《わが人生の歩み(21)》

  動乱の幕開け

昭和四十年、C高校は創立三年目の完成年度を迎え、教職員数約六十人、生徒数約千四百人を擁する普通高校としての体裁を完備した。

教師の多くは、日常の仕事に追われていたし、生徒たちも授業やクラブ活動に余念がなかった。そんなとき、学園の平和に一石を投じる事件が持ち上がったのだ。

それは、夏休み明けの或るアッセンブリー(朝会)の時間であった。校長の挨拶や生徒課主任の訓示が終わって、解散が告げられたとき、いつもは生徒たちがぞろぞろと教室へ向かうはずであった。ところがその朝は、三年生の全員がその場に座り込んで動こうとしない。どうしたのかと不審に思っていると、生徒会長のFが突然立ち上がって演説を始めた。何やら怒っている様子である。そのうち仔細が呑みこめた。生徒課の教員が体育館の入り口に乱雑に置かれた生徒のスリッパを回収し、捨ててしまったという

「下駄箱に入れなかったのは、たしかにわれわれが悪いかもしれない。だからといって、生徒の私物のスリッパを捨ててもいいンですか!」

Fが絶叫すると、何人かの拍手があった。生徒課の厳しい指導方針に反発しての、彼らにとって精いっぱいの実力行使だった。

教師たちの説得によって、間もなく生徒たちは教室にもどり、その場はおさまったが、授業後が大変だった。関係職員による指導委員会が開かれ、Fの処置をめぐって遅くまで議論がつづいた。同席したT校長は厳罰を望んだが、わたしをふくめて若い先生たちは、座り込みの非はそれとして認めるにしても、教師側の指導にも問題が無いとはいえないとして、校長訓戒ですますよう強く主張した。だが、衆寡敵せず、けっきょくそれより重い出校停止処分(たぶん三日)に決まった。

おとなしく管理されていた生徒にもこんな元気があったのかと、わたしはあらためて彼らの若いエネルギーを見なおしたことを思い出す。

あたかも時を同じくして、それまで水面下で行われていた組合結成の動きが表面化してきた。前任校で組合執行委員を務めた身でもあり、比較的若い教員が多いということもあって、気づいてみればわたしは結成の中心人物に祭り上げられていた。

そしてその年の十月、県の高等学校教職員組合に、C高校分会として正式加入した。分会長に生徒課主任のSさん、副分会長にわたしが選出された。管理職を除いてほとんど全員が組合員となった。T校長のワンマン経営への反発が、下地にあったものと思われる。

明けて四十一年、教育界は動乱の時代を迎えようとしていた。すでに数年前から他府県では授業カットにまで発展していた人事院勧告完全実施要求闘争は、保守王国のこの県にもその余波がおよび始めていたのである。

ところで、昭和四十一年には、教育界の動静とはちょくせつ関係はないが、大きな航空機事故が連続して起きている。試しに年表を繰ってみると、二月には全日空機が羽田沖で墜落、百三十三人が死亡。その悪夢も醒めやらぬ三月、カナダ太平洋航空機が羽田空港で着陸に失敗、六十四人が死亡。翌日、英国航空機が富士山上空で空中分解、百二十四人が死亡。さらに十一月には、全日空YS11機が松山空港手前で墜落、五十人が死亡とある。

事故は続いて起きるものとはいえ、これほど立て続けに起きると、何か天変地異の前兆のような不気味さを感じないわけにはいかなかった。

この呪われた航空機事故の年、それまで平穏を保っていたわが高教組も、日教組が全国的に展開していた人勧完全実施要求運動にようやく歩調をそろえ、県下初めての実力行使に踏みきろうとする動きが高まっていた。

翌昭和四十二年、本部は授業カットの方針を下部組織の各高校に打診してきた。それは、結成間もないわがC高校分会にもおろされてきた。実力行使をするかしないかで、何度も会議を重ねたが、挙句の果てに分会は、参加する者としない者との真っ二つに割れた。ついには脱退者まで現れるという、最悪の事態に立ちいたった。スト反対のSさんは分会長を辞し、わたしが分会長に格上げされてしまった。

巷はもちろん、わが高教組のなかにも、教師が法律を破るのは許せないという意見と、教師にも生活を守る権利はあるとする意見が真っ向から対立し、教育闘争はもはや政治闘争にまで発展していた。

そんなある日、暗くなってから校門を出ると、一台の自家用車が後ろから近づいてきて、わたしの前で停まった。手招きされて中に入ると、二人の主任教師がいた。二人とも、今度の騒ぎがもとで、脱退した元組合員だった。一人は運転席に、一人は後部座席にいる。わたしはその横に座った。

「いよいよストに参加するようですね。でも、そんなことをしたら、経歴に傷がつきますよ。あなたには次期主任として、校長さんも目をかけていますから。いい加減に、若い連中と縁を切ってはどうですか―」

そんな話が、停車したままの車のなかで、延々とつづいた。

だが、わたしの決意は変わらなかった。わたし自身、授業カットには全面的に賛成したわけではなかったが、いまや分会長を引き受けた身である。血気にはやる若い組合員たちの、処分を覚悟のうえの心意気を知っていたからには、もはや乗りかかった船、いまさら降りるわけにはいかなかったのだ。

その年の十月の早朝、わがC高校分会はすでに紅葉のはじまっていた近隣の公園に集合し、授業時間に一時間食いこむ職場大会を開いた。参加した者は十数名、C高校組合員の三分の一にも満たない少数派であった。

だが、参加者のだれにも悲壮感はなかった。全国の民主化運動の大きなうねりのなかに身を投じたことに、むしろ誇らしさを感じていた。

そして、年の暮れも押し迫った十二月二十三日、予期したとおり、実力行使した組合員の全員に、訓告という懲戒処分が下された。わたしには、後悔はなかった―。     (平成二十二年十二月)

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