わが人生の歩み(24)》

 

  男子一生の仕事 

 

 S高校での多忙を極めた図書館の係は、二年で交代した。次に与えられた校務分掌は、新しく入学した学年のクラス担任であった。この学年は、三カ年を持ち上がり、無事卒業させている。その頃の学園は、とくに目立った変化もなく、平凡に過ぎていった。

 

その間に、わたしの個人的生活には、忘れられない出来事が二つ起きている。一つは、現在の名東区宝が丘の地に、家を建てたことである。

土地は、その数年前、地元の土地整理組合の売り出した造成地を運良く落札したものだが、それについてはちょっとしたドラマがあった。

ある日、妻が同じ団地に住む知人のSさんから、藤が丘にある土地整理組合が保留地を売り出すというニュースを聞いてきた。そして一緒にいかないかと、誘われたという。

「なんでも、昼食にいなり寿司を出すというから、あなたも行ってみない?」

寿司に惹かれたわけでもないが、わたしは妻を同伴し、Sさん夫妻と一緒にその入札会に出かけた。

会場は寺院の一室であった。教室ぐらいの広さの部屋は、土地目当てのブローカーや個人の客でごった返していた。

坪単価の最低落札価格が一〇万円から二〇万円もする物件のなかで、一つだけ一〇万円以下の安いのがあった。どうせ落札できるはずもないと思い、最低値を書いて入札すると、ほかに、誰も入札した者がなく、何と、当たってしまったのである。一〇〇坪の土地だから、計ウン百万円である。当時の月給は約十二万円、とても手の出る品物ではなく、一時はやむなく放棄しようと思った。

ところが一方、Sさんは別の区画を入札して失敗していたので、どちらからともなく、わたしの落札した百坪の土地を折半してはどうかということで話がまとまり、購入することに決めた。半分にしても五〇坪、ウン百万円である。貯金をかき集め、残りは共済組合から借金をして、ようやく手に入れた。

新築家屋は、そのころ起きた福井大地震でも唯一倒れなかったという宣伝に乗せられて、鉄筋のプレス・コンクリートを選んだ。むろん、伊勢湾台風で木造建築の恐ろしさを体験していたせいもあった。土地購入で貯金は底をついており、資金はすべて共済組合からの借金であった。

昭和四十七年秋ごろに着工し、四十八年の夏休みに完成、入居した。私製の年表を見ると、途中にオイルショックが始まり、建築材料の不足から、完成が予定以上に伸びている。それにしても、幸運だった。契約がもう半年遅かったら、資材はもっと値上がりしていたであろう。

この地に、終の棲家を定めたのかと、いささか感慨に耽ったことを憶えている。独身の頃は、家を建てるなどとは思ってもみなかったことだけに、われとわが心変わりに驚くとともに、家族を持つ意味の重大さをあらためて思い知った。

 

二つ目の出来事は、四十九年の夏、意志薄弱のわが身にとってまさに金字塔とでも称すべき、禁煙に成功したことである。

わたしの喫煙歴は専門学校時代にさかのぼる。中学時代の悪友にそそのかされたのが始まりで、以来二十数年一日も欠かしたことがなく、それも年々量が増え続け、その頃は一日に二〇本入りを一箱半ぐらい吸っていた。歯は脂(やに)で赤黒くなり、年中咳をしていた。

授業の合間の放課時間は、大半がタバコを吸うことに費やされた。

「これでは、タバコを吸うために授業をしているようなものだナ」

同僚と、よく冗談を言ったものである。

 家では、妻の小言が耳に痛かった。

「あなただけでないのよ。副流煙で、私や子供たちも被害者よ」

 わたし自身、何度止めようと思ったかもしれなかったが、優柔不断の身はタバコの魔力にがんじがらめにされていた。

 そんなある日、同僚たちと飲み会があって、二次会、三次会と深酒をした。帰宅して就寝したまではよかったが、夜半、気持ちが悪くなって、嘔吐した。便器が真っ赤な血で染まった。

 翌朝、近くの丸茂病院に入院した。急性胃潰瘍だという。三日の間、飲まず食わずで、点滴だけの生活であった。後日、妻の語るところによれば、わたしは毎日タバコをせがんだらしいが、妻は頑として断り続けたという。

 四日目の朝、退院した。病室を出て歩きはじめると、体に力が入らなくて、なんとなく胸のあたりがおかしいのだ。初めは絶食のせいかと思ったが、そうではなく、三日の絶煙で肺がストライキを起こしているのだと知った。

家に帰ってからが大変だった。タバコへの肺の渇望はさらに大きくなり、居たたまれないほどの胸苦しさが全身を駆けめぐった。だが、わたしの心には新しい意志が生まれていた

〈病気のせいとはいえ、今まで不可能と思っていた禁煙が、三日もできたんだ! せっかくの成功だ。負けてたまるか。もう少し我慢して、肺の苦しみがどんなものなのか、一緒に味わってやろう〉

 そんな決意で、わたしは静かに肺の発する苦悩の声を聞くことにした。荒れ狂った猛獣はわたしの気持ちを察してくれたのか、日を追うごとにおとなしくなっていった。こうして、わたしはヘビー・スモーキングという二十数年の宿痾(しゅくあ)を克服した。

 人はよく、家を建てることは〈男子一生の仕事〉だという。だが、わたしにとって、禁煙はそれに劣らず、大事業であった。この時期、わたしは男子一生の仕事を二つ成し遂げたと思っている。齢(よわい)四十三歳から四十四歳にかけての頃である。

                          (平成二十四年十一月作品)

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