『原爆八月六日 平和の祈り あの時の縣女を語ろう』

   (広島県立広島第一高等女学校 有朋会四十五期追悼の会)より

母と最後の夏
    

        
 水野 康子(旧姓・杉野)当時 県立広島第一高等女学校2年生

 毎年8月になると涙が出て、思い出せばいつでも涙が溢れる泣き虫だから、お話しているときっと泣き出してしまうと思うのです。それで文章に書くのなら何とかできそうに思いますので、拙いながら記憶にあることを綴ることにしました。1人でも読んでくださる方があればと思います。

 1945年8月6日、14才になったばかりの私は学徒動員で、南観音町の印刷工場に通っておりましたが、その日は木刀訓練があるので近くの学校(現観音中学校)の校庭に整列していました。そして一瞬の閃光とともに地獄の中にいたのです。何が何だかわかりません。校舎の陰になっていて、私達は助かりましたが、同じ列の中にいても顔一面火傷をした人もありました。すぐ防空壕に入ったのだそうですが、その部分は記憶になく、ただ校庭を逃げまどう人々(私もそのひとり)、近くの民家が壊れ、炎が上っていたのが頭に残っています。どこでどのくらい時間が経ったのか、放水路の土手を歩いて三菱(南観音町)の方へ逃げました。その時黒い雨が降って来ました。

 夕方近くなって先生が町の様子を視察して来られ、

「新兵器を使用したらしい。一面火の海で生徒を帰宅させることはとてもできない」

とのことで、己斐(こい)の山に建設中の分工場へ避難することになりました。

私は観音町に一番先に爆弾が落ちたのだから、他の地区の人はすぐに防空壕に入って助かっているだろう、母は大丈夫だろうと安心していたのに、たった一度光を見ただけ、1機の飛行機を見ただけなのに、なぜ全市火の海なのかしらと思いました。

ともかく私達は非常食用の米、大豆などをバケツに入れて、二人で持ち並んで己斐まで歩きました。途中のことはまたまた忘れてしまっておりますが、分工場近くの坂道にさしかかると、道の両側に傷つき逃れ来て、遂に倒れた人達がずらりと横たわっておられました。その中には後輩の1年生が大勢、数学の栗田先生もおられましたが、もう息のある人はなかったのでしょう。何の手助けもせず、私達は通り過ぎてしまったのです。恩師や後輩その他数え切れない程のむごい姿をこの目で見ながら、なぜあんなにしゃんとした足どりであの道を歩けたのか、今考えてみると不思議です。

 夕暮れになって、やっと柱と屋根だけがある分工場に着き、土の上で一夜を明かすことになりました。その頃になって、私の不安はだんだん大きくなりました。母は大丈夫だろうか。無事であれば、どんな危険を冒しても私を探してどこまででも来てくれる筈なのに、おかしいと思いはじめたのです。

 私の家族は6人でしたが、戦争のため、父は海軍軍属としてフィリピンのミンダナオ島に、祖母は双三郡(ふたみぐん)(現三次市・みよしし)に疎開、長兄は学徒動員で東洋工業の寮に、次兄は少年兵としてわずか15才で軍隊に入り中国に送られて2年目で、当時家にいたのは母と私だけでした。ですから必死で母の無事を祈りつづけていました。

 朝になって生徒は帰宅することになり、みんなで山を下りました。途中で家族の方が迎えに来られ、お互いの無事を喜び合って帰られた友達も何人かありましたが、遂に母の姿は現れず、同じ方向へ帰る友達と3人で、もうほとんど燃えつきてしまった町を歩きました。どの道をどう歩いたか判りませんが、道にも焼け跡にも、真黒こげ、顔は西瓜のようにふくれ、誰だか見分けがつかない屍が累々と横たわり、それをまたぐようにして歩きに歩きました。中広町の我が家も跡形もなく焼けていました。母の姿もありません。それまで必死にこらえていたのがもうこらえ切れなくなって、「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら母を探しました。

 生き残った人達が数人ずつあちこちに座っていて、私を見ると、

「あっ、○○ちゃんが帰って来た」

と言って駆け寄って来られましたが、お互いに人違いでがっかり。あたりをいくら探しても母は見つかりません。私は母を探すのを諦め、数百米離れたところの知り合いの人を尋ねることにしました。運よくその人が山手川の川原にいらっしゃることが判り、そこへ行ってみますと、母がいたのです。

 どうして私を迎えに来ることなどできましょう。母は私が帰り道で見た屍と同じように、西瓜のように大きな顔、前半身真黒の火傷で川原に横たわっていました。意識ははっきりしていました。水を飲ませると死ぬと言われ、愚かにも、半身以上の火傷で、治療のすべもないのに、水を飲ませなければ生きられると思って、一生けんめい看病しました。でも母はどんなにつらかったことでしょう。ただでさえ暑くてのどが渇くのに、半身火傷の身です。なぜもっと科学的な常識をもたなかったのか、くやしくなります。

 兄が東洋工業の寮から、友達に手伝っていただいて蒲団を運び、焼け残りの木片を集めて来て、1メートル高さくらいの屋根を作り、その中へ母をねかせました。普通の家にいても一番暑い季節、まして川原で焼けつくような日ざしを、1メートル上の薄い板1枚でやっと遮って横たわっている重態の母が、どんなに苦しかったことか、四十路を過ぎた今頃になって、身にしみて判ります。

 母は私に言いました。

「こんなになったのがお母さんでよかったよ。もし我が子がこんなひどい苦しみを受けているのだったら、お母さんはそばでとても見ていられないだろう」

と。その時は私もまだ子供だったせいか、あまりの惨事に気がおかしくなっていたのか、この言葉から母の深い愛情と耐え難い苦しみを、十分には察することができなかったように思いますが、大人になり、子供をもつ身となって、この母の言葉は私の心に深く沈潜して、思い出す度に申訳なくて胸が痛みます。

 こうして2日目の夜は川原で迎えました。昼間は気がつきませんでしたが、夜になると、あちこちで死体を焼く火が見えました。恐ろしい、淋しい、悲しい、といった気持ちはもちろんあったと思いますが、はっきり記憶していません。ただあの光景だけは今も思い出します。今考えてみると、あのような恐ろしいことによく気も狂わないで、平気?で耐えられたことだと思います。

 次の日もほぼ同じ状態で過しました。

 4日目になって、いつまでもこうして手当もせず苦しむ母を、このままにしておくわけにはいかないので、兄がどこからか大八車を借りて来て、それに母を乗せ横川まで行きました。途中は今のように舗装などされていない石ころの多い田舎道でしたから、振動が激しく、重症の身にはひどくこたえたらしく、泣き言を言わない母なのに、苦しい苦しいと申しました。横川で大八車からおろし、焼け残った鉄筋の建物の陰で休んでいますと、どなたかが簡単な治療をしてくださいました。母は苦しい息の下から、

「こんな治療をしていただいたのは今がはじめてです」

とお礼を申しました。

 それから、私達の学区の避難所となっていた古市国民学校(今の小学校)の近くまで、トラックで運ばれました。どんなに重症でも目的地まで連れて行ってはいただけず、トラックから降ろされて、避難所へ行く手段を考えていると、近くにおられた方が母をごらんになって、これではとても助からない、避難所は今満員で静かには休めないから、今のうちに、病人が一番行きたい親戚へ連れて行ってあげなさいと、すすめてくださいました。

 当時母の両親は健在で、豊田郡に疎開しておりました。でも兄も私もそこへは一度も行ったことがなく、古市からそちらへ行く道順は見当もつきません。それにトラック便も直通はとても望めませんし、かなりの道のりだということは判っておりましたので、ひとまず避難所へ行きました。どのようにして行ったのか、これも覚えていません。こうして書いてみますと、よく覚えているつもりでも、細かいところはほとんど忘れているのに驚きます。

 やっと野宿から逃れ、教室の床の上に母をねかせ、少しは涼しくなりましたが、大勢の避難者でごった返し、やかましさと遠路はるばる来た疲れで、母はいろいろ苦痛を訴えるようになりました。もし私がこれほど重い病人で、母が看護する立場であれば、母はどんな犠牲を払っても私の望むように、一番よい環境にと心を配ってくれたでしょうに、私と言ったら、どうすることもできない状態だったとはいえ、このようなところにまたまた2晩も過すことになったのです。

この日、近所のラジオがソ連の参戦を伝えておりました。大変なことになったと思いましたが、母にはもちろん話しませんでした。隣に住んでおられたおじさんとおばさんにお会いしましたが、5才の可愛い坊やを亡くされていました。

 野宿から開放されて少し元気づいたのか、母は食物をほしがるようになりましたが、病人食の炊き出しなどありません。近くの農家へトマトでも分けていただきたいとお願いに歩き廻りましたが、断られすごすごと歩いていた時、偶然私の友達のお母さんを見かけました。

 その友達とは国民学校の同じクラスで、家も近く、よく遊んでいました。戦争がひどくなって、彼女の一家は古市へ疎開して、第二県女に通っていましたが、他の中学生、女学生と同様、建物疎開の後片付け作業中に被爆して、もう亡くなっていました。その弟さんも中学1年生で同じようにして亡くなっておられました。私が母のことを話しますと、おばさんはすぐに食べ物を作ってくださいましたが、母の口に合わず、何もかも不自由な時代ですからそうたびたびはお願いもできなくて、つらい思いをしました。

 私は避難所で大豆入り御飯のおにぎりを頂き、こんなにおいしいものは生まれてはじめてだと思って頂いたのを覚えています。それで気がついてみると、被爆以来何をたべていたのか、いなかったのか、これまた全く記憶になく、ただ古市で頂いたおにぎりのおいしかったことだけははっきりと覚えています。

兄は母を休ませていただけそうな心当りを探して、歩いていたのでしょう。母のそばにはいつも私ひとりでした。どこのお宅でもそれぞれ大変で、トマト一つでも頂けたら、大喜びで母に食ベさせました。

 ここでも負傷者が多く、医薬品も医師もなく、手当ては受けられないし、騒々しさに母が耐えられなくなって、何とかしなければということになり、少し遠いけれど、高田郡吉田町(安芸高田市の南)の父方の伯母を頼って行くことにしました。

母は豊田郡の祖父母の家へ行きたいと申しました。私達の看護が頼りなかったのでしょう。親ならどんなことでもして助けてくださると申しましたが、吉田町なら古市から直通で行けること、家が道路に面していることなどを理由に、それに伯母は大層やさしい親切な人でしたから、行けるかどうか判らない豊田郡に向って発つよりも、その方がよいと思ったので、母の最後の願いを退けてしまったのです。

何ということをしたのでしょう。祖父母の家へ、どんな困難があっても連れて行ってあげればよかった、たとえ途中で亡くなってしまったとしてもその方がよかったと、30余年過ぎた今も悔やまれます。誠が足りなかったのです。その頃、祖母も私達親子の安否を気遣ってじっとしていられず、遠いところを歩いて、あちこち消息を尋ねて廻ったのだそうです。

母はトラックに乗せられました。そして可部(かべ)まで行って、また降ろされました。もう夕方でした。可部から吉田町方面へ行くトラックが何台かありましたが、重傷者は乗せていただけず、ひとり歩きできる方が鈴なりのように乗って行かれました。私達3人はそれを見送り、途方にくれていました。

母はかなり弱って来ました。伯母の家に着けば涼しく静かに養生できるからと励まし、その夜は国道沿いのお家の軒下で休ませていただくことにしましたが、親切にも一部屋貸して下さり、母にも重湯と梅干しを、私達にも食事を下さいました。被爆後はじめて畳の上で静かな一夜を過させていただき、疲労で私はすぐ眠りかけてしまいます。兄に起こされてはまた眠るという状態でしたが、この夜は母に変ったこともなく過ぎました。

 私はずっと母のそばについていましたし、己斐から中広町まで焼け跡の屍の中を歩いて帰り、鼻がマヒしていたのか全く気がつきませんでしたが、母は大変臭く、家の外からでも何とも言えないいやな匂いがしたそうです。これは大分あとから伯母の家で聞きましたが、こんな病人を一夜預ってくださり、心のこもった食事まで与えてくださいましたお宅のお名前さえ忘れてしまい、これも申訳ないことと、今もくやまれることです。旧国道をバスが通っていた頃は、可部の町をバスで通る時、いつも思い出し心の中でお礼を申していました。

 こうして親切なお宅でお世話になり、明けて8月12日、吉田町へ行くトラックに乗ったのは何時だったでしょうか。もう日も高く、相変らず暑い日がギラギラと照りつけていました。日傘などある筈もなく、手拭を母の顔の上にかざし、兄がどこでみつけたのか、アイスキャンデー(といっても当時は甘いものはなく、氷みたいなものでしたが)を買って来て、それを母の口に含ませながら、またガタガタゆられて行きました。それまで、生きたい一心で飲み水も我慢していた母にとって、この氷は生まれてはじめてで最後の美味となりました。

「こんなおいしいものはたべたことがない」

と言って喜びました。

「これでもう少し頑張ってね」

と励まし、祈りながら長い旅をつづけました。

暑さと振動で母はすっかり弱り、それきりロをきかなくなりました。長持ちさせようとタオルに包んでいた氷が解けてなくなった頃には、もう意識がなくなってしまい、やっと目的地につきました。それでもまだ私は母が亡くなるとは思わず、伯母の手厚い看護でよくなると信じていましたが、着いて間もなく、戦地にいる父と兄が帰って来たとうわ言を申し、その夜遂に息絶えてしまいました。

被爆して1週間、ほとんどの人がそうだったと思いますが、手当らしい手当も受けられず、野外での暑さ、渇きと飢え、移動の度毎の振動、騒音など、重態の身で間断ない拷問に苦しめられたようなものでした。なぜもっと力をつくして看病してあげなかったのだろう。私はこんなにも真心のない人間だったのか、ああもすればよかった、こうもすればよかったと、今にして思いますが、何もかも母に頼り、一人では何をする知恵もなかったのが残念です。ただ兄がいてくれて本当によかったと思います。

兄は満20才になっていましたから、本当は兵隊にとられているところなのですが、数学の勉強をしていまして、その当時は理科系の学生は兵役を猶予されていたので、兵隊に行かずにすんだのです。母はこのことをとても喜んでおりましたが、図らずも、母の最期を兄が看取ることになりました。末期の水ともなったあの氷を見つけて来たのは兄で、母が満足してくれたことが唯一の慰めです。

 伯母の家に着いて数時間で亡くなりましたのに、母の寝床はもちろん、畳まで腐ったそうです。母の葬式が終ってまだ放心状態でいた15日に、終戦となりました。

 親と家を一度に失った兄と私は、しばらく高田郡向原町(安芸高田市)の父の生家に身を寄せていましたが、居心地は非常に悪くつらく、9月半ば頃二人で大八車を曳いて、昼の暑さを避け、夕方に出発して広島に出ました。私は車に乗せてもらいましたが、兄はずっと50キロメートルくらい歩き通して、東洋工業に残してあった持物や、壕に入れてあった荷物、緑井に疎開してあった荷物の一部を積んで、また今の54号線沿いに吉田町へ向いました。

向原を出てなぜ吉田町へ帰ろうとしたのか、やはりやさしい伯母が恋しかったのだろうと思います。緑井を出たところから私は体の調子が悪くなり、可部の奥でとうとう歩けなくなりました。もう日もとっぷり暮れていましたので、またまた近くの知らないお宅の縁側で一夜を休ませていただき、翌朝大八車に積んであった荷物をそのお宅に預け、代りに私を乗せて兄が歩いていますと、通りかかられた方が、

「今この村に、東京からえらい先生が原爆症調査のために来ていらっしゃるから、診察していただいては」

と教えてくださいました。たぶん、この先生は東大の都築博士だったと思います。

道路端の大八車の上で、私は診察を受けました。その時には、おなか一面にブツブツが出ていて、先生は一目ごらんになって、

「これは原爆の放射能によるもので、これを治せる医師はいない。手のほどこしようがない。せいぜい有色野菜でもとるように」

とおっしゃいました。兄は、

「兄さんを一人ぼっちにしないでくれ。死ぬな、死ぬな」

と言って、その場でおいおい泣きました。

考えてみると、ずいぶん乱暴な話です。14才の患者に向かって死の宣告をなさるのですから。この時の気持ちは、はっきり覚えています。不思議なことに、何も感じませんでした。死が怖いとも、もっと生きたいとも、死ねば母のところへ行けるとも考えず、冷静そのものでした。ただ兄が泣くのが可哀想でした。伯母の家へ着くと、今にも死にそうな私を見て、伯父が

「なぜ向原へ行かないでこちらへ来たのか、またここで死なれては大変」

と祖母の疎開先へ連絡して、祖母が迎えに来ました。交通機関も今のようには発達していない時でしたから、20数キロ歩いて。そして追出されるようにして、お腹がばんばんにはれ下痢のつづく身で、折からの秋霜の中を20数キロ歩きました。途中何度も農家のトイレを借りなければなりませんでした。

 日が暮れて三次(みよし)近くの祖母の生家にたどり着いた時は、死人のようだったと、あとで聞きました。それがなぜか、奇跡的に命長らえて、その後は大病もせず、母が亡くなった年をとっくに過ぎてしまいました。こうして生き延びはしましたものの、戦後の食糧をはじめ何もかも不足で、インフレ時代の生活の苦しさ、親のない悲しさは、筆舌に尽くしがたいものがありますが、私よりもっと幼くて天涯孤独の身となられた方も数え切れないほどいらっしゃることを思えば、私などまだまだ幸せな方だと思います。

 忘れていることが多く、詳しく書けませんでした。その上乱文で理解していただきにくかったと思いますが、拙い句をしるさせていただいて、私のささやかな体験記を終りたいと思います。

 父母の忌もこの月に原爆忌

母に遅れること5日、8月17日に父もフィリピンでマラリヤにかかり、医薬品も食糧もなく、悲惨な最期をとげていました。そうとも知らず、原爆症から回復した私は三次の女学校へ汽車通学していましたが、毎朝列車が着くと、われ先に乗ることはせず、この列車で父が帰って采はしまいかと、下りる人の顔を全部たしかめてから乗車したものでした。半年くらいこうして父の帰りを待ちました。

 一杯の水咽通る原爆忌

「水ヲ下サイ」と言って亡くなられた人びとのことを思うと、8月6日にはコップ一杯の水がのどにしみます。この日は一日だけ、水を我慢してみようとしたこともありましたが、耐えられませんでした。

 この川にボート漕ぐまじ原爆忌

相生橋の近くにはボートが沢山浮んでいますが、水を求め、また熱さを逃れて川に下りた人達が、次つぎと折り重なるようにして死んで行かれたあの川で、私はボートを漕いで遊ぶ気にはなれないのです。

                           皆実有朋同窓会生の記録より

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