わが人生の歩み(23)》

 S高校へ転任

昭和四十六年、私は名古屋市内の伝統校であるS高校へ転任した。そこは名古屋市の南部に位置する伝統校で、その年はちょうど創立三十周年に当たっていた。

新しく割り当てられた校務分掌は、生活指導部であった。本館は古い木造校舎で、その一階に生活指導部の部屋があった。いかにも年代を感じさせる薄暗くて狭い部屋に、わたしは四人の同僚たちと共に配属された。

分掌主任のKさんは私より四歳年上で、穏やかな人柄の数学教師であった。指導部室には場違いのソファーが設えられていて、そこで教師たちは喫煙したり談笑したりして休憩時間を消化していた。放課後には、生徒たちがやってきて教師と話し合う風景もよく見られた。

安保闘争の余波も収まり、とくに問題を起こす生徒もなかったが、生活指導の教師としてはクラブ活動の事故や突発的問題行動に備えて、授業後も遅くまで居残るのが常であった。そんなとき、わたしは主任のKさんと、よく碁盤を囲んだものであった。

さすが伝統校だけあって、校内には新設校のような緊張感はなく、全体に何となくのんびりとした空気が漂っており、生徒も大人しく、人懐っこい態度が肌で感じられた。それもそのはず、初代校長のE先生は人格・学識ともに優れた人情校長として知られ、創立の校訓〈愛・敬・信〉の精神は校内にあまねく満ち溢れていたのである。

いま思い出しても、S校での最初の一年は、なんの屈託もない日々の連続であった。そんな穏やかな日常を象徴するような出来事がひとつあった。

たまたま指導部室でわたしと机を並べていた同僚に、N大学の理学部出の若い教師がいた。いかにも理論物理学の専攻者らしく、現実より理想を、行動より思索を好む学者肌の青年であった。その彼が いつの間にか東京の有名女子大出身の英語教師と意気投合したらしく、ある日わたしに「彼女と結婚したいが」と、相談を持ちかけてきた。

「いい娘さんだよ。頭もいいし、気立てもいい。ボクだって惚れたいぐらいだ」


わたしのその一言が決め手になったのかもしれないが、彼は結婚を決意し、わたしに縁結びの役を依頼してきた。校長さんに頼んだらと断ったが、どうしても頼むという。こうして若輩ながら初めての仲人を引き受け、翌年の三月に彼らは結婚した。

ところが翌四十七年になると、それまでのいわば春風駘蕩たる生活は一変した。新年度の四月に校内の人事異動があり、まるで降ってわいたように、わたしは図書館主任の役をもらった。図書館主任というと、普通は一般に閑職とみなされているが、その年はそうではなく、大きな課題を抱えていた。

というのは、わたしが赴任する以前から、建築が行われていた新校舎がいよいよ完成し、図書館は今までの木造の部屋から、新しい校舎の四階に設置された部屋に引っ越さなければならないのである。そしてその大変な作業は、夏休みの中旬にある出校日を利用して行われることになっており、それまでに準備作業を万端終えなければならなかったのだ。

夏休みきても、司書教諭を含めて四人の図書部の職員には休みがなかった。毎日出校し、生徒図書委員といっしょに、何冊かの図書を紐で括って持ち運びやすいような束にする作業に没頭した。

「どうしてわれわれだけこんな仕事をしなければならないのですかねー」

「そうですねー。こんなこと、みんなでやる仕事ですよね」

年配の社会科教師とわたしは、流れる汗を手でぬぐいながら、不平を愚痴っていた。たしかに、これは図書館の仕事ではある。だが、図書館の移転作業となれば全校的な行事のはずであるから、ほかの教員も手伝ってくれるような手はずを事前に作っておくべきだったのだ。しかし、新米主任の悲しさ、そこまで知恵が回らなかったことを嘆いたが、すべては後の祭りであった。

夏休みの出校日は、例年のように八月十六日であった。朝から生徒全員が旧図書館に集められ、各自が十冊ほどの本の束を抱え、延々と蟻の行列のように新館の四階まで移動した。作業は、午前中いっぱいかかって終了した。

それから後の整理作業が大変だった。一冊一冊分類しながら、所定の棚に並べなければならない。この作業が夏休みの後半ずっと続き、気がつくともう二学期が始まろうとしていたのである。       (平成二十四年三月

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