐の中へ 夜の支配する冥府の岸辺へ帰れ
お前がしゃべったあの嘘のあかしとしての黒い羽根を 一枚も残して行くな
わたしの孤独をかき乱さないでくれー扉の上の彫像から離れてくれ
わたしの心からお前の嘴を抜き去り わたしの扉からお前の姿を消してくれ」
             大鴉は答えた 「もはやない」

STANZA 18
そして大鴉はふたたび羽ばたくこともなく なおもうずくまり
なおもうずくまり わが部屋の扉のうえの青白いパラスの胸像のうえに
そしてかれの両眼は さながら夢みる悪魔の相貌を宿し
そしてかれを照らすランプの明かりは 流れてかれの姿を床に映す
そして床に漂い横たわるその大鴉の影から わたしの魂が
             逃れることは もはやない


T 「構成の哲理」に見られるポオの意図

 まず、ポオがこの「大鴉」をどのようにして作詩したかを、彼の「構成の哲理」(1)の中の解説にしたがって見てみよう。

 注目すべきことは、ポオが作詩に当たって、詩の内容からではなく、詩の形式ーすなわち長さと効果ーから入ったということである。詩の長さについてはポオは次のように言う、「魂を高揚し、強烈に興奮させる限りにおいて、詩は詩であることが出来る。しかも強烈な興奮は心理的必然によって長くは続かない。」そして物語詩として「適当な長さと思われるものは、およそ100行である」と書く。次にポオの考慮したことは、伝達すべき「効果」についてであった。しかし、この問題は実はポオにとっては選択の問題ではない。というのは、 美は彼にとって実体ではなく効果であり、「魂の強烈かつ純粋な高揚」によって得られる心理的効果そのものである。しかも、美が「悲哀のトーン」を帯びたとき、それは「最高の詩的表現」となるという。

 さて、「長さ」と「効果」が決定された後、ポオのなすべきことは、「その効果の構成に最も役立つ事件やトーンの組合せを、自分の周囲に(あるいはむしろ自分の内部に)探し求める」ことであった。しかしストーリーを組み立てる前に、ポオにはなすべき仕事がもう一つあった。それは詩に美的効果を与える「リフレイン」の使い方の問題であった。ここで彼は従来の常套を脱する新しい方法として、「リフレインそのものはほとんど変えずに、その使用の仕方に変化をもたせ、絶えず斬新な効果を生み出そうとした」と言う。そしてポオの選んだリフレインこそ、 音の響きもよく、 同時に憂愁の雰囲気をも漂わす‘ Nevermore ’であった。

 そこで、ポオはプロットの考案を始めるに当たり、リフレインを各連の終わりに繰り返すための口実を探す必要に直面する。まず‘ Nevermore ’を機械的に繰り返す口実としては、人間ではなくものが言える動物、すなわち鴉が自然であることに思い至る。そして悲哀に結びついた美の主題を実現するストーリーとして、亡くなった美しい恋人を恋焦がれる男を登場させたのである。鴉と男という二人の登場人物の設定から、男が鴉に対して発する問いに、鴉が答えて‘ Nevermore ’を繰り返すという筋書きが導き出される。そこでポオの得た着想は、男の問いを最初は平凡なものにしておいて、次第にそれを異常なものに高めていくということであった。そうすれば、「リフレインそのものは変えずに、その使い方のヴァリエーションによって効果を高める」ことが出来るだけでなく、 「その語の度重なる反復」によって、 男は次第に「迷信的」となり、「半ば自虐を楽しむ絶望感から」次々と問いを発し、「狂乱の快楽を経験する」ことが出来るからである。

 さて、「大鴉」の場面や描写についても、最大の効果をあげるためのいろいろな工夫が行われている。その個々の叙述に関して、ポオの解説を聞いてみよう。まず、男と鴉を導入するための 「場所」 をどこにするかの問題であるが、「最も自然に思いつくのは森とか野原であるかも知れないが、孤立した事件の効果には、空間を狭く限定することが絶対必要であるように私には思える。それは絵に対する額縁の働きをする」のである。そこで、ポオは男の居場所を、森の中の一軒屋の、今は亡き恋人がしばしば訪れた「思い出の部屋」とした。そして、美的効果のため、そこに「高価な家具調度」を備えつけたものとした。また、時を「嵐の夜」としたのは、「部屋の静けさとのコントラストの効果」のためと、「鴉が入室を求める理由」を説明するためであった。「鴉を窓から導入した」のは、一つには、鳥が雨戸を羽根で打つ音を人がドアをノックする音と思わせて「読者の好奇心を煽るため」であり、もう一つには、ドアを開けると外には誰もいないことから、「ノックしたのは恋人の霊魂」ではないかという迷信的効果を高めるためであるという。鴉をパラスの彫像に留まらせたのは、それが「男の学識とマッチ」するだけでなく、その語の持つ「響きの良さ」のためでもあったが、同時にそれは「大理石と羽毛とのコントラスト」の効果のためであった。

 こうして、ポオは男と鴉の対話の筋書きを設定し、いよいよ作詩に取り掛かるのであるが、そのとき彼のまず行ったことは、「最初に結末のクライマックスを書くこと」であった。最初にクライマックスを確定しておけば、先行する男の鴉への質問も、各連の韻律効果も、それに向けて徐々に高まるように段階づけることが出来るからであった。そしてポオは「大鴉」のクライマックスである第16連をまず最初書き上げたのである。

「予言者め」 わたしは言った「悪なる者よー鳥か魔物か ともかく予言者よ
 頭上に円をなす天に誓ってーわれらがともに崇める神に誓ってー
 悲しみのこの荷を背負う わが魂に教えてくれ 遥かなるエデンの園にて
 天使らがレノアと名づけた聖なる乙女を わが魂の抱きしめる日があるのか
 天使らがレノアと名づけた類いなき 光り輝く乙女を抱きしめる日がー」
         大鴉は答えた 「もはやない」

 さて、クライマックスである denouement(終局)を書き上げてから、ポオは最初に戻り、ストーリを展開するのであるが、ここでポオの前には彼の詩の宿命ともいえる暗示性の問題が現れる。すなわち第1連から第16連までの叙述は、ポオの言葉によれば「現実の範囲を一歩も踏み越えていない。」そこでポオは、詩が散文を超えて詩として成立するためには、意味の底流をなす暗示性がなければならないとし、クライマックスである第16連の後に、結びの連として第17連と第18連を付け加えるのである。

 ポオによれば、第17連の最後の2行ー

「わたしの心からお前の嘴を抜き去り わたしの扉からお前の姿を消してくれ」
                     大鴉は答えた 「もはやない」

の中の「わたしの心から」という隠喩表現は、‘ nevermore ’という鴉の最後の言葉とともに、それまでの叙述のすべてに寓意を探ろうとする気持ちを起こさせる。つづいてポオは言う、「ここで、読者は大鴉を何か象徴的なものと考え始めるのである。しかし、大鴉を尽きせぬ悲しみの思い出の象徴にしようとする作者の意図がはじめてはっきり理解されるのは、さらに最後の連の最後の行においてである。」

 そして床に漂い横たわるその大鴉の影から わたしの魂が
                     逃れることは もはやない

U 「大鴉」の後で書かれた「構成の哲理」

 「大鴉」は、ポオの詩のみならず、物語や批評も含めて、彼の文学の持つ方法の新しさを、象徴的に語っていると言える。本稿をまず「構成の哲理」から始めたのは、この詩の中で少なくとも何が意識的であり、何が意識的でないかを、このエッセーは極めて明瞭に語ってくれるからである。

 はじめて「構成の哲理」を読むと、ひとは「大鴉」の創作の秘密が余りにも見事に種明かしされているという満足感から、ともすればその詩がそのエッセー通り完璧な設計図に従って書かれたと思いがちである。しかも、ポオは「その構成は一点といえども偶然や直感には帰せられないということ、すなわちその作品は数学の問題のような正確さと厳密さをもって、一歩一歩その完成に向かって進んで行ったことを明らかにしよう」としたという箇所を読むと、ポオの作詩の方法が彼の解説の字句通りであると考えるのは、むしろ当然かも知れない。が、実はそれがポオの思惑でもあった。

 ポオが「大鴉」をこの「構成の哲理」通りに作詩したのではないことは、同エッセーの中の彼自身の言葉を見ても明らかである。すなわち、彼は自分の作品の創作過程を回顧するのは簡単なことだと言いながらも、「一般に連想というものは、混乱の中で浮かんで来て、それを追っているうちに、混乱の中で忘れられてしまう」と述べ、創作過程で思考を補足し、記録することが如何に難しいかを、暗に認めている。

 これを裏づける文章がさらにある。「構成の哲理」の冒頭でポオは次のように書いている。「チャールズ・ディッケンズは、いまわたしの手元にある手紙の中で、わたしがかつて 『バーナビイ・ラッジ』の技法に関して行った吟味に言及してこう述べているー『ちなみにあなたは、ゴッドウィンが「ケイレブ・ウィリアムズ」を後ろから書いたことをご存じですか。彼はまずヒーローをさまざまな艱難の網の目に絡めさせて第二巻を構成し、次に第一巻のために、それまで書いたことをどのように説明したらよいかと、あれこれ思案したのです。』」

 しかし、 われわれの興味を惹くのは、 ゴッドウィンが作品を後半から書いたという事実ではなく、 それに対してポオが明言している次のような言葉である。「しかし、ゴッドウィンの手続きの方法が、そっくりこの通りであったとはわたしは考えない。事実、ゴッドウィンの認めていることは必ずしもディッケンズと一致しているわけではない。しかし『ケイレブ・ウィリアムズ』の著者は優れた芸術家であるだけに、少なくともそれに類似した手順から得られる利点は知っていた。 およそプロットの名にふさわしいものなら、 筆をとる前にその denouement に至るまでの詳細が完成されていなければならない。」ここでポオがゴッドウィンのこととして言っているのは、彼自身のことと考えられないだろうか。ポオは「大鴉」を少なくとも「構成の哲理」に書かれた方法に「類似した手順」を踏んで書いたであろうが、しかしポオの「手続きの方法がそっくりこの通りであったとは考えられない」のである。

 「構成の哲理」は「大鴉」のおよそT年後に書かれたという事実を、われわれは率直に受け取らなければならない。「大鴉」は denouement を最初に完成してからその前にさかのぼって書き上げたとポオが言う(このこと自体はその通りであろう)のと同様に、最初に「大鴉」という詩が出来て、その後でこの詩を説明するために遡って「構成の哲理」が書かれたのである。だから、それはいわばポオがいくつかの推理物語で行った犯人特定の種明かしと同じスタイルである。現実の時間の流れにおいては、殺人事件は無限に偶然が重なりあい、その結果のカタストロフィとして行われるが、推理のフィクションにあっては、読者に知らされると否とを問わず、まず最初に殺人や事件の現場が設定され、作者は遡ってその破局に至るまでの推移の必然性を跡づけ、説明する。ポオが「大鴉」においてのみならず「構成の哲理」においても行ったことは、まさにこの推理物語に固有の遡行の論法であった。

 では、ポオが「構成の哲理」を書いたモチーフは何か。それはディッケンズのポオに対する挑戦に対して、ポオが実作をひっさげての再挑戦であるとも考えられるし、また「マルジナリア」で言っているように、「どうしてやったかを詳かにして、ひとにそれを説明しなければ満足できない」という「ある種の精神の呪縛」(2)のせいとも考えられるが、いずれにしてもその根底には、創作における精神のデモーニッシュな暗黒部分に光を当て、整理し、秩序づけようとする彼の異常な分析癖があったことは確かであろう。

V 分析的知性とその効果

 すでに見たように、ポオは「大鴉」を作詩するに当たって、100行という長さと、悲哀を帯びた美というテーマから入ったと述べている。これが事実であると仮定すれば、ポオはまず美人の死という観念を抱き、その観念に言葉による効果的な具象化を行ったといえる。美的効果を考える限り、いかなる文学も多少観念的にならざるを得ないが、美という漠然とした抽象的観念から出発して、効果を計算しながら事件を具体的に造形化していく手続きは、まさに文学における演繹的方法として、ポオの詩と散文を特徴づけるものである。むろん、ここに述べられていない経験的事実が背後のモチーフとして存在するであろうが、いずれにしても最初ポオの念頭にあったものは、素材としての詩の内容ではなく、長さや効果という美の形式であったことは事実であろう。そして、ポオの中の形式的効果への激しい思い入れは、必然的に言葉や論理の機能に対する執着に結びつき、歴史や現実よりも理論や観念への傾斜を生み出す。

 ポオの短編物語においては、この効果の計算は、意識的方法として物語全体の美的効果を高からしめるのに役だっているが、 とくに推理物語においては、「分析的知性」として、直接に語り手や登場人物の口から、その機能や効用が語られる。分析的知性は、いうなれば観念の自己実現の手段である。そして、ポオが多くの読者や批評家たちに繰り返し読まれてきたのは、分析的知性の持つ魅力のためであった。「大鴉」はそのようなポオの分析的知性の生み出す効果を、詩として見事に結実させたものということが出来る。

 ポオの叙述を生き生きたらしめているのは、無限の戯れとしての分析である。ポオはとくに、叙述の方法としての分析に興味を持っていた。一般に、分析家は分析することによって「その才能を発揮することが出来るならば、どんなつまらぬことからでも楽しみを引き出す」(3)ことが出来る。こうして、分析は効果を生み出すのに使用され、その効果はポオのフィクションを活性化する。謎、判じもの、秘密文字などを解明する時のポオの分析の鋭さは、平凡な人間の眼にはさながら超自然的なものとして映る。実際、彼の分析による結論は、方法自体によってもたらされるのだけれども、まるで直感によってもたらされたような効果を与える。

 ポオは早くから、この分析的なものが半ば直感の世界に属することに気づいていた。「分析的なものとして語られている精神的諸特徴は、それ自体としてはほとんど分析を受けつけない。われわれはその効果においてそれらを認識しうるばかりである。」(4) ポオのこの言葉は、「分析」(分析的知性)と呼ばれるものの本質を衝いたすぐれた直感の一つであり、後にそれは精神分析の方法に大きな影響を与えることになる。しかし、D.H.ローレンスがポオを評して、「自分自身の自我を坩堝の中で還元し、化学的分析を行なった」(5)と述べたほど、分析癖に取り憑かれたポオには、分析をただ作品の効果として利用するだけに満足出来ず、分析的知性そのものの解明にまで進もうとした。そしてそのためにポオが選んだ方法は、比喩やアレゴリーであった。

 「盗まれた手紙」の分析家デュパンは、分析の概念を例示するために、ゲームのアナロジーを用いる。おはじきの「丁半遊び」で必ず勝つ小学生がいたが、彼がデュパンに語ったところによれば、「自分の顔の表情を出来るだけ相手の表情に似せる」ことによって、「相手の知性と自分の知性を一致」させ、相手が何を考えているかを知ることが出来たという。(6) デュパンはまた、「モルグ街の殺人」の中で、チェスとチェッカーとを比較し、チェスは注意力や計算の能力を高めはするが、それだけであり、反対にチェッカーは思索的で高度な知的能力、すなわち分析力を涵養すると言う。ついで彼はホイストを例にとり、真に熟達したホイストのプレイヤーは分析家であり、高度の観察力を駆使し、深い瞑想によって「単なる法則の限界を超える」(7)という。

 さらに、デュパンは分析力を比喩的に説明しようとして、詩人と数学者がそれぞれに持つ能力の差異を挙げる。「分析の能力は、おそらく数学の研究によって、・・・大いに強化されるものであろう。しかし計算は必ずしも分析ではない。」(8) もちろん、分析の能力は、数学の能力と無関係ではないが、それだけでは分析力を構成しない。もう一つ必要なのは詩人としての能力である。「彼(大臣)は、詩人でしかも数学者だからこそ、推理に長けているのだ。単なる数学者だったら、推理なんてちっとも出来なかっただろう。」(9) 「方法と直感という、科学者と詩人が持つ二つの領域を結びつけることで、分析家は新しい契機を創り出す」というフロイトの言葉と同じことを、彼に先立ってポオはすでに洞察しているのである。(10)

 さて、ポオは詩人の能力と数学者の能力を併せ持つこのような分析力を、さらに追究するに当たり、それをコウルリッジから借用した想像力の概念に当てはめ、「工夫の才のある人間は、常に空想的であり、真に想像力に富んだ人間は、必ず分析的である」(11)と述べる。そして分析力とは、意図する効果を思いのまま創造する構成力であるとして、次のように言う。「ひとがある作品を理解しても、それに類する作品を書くことが出来るわけではない。それは天才が持つと解される能力とは全く別物の、構成能力というべきものが欠けているからであって、この能力は大部分、疑いもなく分析的才能であって、作家はそれによって意図する効果の仕組みを把握することが出来、そしてその仕組みを意のままに働かせたり、調整したりすることが出来る。」(12) 

 このように述べるとき、ポオはすでに想像力の中に、分析的知性を機能させる偉大な理性の力を見るだけでなく、歴史の創造と破壊の原動力となってきた人類のデモーニッシュな側面と、同時に自らを神の座に就かせるすぐれた叡智の存在をも見ている。Clive Bloom は次のように言う、「分析はただの道具ではない。それは人間が自ら人間であることを知る能力であり、ポオが『ユリーカ』で説明するように、彼自身が神の一部であると知ることを可能ならしめる能力である。分析は啓示によって、人間を神に結びつける。」(13) 人間の無意識の一面に光を当て、それをアレゴリーで表現しようとするポオの方法が、J.W.Crutch の言うように、自己の心理的異常を否定し、「発狂の恐怖からのがれるための防御装置」(14)であったとしても、無意識を意識化しようとする分析的知性の価値がそれによって損なわれることはいささかもないのである。

W 「星を求める蛾の願い」ー悲哀の中の美ー

 「構成の哲理」によれば、「大鴉」でポオが表現したかったのは、哀調を帯びた美である。何故なら、「美が悲哀のトーン」を帯びたとき、それは「最高の詩的表現」となるからである。しかし、何故に、美は悲哀や憂愁に結びつかなければならないのか。そこに、ポオの美意識の全てがある。

 ポオが分析的知性を駆使し、詩という言語芸術によって捉え、形象しようとした世界は、視覚的イメージと聴覚的イメージが重なり合う夢幻の霊の世界であった。そこはイギリス・ロマン派に無視され、ポオによってはじめて光の当てられた、詩と音楽の出会う世界であった。(15) ポオによれば、観念やイメージが詩となるためには、どうしてもそれは音楽と結びつかなければならない。何故なら、詩はロマンスと違って、「不特定の快楽を目的」とし、「不特定の感覚に知覚されるイメージを提示」しなければならないからである。そして、「音楽を欠いた観念は、それ自体の明確さの故に、散文にとどまる。」(16) ポオは「マルジナリア」の中で次のように書いている。「わたしは不確定性が真の音楽の、というよりも真の音楽的表現の要素であるということを知っている。表現が不当に確定し過ぎていれば、ー調子が余り目立ってはっきりしていれば、ーそこには音楽の本質である、霊的なもの、理想的なものがなくなってしまう。・・・音楽の漂わせる恍惚とした雰囲気は失われ、妖精の気息は途絶えてしまう。」(17)

 そのような世界を描くためには、言語表現は意味の明確さではなく、漠然とした暗示性が要求される。ポオが詩の機能として求めたものも、人間の精神を現実的なものの束縛から解放し、幻想的な天上美に向って飛翔させることであった。明確な意味は精神を地上の現実に縛りつけるが、意味の漠然性は精神を遥か彼方の天空へ漂流させることが出来るからである。ポオは「マルジナリア」の中で、その幻想を「精神の外部世界の瞥見」と呼んだ。それは、はっきりと目覚めた正気の世界の境界が、半意識の夢の世界の境界と融合するほんの一瞬に、魂の中に起こる一瞥であるという。己の分析力を自負するポオは、何とかこの天上美の世界を言葉によって表現しようとした。しかし、「言葉によって表現できない思想など抱いたことはない」と豪語するポオも、「思想ではなく、一種の霊妙な幻想で、わたしにはまだ、それを適切に言葉で言い表すことの出来ないものがある」(18)と認めざるを得ないのである。つづいて、ポオは次のように述べる。「この種の幻想は・・・これから眠ろうとする、夢とうつつの間の瞬間だけにある。・・・それは人間性を超越した性格を持つものであり、精神の外部世界を一瞥させるものである。・・・わたしは言葉の能力を信じるが故に、このような捉え難い幻想までも表現できると思ったことがある。・・・しかしそれが起こるのに必要な条件の備わるのは、以前と同様に稀であって、それ故わたしはまだ、地上にこの幻想の天国をもたらすことが出来ないのである。」(19)

 美を求める人間の心は、この幻想の世界を完全な形で捉えることが出来ないとしても、その一部をほんの一瞬でも何とか瞥見しようとして、狂おしいばかりの努力を行うのである。 しかしそれは、 「星を求める蛾の願い」であり、「天上の美に達しようとする激しい努力」(20)である。この天上の美を、人間はいまここに、完全な形で捉えることは出来ない。わずかに漠然と、垣間見ることが出来るだけである。われわれが詩や音楽に涙するのは、有り余る喜びのためではなく、この「聖なる歓喜を捉えることの出来ないという、もどかしく、切ない悲しみのため」(21) である。 かくしてわれわれは、最高の詩的表現は「悲哀のトーンを帯びた美」であるという、あの「大鴉」の出発点に戻るのである。

X 「表面に現れた真理」ー言葉の暗示性ー

 ポオが「大鴉」の最後の2連をつけ加えたのは、それまで「現実の範囲」に留まっていた表層的な叙述の背後に、メタファーによる暗示性を加えることによって、その深層の意味を底流させるためであった。ここで、ポオのいう「暗示性」とは何かの問題を取り上げたいが、それに入る前にまず「表面の真理」ということを考えてみよう。

 「真理は、必ずしも井戸の底にあるのではない。それに真理よりもっと大切な知識ということになると、これは常に表面に現れているものだ」(22)というデュパンの言葉は、ポオの推理小説の中で、多少のヴァリエーションをもって何度も繰り返されている。「塵芥は藁屑のように水面を流れる/真珠を求めんとする者は水面下に潜るべし/という詩句は多くの誤解を生んでいる。より大いなる真実について言えば、それを水面よりは水底に求めることによって、ひとはかえって屡々誤りを犯す。」(23) 「厳密な意味での深遠さは、まずそれほど深遠ではないものだーそれが一般に真理というものの性質であって、ちょうどそれは鉱脈の場合と同じように、最も浅いところにあるものが、最も埋蔵量が多い。」(24) これらの言葉の意味することは、真理は表面から遠いところに単独に隠されているものではなく、表面の近くにというより表面の個々の事実の中に、何気なく顔を出しているということである。それを谷底ばかり探すという誤りを犯すのは、ちょうど天体を見るときの誤りと似ている。「星に正面から目を向けると、星の光はぼんやりしてしまう。・・・見すえるより、ちらっと見る方が星の全貌を捉える能力という点では、すぐれている」。(25)ここでポオが「表面の真理」という言葉で語っていることは、真理を追求するための方法についてというより、むしろ真理を表現するための方法、すなわち散文という言語表現についてであるということが出来る。

 一方、詩については、「構成の哲理」ですでに見たように、そこには「意味の底流」をなす 「暗示性」 がなければならないと主張し、 次のように書く。「暗示される意味の過剰、つまりそれを主題の底流にしておかないで表面に流すから、・・・ごく平凡な散文になってしまう。」では、この表面と底辺という二つの考え方は、詩表現の言語についてのポオの概念の中では、どのような位置関係にあるのか。言葉の意味に限って言えば、表面に現れているのは意味の明示性であり、底辺にあるのは意味の暗示性である。ポオはこの二つをはっきりと区別し、真理を表現する散文について、次のように書く。「真理の要求は厳しい。・・・詩歌に不可欠なものは、すべて真理に関係のないものばかりである。真理を派手な衣装で飾ることは、真理に売春婦の真似をさせることである。真理を宝石や花で飾るのは、それをこれ見よがしのパラドックスに仕立てることである。」(26)

 真理を述べる言葉は、明快で、正確で、簡潔でなければならないとする一方、天上の空漠たる美を表現する詩は、暗示的でなければならないとする。しかし、意味の明示的レベルと暗示的レベルとは、それほどはっきりとしているものだろうか。 Michael J. S. Williams は次のように書く。「しかし、彼がそう主張するとき、彼は故意にパラドックスを見せびらかしているのだ。すなわち、ポオは真理の言語には比喩表現とくにメタファーを使用すべきでないという真理を述べるために、 レトリックとして伝統的な文彩である 「衣装」や「花」を使用しているのだ。」(27) つまり、真理を表す言葉は明確で、簡潔でなければならないと古典的修辞学の主張を述べるポオの言説が、過剰な修飾語で汚染されている。しかし、そのような現象はポオ個人のせいではなく、本質的に比喩的性格を内在させる言語そのもののせいであろう。いずれにしてもポオの当初の意図は、道具として使用する言語によって逆に裏切られるという結果を招いている。

 かくして、ポオにおいては明示的意味は、暗示的意味との区別を曖昧にされ、暗示的意味の中に吸収される。同様に語の暗示的意味は、真理がそうであったように底流にあるのではなく、表面に現れ、表面の明示的意味に内包される。ポオが次のように言うとき、彼はそのような意味の明示的レベルと暗示的レベルの相互関係に気づいている。「暗示された意味が正しく用いられてフィクションの物語に役に立つのは、次のような場合だけである。つまり、表面の意味に干渉しないように、あるいは必要があって表面に呼び出されない限りは決して表面に姿を現さないように、その暗示された意味が非常に深遠な底流となって、明白な意味の中を通って流れる場合だけである。」(28) すなわち、詩においては意味の暗示性は明示的意味と無関係にそれ自体独立して存在するものではない。そうではなくて、その暗示的なレベルの意味は、語の明示的な意味の中の底流として、明示的意味と共に、切り離せない関係として存在するのである。そして語の明示的意味を媒介として表面に呼び出され、意味として知覚される。しかし、暗示的意味を最初から明示的意味として表面に出したのでは、明示的意味はその中に暗示的意味を失い、語の背後に何の深みも陰影もない、ただ事実を正確に伝達するための散文となってしまう、ということをポオは主張しているのである。

Y 反復の構造

 ポオは「構成の哲理」では、リフレインの効用として、同じ言葉の反復のもたらす sense of identity から、快楽が生じることをあげ、同時にリフレインの度重なる反復により、絶望や悲嘆さえ快楽に変わることを指摘する。その場合重要なことは、反復は自然に生じるものでなく、人為的なものであるということ、またそれは突然起こる事件ではなく、予期される事柄だということである。ポオの言葉によれば、「理性ではそれが単に機械的に暗唱したことを繰り返しているのに過ぎないことは分かっているが、最も堪えがたいが故に最も甘美なる悲しみを、予期された‘ Nevermore ’から得ることのできるような問いの言葉をつくり上げることによって、狂乱の快楽を経験する」のである。そして、反復は快楽を与えるだけではない。主人公がシニフィアンの虜になり、意味のあるはずのない大鴉の発する語の中に、偏執狂のように意味を求め、メッセージを読み取ろうとするのは、それが反復して与えられるという行為そのものによる。ポオは‘ Nevermore ’の語の持つ音楽的な魅力に魅せられて、それを大鴉に繰り返させるのであるが、反復はその背後の意味を求めさせずにはおかない脅迫観念を、作者にも、読者にも、生み出すことになる。

 ショシャーナ・フェルマンは、ポオの「盗まれた手紙」についてのラカンの研究に触れ、次のように言う。「反復されるのは、一人物の個人的心理の機能として行われる心理学的行為ではなく、相異なる三つの視点を決定し、見る行為(とりわけ盗まれた手紙を見る行為)に対する相異なる三つの関わりを具現する、一つの構造内における三つの機能的位置なのである。」(29) ラカンは精神分析的読解のアレゴリーとしてポオを読むことによって、ポオの「盗まれた手紙」の第一場面(王、王妃、大臣)と第二場面(警察、大臣、デュパン)との間にある構造的意味関係の差異の中に、象徴的置き換えとしての反復構造を発見した。われわれはラカンの精神分析的読解に倣って、次のように言うことが出来ないであろうか。すなわち「大鴉」においては、単に鴉のリフレインが機械的なシニフィアンとして反復されるのが描かれているだけではなく、そのシニフィアンがそれぞれ変化を持ったコンテクストによって包み込まれ、そうすることによって差異のあるシニフィエを獲得するに至るパタンの反復が描かれていると。ところが問題は、構造的反復のパタンは主体の意識を超越したところで行われるということである。「無意識的な欲望は、いったん抑圧されてしまうと、置き換えられた象徴的媒体のうちに生き延びる。この媒体は主体の生活と行動を支配しているのであるが、主体自身は自らの生活と行動の意味にも、またそれらが構造化している反復的パタンにも、決して気づかない。」(30)

 さて、反復の中で起こることが、無意識によるシニフィアンの象徴的置き換えであるとすれば、反復現象はただリフレインを含むコンテクストのパタンの繰り返しとしてのみ起こるのではない。それは、例えばポオが「大鴉」の場面を設定する場合においても、抑圧された無意識の回帰として、現れてくるものである。「大鴉」の場面は、森の中の一軒屋である。ポオは、「まず自然に思いつくのは森や野原かも知れない」が、自分は「絵における額縁の効果として」一軒屋を選んだという。しかし、ポオは屋内を決して屋外との比較において決めたわけではなく、「盗まれた手紙」の中のDー大臣のように、「慎重に選択の問題としてそうなったのではないとしても、当然の問題として行き着いた」(31)のである。屋内に「空間を狭く限定する」ことこそ、選択を超越して彼の生得の美的感覚のなせる業であった。ポオの物語の多くは孤立した部屋や、船倉の中や、人里離れた修道院や、棺桶の中で起こる事件として描かれているし、事件がたとえ野外で起こっても、それは狭い気球の中や、隔離された島や、小さな湖のような、周囲を囲まれたり覆われたりした狭い世界である。 RichardWilbur は、このようにポオの物語において頻繁に繰り返されるモチーフであるenclosure(閉じ込め)あるいは circumscription(囲い込み)を指摘し、それは現実世界からの意識の遮断と、夢幻あるいは忘我の境地における詩的精神の分離・抽出を意味すると言う。(32)

 このように無意識の反復という観点からみれば、ポオの物語は表面的には異なるように見えても、多くは同じ構造を繰り返していることが分かる。「閉じ込め」や「囲い込み」の他に、その繰り返される一定のパタンとして、例えば、spiral(螺旋)や vortex(渦)のイメージがある。「壜の中の手記」や「メエルシュトレエムに呑まれて」は、 水の渦に呑み込まれるし、「アッシャー家」は風の渦に、「メッツエンガーシュタイン」は火炎の渦に、それぞれ包み込まれる。同じく Wilbur によれば、ポオの物語での螺旋や渦は、意識の喪失と眠りへの陥りを象徴しているという。(33) このように、抑圧された無意識は、置き換えられた象徴的媒体として、物語の中に繰り返されるが、ポオ自身はその繰り返しには気づいていない。

Z テクスト読解のアレゴリー

 さて最後に、この物語詩「大鴉」の中の「物語」を、全体としてもう一度辿ってみよう。言葉によって表現されたテクストの背後には、常に謎や神秘がある。とくにそれが「忘れられた学問の、古風で奇妙な書物」であれば、そこにある謎と神秘は無限である。しかも主人公は単に古書の解読を生業とする学者であるだけでなく、嵐の夜を「カーテンの衣擦れの音にもおびえながら」恋人の死を嘆き悲しむ多感な男でもある。彼は亡くしたばかりの恋人を忘れようとして「書物の中に悲しみを癒してくれるものを求めたが、空しかった。」そのようなとき、たまたま迷い込んだ一羽の大鴉とその繰り返す‘ Nevermore ’という言葉に、主人公の生得の想像力は強く刺激され、それまで古書に向けられていた神秘解明の矛先は大鴉の言葉へと移り、こうして‘ Nevermore ’に対する彼の意味追究が、偏執狂を思わせる激しさで始まるのである。

 そのような主人公の意味追究の努力を、Barbara Johnson はテクストを前にして方法論を模索する批評家のそれに譬えた。(34) 最初、彼は鳥との間に成立したディスコースに驚くとともに、単なるシニフィアンに過ぎない‘Never-more ’という言葉に異様な興味を覚える。それは、いわば見知らぬ記号を前にしての<記号論者>の反応を思わせる。しばし瞑想の後、彼が「この鳥も明日には飛び立つであろう」とつぶやくと、大鴉はふたたび‘ Nevermore ’と答える。まるでその鳥には人語を解する力があるかのような迷信的気分にとらわれ、この学者は<伝記的批評家>よろしく、この言葉の解釈に着手する。そして、きっと悪運に憑きまとわれた飼い主が、もう不幸は御免だとばかり ‘ Never-
more ’と口癖に言った言葉を覚えていたのだろうと推測する。ついで、この学者はさらにそのシニフィアンの意味を探ろうと、びろうどのクッションに身を横たえて、<精神分析者>のごとく空想と空想をつなぎ合わせ、自由連想を行い、この鳥は忘却と安息の使者ではないかと考える。しかし、その考えは大鴉の‘ Nevermore ’によって打ち消される。ここにおいて学者は、その意味がむしろ彼の悲しみを増大するような方向に、自らの問を工夫していく。かくして彼は<読者反応批評家>となり、大鴉の発する繰り返し句を読者に解釈を迫る「テクスト」として受け取り、そこに救いようもない絶望の高まりを読み取りながらも、中に秘められた自虐的喜びに身を任せていくのである。

 ところで、学者と鴉の間で取り交わされるディスコースを一つのコミュニケーションとして見るならば、そこに象徴されているものは、何か。意味を持たない、単なるシニフィアンに過ぎない‘ Nevermore ’が意味を持つためには、その記号に対する主体の積極的な働きかけが必要である。それがここでは、大鴉に対する学者の質問という形で行われる。質問が次々と新しいコンテクストの中におかれると、それまで意味を持たない機械的なシニフィアンに過ぎなかったものが、次第に意味を獲得し始める。しかし言葉が意味を持つのは、それが人間によって意図的に使用された場合である。したがって人間の意図から切り離された単なる記号は、意味を欠くが故に逆に受け手により如何なる恣意的な意味をも付与することが出来る。ポオがリフレインを変えることなく使用する口実として選んだ鴉は、結果として機械的シニフィアンの象徴となったが、それがかえって意味獲得願望を刺激された学者の積極的参加を呼び込むことになり、次々と意味の自然増殖が始まる。 Barbara Johnson によれば、「大鴉」の物語はひとが機械的なシニフィアンに出会うとき、何が起こるかについてのアレゴリーである。(35) それに倣って言えば、この詩は言葉の魔力に取り憑かれたひとりの人間が、言葉の呪縛の中に閉じ込められる物語でもある。むろん、その人間とは主人公の学者であり、作者のポオであり、それを読むわれわれ自身であろう。


「註」

(1) The Complete Works of Edgar Allan Poe, ed. by James Harrison (以下 CW とする), Vol.XIV, "The Philosophy of Composition", pp.193-208.
(2) CW, Vol.XVI, "Marginalia", p.40.
(3) CW, Vol.IV, "The Murders in the Rue Morgue", p.146.
(4) Ibid., p.146.
(5) D.H.Lawrence, "Edgar Allan Poe", p.21.(in "Modern Critical Views" ed. by Harold Bloom)
(6) CW, Vol.VI, "The Purloined Letter", pp.40-41.
(7) CW, Vol.IV, "The Murders in the Rue Morgue", pp.147-148.
(8) Ibid., pp.146-147.
(9) CW, Vol.VI, "The Purloined Letter", p.43.
(10) Sigmund Freud, "An Autobiographical Study", p.7
(11) CW, Vol.IV, "The Murders in the Rue Morgue", p.150.
(12) CW, Vol.XVI, "Marginalia", p.67.
(13) Clive Bloom, "Reading Poe Reading Freud", p.27.
(14) J.W.Krutch, "Edgar Allan Poe: A Study in Genius", p.210.
(15) Leon Chai,"The Romantic Foundations of the American Renaissance", p.21.
(16) CW, Vol.VII, "Letter to Bー", p.43.
(17) CW, Vol.XVI, "Marginalia", p.29.
(18) Ibid., p.88.
(19) Ibid., p.89.
(20) CW, Vol.XIV, "The Poetic Principle", p.273.
(21) Ibid., p.274.
(22) CW, Vol.IV, "The Murders in the Rue Morgue", p.166.
(23) CW, Vol.VII, "Letter to Bー", p.39.
(24) CW, Vol.XIV, "The Rational of Verse", p.210.
(25) CW, Vol.IV, "The Murders in the Rue Morgue", p.166.
(26) CW. Vol.XI, "Ballads and Other Poems, by Henry Wadsworth Longfellow", p.70.
(27) Michael J. S. Williams, "A World of Words", p.8.
(28) CW, Vol.XIII, "Nathaniel Hawthorne", p.148.
(29) ショシャーナ・フェルマン著 「ラカンと洞察の冒険」pp.59-60.
(30) Ibid., p.62.
(31) CW, Vol.VI, "The Purloined Letter", p.46.
(32) Richard Wilbur, "The House of Poe", p.56. (in Modern CriticalViews ed. by Harold Bloom)
(33) Ibid., p.53.
(34) Barbara Johnson, "A World of Difference", pp.98-99.
(35) Ibid., p.98.

英文題名 
The Method of the Narrative in "The Raven" by Edgar Allan Poe

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