「文学批評の原理と方法 序説(1)」                   安藤邦男

                        同人誌「われらと」1号  昭和34年 1月31日

【筆者注】 今は亡き三輪幸男君を中心に、現状改革の意欲に燃える若い人たちが集まって、同人誌「われらと」を発行した。残念ながらそれは1号で終わったが、そのとき筆者は2編を寄稿した。これは、そのうちの1編である。
 ここで筆者は、批評の原理を創作の原理と比較することによって、その本質を明らかにしようとした。しかし、雑誌が未完に終わったこともあって、その意図も図式的な序論を述べるだけにとどまり、各論の展開を見ないままうち捨てられている。


はじめに

 この小稿の中で、私は文学の批評とはいかなるものであるか、また文学の批評はいかに行うべきか、という大きな問題を考察してみたい。もちろん、このような問題は古今のすぐれた文学者や批評家にとって畢生の大問題であり、私のような一介の文学愛好者の手に負えるほど容易なものでないことは百も承知している。にもかかわらず、私がこのような問題をとりあげる理由は、たとえどんな無責任な素人の文学好きであっても、いやしくも彼が人間として現実に生きる限り、また彼が文学を自分の人生とのつながりから捉えようとする限り、彼は否応なく文学をかけがえのない自分の立場から批判的に受けとらざるをえず、そのためには彼は意識的な批判の方法を自分のものとして確立していなければならない、と私は信ずるからである。私は一人の文学愛好者として、自分なりにいわば自分のための文学批評を、方法論的に考えてみたいと思うのである。

 すでに問題そのものが本質的であり、しかも少ない紙面であるから、内容はおのずから抽象的にならざるをえないであろう。しかし、私がここで考察の対象にとりあげる「批評」なるものがもしその根拠を求めて無限に深まっていく精神であるとするならば、この小稿が抽象的であるということはそれだけそれが批評的であるということにならないであろうか。それはともかく、私がここで意識的に取ろうとする方法は、実証的・歴史的ではなく、むしろ観念的・論理的である。

 「批評の原理と方法」という題名からも察せられるように、論理構成はまず批評精神そのものを原理的に明らかにし、その上に具体的な方法論を展開するということになるであろう。このような、いわば演繹的な論証方式を取らざるをえないのは、さきにも述べたように、私の問題意識が自分なりの批評方法を確立したいということにあるがためである。

(1)批評の発生
 批評の原理を追求するためには、まず批評精神なるものがわれわれ現実の人間生活の中でどのようにして発生するか、を明らかにすることが必要であろう。批評は、われわれの精神のもっとも高度な活動であるが、しかしこのような高度な精神活動を呼び出すものは、現実の生活の中で行われるさまざまの人間活動である。人間の活動は、何らかの意味で「ものをつくる」という行為につながっている。農業従事者は農作物をつくり、工場技術者は各種製品をつくる。商業従事者はつくられたものを分配するための流通経路をつくり、政治家は法律をつくる。医者は病気を治して健康な身体をつくり、芸術家は芸術をつくる。

 さらに、人間はものをつくることによって自分自身をつくる。工場労働者は製品をつくることによって技術者としての自己をつくり、芸術家は芸術をつくることによって芸術家としての自己をつくる。このように、人間の現実生活がものをつくるという活動で成り立っているとするならば、批評はそのような現実生活の中でどのように発生し、どのような働きをするであろうか。

 「ものをつくる」という以上は、「もの」つまり客体的存在がなければならないが、同時にそこには「つくる」という主体としての人間活動が条件になる。「ものをつくる」とは一言にしていえば、主体的な人間が客体としての環境に働きかけて、その中に自己の目的を実現することである。しかし、「つくる」という行為は、人間の働きかける環境の種類にしたがって、三つに大別される。

 まず第一に人間の働きかける対象は、「自然的環境」である。人間は自然に働きかけてこれを加工し、自分の生活のレベルにまで高めるのであるが、このような人間の活動は「物質的財貨の生産」と呼ばれる。それは、人間の生存を直接保証するものであるという意味で、人間生活の全活動の中でもっとも基本的位置を占める。人類の歴史はいうなれば生産の歴史であり、生産活動とその生産物は人類の発展と幸福が直接依存する原動力なのである。この事実は、あまりにわかりきったことであるがためかえって軽視されがちなので、とくに強調しておきたい。

 だが、物質的財貨の生産は何らかの形の集団活動なくしてはあり得ないであろう。高度に発達した現代の生産機構の中ではもちろん、生産の原始的段階にあっても、人間はただ独りでは生産を行うことはできない。二人以上が共同の仕事を行うには、各自の仕事の分担がきめられなければならない。この意味で、人間の生産活動自体の中ですでに社会が形成されるといえる。しかし、人間にとって社会が必要であるのは単に生産のためだけでなく、より本来の意味からいえば、社会は「物質的財貨の分配」のためにある。生産されたものが消費されるためには、それはまず分配されなければならず、このような分配過程の中では人間は自己の欲望をできるだけ満足させるような分配組織をつくる。そこで第二に、このようにして物質的財貨の生産と分配の過程で(より大きくは後者であるが)人間は「他の人間に働きかける」ことにより「社会を組織」する。

 最後に、人間はこのように生産され分配された財貨を消費して自己の欲望を満たすのであるが、ここで消費とは何かを考えてみる。生産が客体的自然の中に人間の主体的目的を実現することであるとするならば、それは「主体の客体化」ということができるであろう。ところが、消費はこのように自然の中に客体化された主体を再び人間の内部に同化することであり、その意味でそれは「客体の主体化」である。消費活動で人間は自然の中に疎外された自己を回復し、同時に新たに自然の生命を自己の生命として吸収していくが故に、人間はみずからを維持・発展させることができるのである。

 それでは、消費することによって人間は何をつくるかといえば、まず自己の身体をつくる。しかし身体は自然の一種であり、個体保存と種族保存の本能およびそれに伴うさまざまのエゴイズムをもっているから、身体をつくることは同時にそのような自然の内的衝動をつくることなのである。だが、内的衝動をそのまま放置しておくことは社会生活を営む人間にとっては望ましくなく、人間はみずからの内部へ働きかけてこれを統制しなければならない。このことの必要は、すでに物質的財貨の分配過程でも生じている。しかしながら、消費過程で人間のつくりだす衝動あるいは欲望は次の再生産に対する原動力となるものであり、単に抑圧されるだけのものでなく、積極的に正しい方向に向けられるべきものなのである。道徳、芸術、学問などの人間のあらゆる文化的試みがここに発生する。こうして、第三番目のものとして、「人間はみずから内部へ働きかける」ことによって「文化を創造」するということができる。

 さて、このようにわれわれ人間生活の全過程は物質的財貨を中心に、「生産」、「分配」、「消費」という循環をなして営まれるのであるが、それぞれの段階で人間の働きかける環境対象とつくり出すものとは、論理的必然性をもって区別される。すなわち、
@「生産過程」では「自然」に働きかけて「物質的財貨」をつくり、
A「分配過程」では「他人」に働きかけることにより「社会」をつくり、
B「消費過程」では「自己」に働きかげることにより「文化」をつくる。
また、つくるという行為も、三つの段階に応じてそれぞれ@「生産する」、A「組織する」、B「創造する」という概念を当てはめることができる。

 それでは、このような関係から眺められた文化は、一体どんな意味をもっているだろうか。
 すでに述べたように、文化は人間生活の消費過程と分かちがたく結びつき、それ故生産から遊離した単なる教養主義に陥る危険をもっている。しかし、文化は本来、人間の生産活動のためになければならないのである。それは、あたかも消費が生産の契機となり、次の生産の意欲をつくりだす働きをするのと軌を一にしている。そこで、私はさきに人間はみずからの内部に働きかけて文化を創造すると言ったが、しかしより厳密にいえば、文化を成立させるものは人間の内部に対する働きかけだけではない。もしそれだけであるとすれば、文化は決して生産に結びつかないことになるであろう。
 たしかに、人間は消費によって自己の要求を満たすと同時により新しい次の要求を自覚するが、このような要求を次の生産のための一つの目的として価値づけるという精神の内的活動は、文化を成立させる一つの要因ではある。しかし、それだけではない。文化の働きのもう一つは、そのように価値づけられた目的を達成するために、具体的な方法を指示することである。そして、方法は正しい客体認識の上に築かれなければならない。

 したがって、われわれは次のように言うことができる。文化とは、人間が主体の内部に目的価値を求めて深まるとともに、客体的対象に対する認識を深めるとき、はじめて成立するものであると。しかるに、文化のこのような働きこそ、まさにわれわれのいう批評の働きであると言えるのではないか。

 ホモ・ファベルの哲学が歴史と人間の問題を正しい形で捉えることのできる唯一のものであると信じる私は、主としてその哲学の方法に則して論を進めているのであるが、それにしてもその哲学の陥りがちな弱点は、生産に対する消費の不当な軽視であるように思われる。たしかに、社会の階級分化と分業組織のために、消費は生産から切り離され、いわゆる消費文化と生産文化とはきびしく対立している。このような消費と文化のあり方は、それが生産の意欲を喪失させるかぎり、否定されなければならないであろう。

 しかし、消費と文化の悪しきあり方を否定するあまり、それらが本来もっている正しい意義までも抹殺されてはいないだろうか。たとえば、消費と文化の過大評価は生産第一主義の否定につながりかねないとして、それらを過小評価し、話題に取り上げることすら遠慮する風潮が見られる。だが、それで果たして社会の構造改革ができるであろうか。社会の歪みに光をあて、それにあるべき姿を指示するのは文化の力ではないか。私は文化のもつ批評的な機能を、もつと高く評価しなければならぬと思うのである。

(2)批評の原理
 さて、批評という精神活動は、現実の人間生活の場では文化という形をとって現われるということを前節で見てきた。それでは、このような文化のもつ批評性は、社会の生産的活動と原理的にどのように違うのであろうか。次ぎに、その問題を考えることにする。

 ものをつくるという活動にあっては、人間は働きかける対象から離れていることはできない。対象と一体化しなければならない。では、対象と一体となるということはどういうことか。あえて概念的にいえば、それは自己の主体的自由を制限することによって、対象としての環境的秩序の中に入りこみ、みずからを環境の一部にすることである。主体みずからを客体化しなければ、環境に働きかけることすら出来ないのである。自己を客体に同化させ、客体に働きかけることによって、はじめて客体は主体の理想を実現したものにまで高められる。ものをつくることでは、文字どおり主体は客体の中に埋没し、客体と一体となる。このような過程をわれわれは「主客合一」の過程と呼ぶことにしよう。

 ところが、このような主客合一の過程では、人間はしばしば対象の性質を見誤ったり、みずからの目的さえ忘れたりしがちである。なぜなら、自己は対象と密着し、そこに分別の入り込む余地がないからである。行動一般のもつこのような局部性を脱するためには、人間は対象と密着した自己を対象から引き離さなければならない。一定の距離をもって対象を眺めるとき、対象ははじめて遠近法の中に明確な輪郭を現わし、同時に対象に対立する主体みずからが自覚される。これをわれわれは「主客分離」の過程と呼ぶが、すでに明らかなように、これこそ批評の本質なのである。

 このように、ものをつくるということが効果的に行われるためには、人はときどき自分の行為を中断し、それがどのような意味をもつかを考えなければならない。いいかえれば、「主客合一」から「主客分離」の過程へ移らなければならない。そして、このことはそのまま人間の歴史の発展過程と対応するのではないか。なぜなら、そこにこそ人間を動物から区別する文化が発生するといえるからである。
 文化とは本来、分化を意味する。行動における生と経験の混沌が整理され、秩序づけられるのは、まず主体と客体の分離にはじまる。このような分離ー別の言葉でいえば分化ーを通じて、主体は自己を対象の特殊性から解放し、ロゴス的なものに高められる。また、客体は感性の制限を脱して、普遍的論理の世界に組み入れられる。宗教、道徳、芸術、科学などの文化が、このようにして生まれる。

 ただ、本来ものをつくる活動の中に発生した批評精神が、その主客分離の必然な傾向のために主客合一の活動から離れて、それ自身独立しなければならないというまさにそのことの中に、批評精神の危機があるといえる。たとえば、科学は人間の生と経験がら出発したのだが、それが科学として独立するとそれ自身の体系にしたがって発展し、科学を生みだし、それ故に科学がそのためになければならないはずの、人間生活を無視する傾向に陥る。このような傾向に陥った科学にあっては、批評精神はすでに死滅しているといわなければならない。

 だから、実践活動から理性的認識へという、主客分離の過程の中に批評精神の働きがあるといっても、ただそれだけが批評精神のすべてではない。行為における主客合一から認識における主客分離へといわば一歩退いた批評精神は、ふたたび行為へ飛躍しなければならない。そこにこそ、批評の真面目があるのではなかろうか。行為から認識への過程が「主客分離」の過程であるとすれば、認識から行為へという過程は「主客対立」の過程といえるであろう。このような主客対立の過程を経ることにより、批評は行為の中にみずからの使命をはたすことができる。

(3)文学批評における主観主義と客観主義
 さて、私は文学批評の問題を考えるのに、まず現実生活における批評精神から出発したのであるが、その理由はこれこそがあらゆる種類の個別的批評形態の発生する根源であると信じるからである。この根源を除外して、最初から文学固有の領域だけを取り上げるならば、文学における批評の本質的意義はわからなくなり、したがって文学批評の方法論も不可能になると思う。そこで、私はこれまで批評精神を生産的および社会的活動に対する文化の働きの中に見てきたし、同時に批評の原理が文化自体のもっている主客分離あるいは対立の原理であることも明らかにしてきた。文化の一形態としての文学それ自身もまた、当然、実践としての「生」に対して批評的意味をもつはずである。しかし、文学もまた一つの創造的行為であり、そこにはすべての行為がもつ主客分離の批評的立場が予想される。このように考えてくると、われわれはようやく文学批評プロパーを扱う段階に来たことを知る。

 そこで、問題をより有効に考えることができるように、まず歴史的文学批評の主たる方法を鳥瞰しておくのが便利であろう。これまでの論理の図式的傾向に敢えて従うならば、私はまず文学批評の歴史に主観主義批評と客観主義批評の二つの対立的な主流を認め、さらにそれぞれの流れの中に内在批評と外在批評の二つの支流を設定したいと思う。

 私はさきに、文化の批評的機能について、「主体の内部に価値を求めて深まる」ということと「客体的対象に対する認識を深める」という、二つの働きを指摘した。批評がものをつくるということー文学の言葉を用いれば創作ーに対する指導的役割を果そうとするならば、批評はまず何をつくるべきかということと、次にいかににつくるべきかということの、二つの問いに答えなければならないのは当然である。何故ならば、ものをつくるということが「主体の目的を客体の中に実現する」ことであるならば、そのためにはまず主体がみずからの目的の意味と価値を検討すると同時に、それが形をとるべき客体の性質を明らかにすべきだからである。批評のかかる二つの働き、もしそれを価値判断と対象認識という言葉で表すとすれば、その二つの機能は、結局、批評が創作のためにあり、創作をより有効に実現させるために主客分離の立場に立つということから出てくる。そこで、私は主観主義批評という言葉で主として価値判断に従事する批評を、客観主義批評という言葉で対象認識を目的とする批評を、それぞれ意味させたい。

 これに対して、内在批評と外在批評とを区別する根拠は、批評がその対象として主客合一過程を重視するか、それとも主客分離過程を重視するか、ということである。主客合一過程を重視する内在批評は、作品を何よりもまず主客合一の創作過程および鑑賞過程の中で、主体の美的体験として捉えようとする。したがって、作品の価値は作品自体の中にあって他のいかなるところにもなく、文学はそれが客観的真理を表現しているから価値があるのではなく、主体的人間のさまざまの芸術的要求を満たすから価値があるのである。これに対して、外在批評は主客合一の過程を単なる前提に過ぎないとして無視するか、あるいは最初からその過程を経ることなく出発しようとする。したがって、批評の主体は作品対象から遊離し、作品対象は批評の主体から独立せざるをえない。主体は客体に外在し、客体は主体に外在する。そして、外在するものを批評できる主体の唯一のものは、理性である。こうして、外在批評の武器は理性であり、その批評の基準は作品の真理性ということになる。

 さて、以上のように対立する批評方法の二組を組み合わせることによって、四つの批評方法が生じる。@主観主義的外在批評、A客観主義的外在批評、B主観主義的内在批評、C客観主義的内在批評である。この四種の批評のそれぞれの代表的なものとして、@独断批評、A文献学的批評、B印象批評、C心理学的批評をあげることができる

 独断批評なるものに、私はある種の哲学的批評やある種の社会歴史学的批評を含ませたいが、いずれもすでに出来上った基準をもって対象を裁判官的に断定し、そうすることによって対象のもつ独自性を無視する。この派の批評家の関心は批評対象にあるのでなく、自己のもつ美学的な、哲学的な、歴史学的な価値体系にあるのであり、対象としての作品をありのままに理解しようとする意欲もなければ、作品を自己の主体的な生の営みの中へ投げ入れてその反応を問おうとする情熱もない。主体と客体は分離したままであり、分離したままの主体を客体に押しつけようとするものである。主観主義的外在批評と呼ぶゆえんである。

 独断批評に対し対照的な位置にあるのが、文献学的批評であり、アカデミックな実証主義批評の多くばここに入れられる。客観主義的外在批評として分類したことからも明らかなように、この派の批評はまず主観的な判断を排除することで自己の方法に科学としての厳密さを与えようとする。しかし、事実の探究さえ主観の働きなくしてはあり得ず、また文学はなによりも主体の感動の中に成立するものである。だから、この派の批評家は、結局、批評対象を文学そのものの中に求めることはできなくて、文学の周辺に求めざるを得ない。作者の伝記とか社会情勢とか作品の成立事情とかが好んで批評対象として取りあげられる。もちろん、これらのことは必要ではあるが、それはあくまで批評の準備過程にすぎず、正しい批評はそれらのものの上になされなければならないという意味で、これはたとえ文学研究と呼ばれるとしても、決して文学批評そのものではない。それ故に、文学の創造と享受の現場から隔絶した象牙の塔が、この派の恰好の住処であるように思われる。

 このように独断批評と文献学的批評とはそれぞれ批評原理の二面である主体と客体とに偏することによって、文学作品の芸術性を無視することになる。独断批評の恣意性は作品との交わりを断ったところから生じ、文献学的批評の非文学性は主体の働きを放棄するところから生れる。独断批評は主体に即きすぎ、文献学的批評は客体に隷属しすぎ、そうすることによっていずれも本来主体と客体の統一としてある文学そのものから離れるのである。

 主観主義的内在批評である印象批評あるいは鑑賞批評は、前述の二つの外在批評とちがって、まず謙虚に作品を鑑賞することからはじめる。鑑賞にあっては、人はあらゆる雑念と偏見を去り、自己を無にすることによって、対象をありのままの姿で自己の内部にくまなく再現する。このようなとき、対象は対象であって同時に自己である。印象批評はこの対象即自己という境地を一つの印象として語るわけであるが、そこでは彼はその印象を決して分析しようとしない。彼にとっては文学はなによりもまず作品の自己に与える効果としてあり、彼はその効果を効果そのものとして丸ごと描くことによって作品を批評するのである。だから、印象批評家は本来理論を必要としない。自己の鑑賞力が唯一の武器であり、判断の基準である。印象批評家の自己の鑑賞力に対するこのような誠実さは高く評価されてよいが、しかし誠実であることだけでは問題は解決しない。彼の誠実さは結局自己の鑑賞力に対する信頼から生れ、さすがに彼の鑑賞力あるいは趣味は卓抜であり、適切な対象をえたとき、彼の批評はその作品のもつ可能的な価値をほとんど極限にまでわれわれに示す。しかし趣味は本来パトス的・特殊的なものであり、趣味にもとづいた批評は方法論的に大きな制限をもっている。それはあまねく作品を批評することができず、とくに作品の中の思想的なものの意味を評価できない。印象批評家の独壇場である主客合一の場で動員されるものは、主体のとくにに感性面であり、このように動員された主体は、客体の感性面に直覚により参入するのであるが、しかし思想的なものを捉えるためには主体は客体から自己を引き離し、そこに理性の力を媒介させなくてはならないのである。印象批評家に不足しているのは、まさにこのような媒介力としての理性である。

 印象批評が作品の効果を美的印象として語るとき、同じく作品の効果を重視する心理学的批評は、それを心理的に分析する。この場合、その効果を生みだすものの側である創作過程から出発するものに精神分析的批評があり、それを受けとる側である鑑賞過程から出発するものに言語分析的批評がある。しかし、いずれも客観主義的内在批評であり、文学の価値を心理的な効果に求め、その効果のよって来る根拠を科学的に分析する。このように心理的批評は作品そのものを批評の対象として取り上げるのであるが、印象批評とちがって直覚によるのではなく、理性の力によって芸術の秘密を明かそうとする。いわば芸術の生理に科学のメスをふるうわけである。従来の科学がみずからの方法の限界を悟って敬遠してきた作品の創造と鑑賞の過程に分析を武器として大胆に踏みこんだという意味で、彼らの勇気は賞賛に値しよう。しかし彼らの意図から、またそれ以上に結果から明らかなことではあるが、彼らもまたすべての分析科学のもつ制限から免れることができず、彼らの行う分析的な努力は主体的評価と無関係のところで行われている。彼らの分析的批評の方法によつて捉えられるのは、作品創造のあるいは享受の、いわ技術的条件であるにすぎない。

 もちろん、このような技術的条件の探求は正しい批評には不可欠である。が、それだけてはわれわれのいう批評とはおよそ縁遠いことも正しいのである。だからわれわれは次のようにいうことができる。作品効果の条件を明らかにする心理学的批評は、作品成立の条件を明らかにする文献学的批評と同じく、真の意味の批評の準備過程をなすに過ぎないと。(未完)

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