ブラックボードの後ろ
四月は、テレビの番組が改編される月である。あまりテレビを見ないわたしも、年度初めには期待を込めて新聞のテレビ欄を探す。
そんな中で、たまたま目にとまった番組があった。「ブラックボード
―時代と戦った教師たち― 」である。TBS制作のこのドラマは、オムニバス形式のシリーズ。題名に惹かれて、その夜から続けて三夜見ることになった。
三編は、それぞれ主人公も時代背景も異なっていたが、そこには共通するモチーフがあった。それが「ブラックボード」、そのままタイトルになっている。毎回、それぞれの教師が思いを込めて、黒板にメッセージを板書するのだ。初回が「未来」、次が「生きろ」、最終回が「夢」であった。
そして毎回、わたしは画面に引きこまれた。とくに教師と生徒の葛藤の場面では、年甲斐もなく胸を熱くした。むろん、劇中の人物に激しく感情移入したこともあったが、それよりも彼らの中にわたしは自分自身の姿を見ていたからである。
第一夜の櫻井翔演じる青年教師は、中学生の前で絶叫する。
「この戦争はかならず勝つ! 勝つ以外に日本の未来はない!」
その言葉に応えて銃を執った中学生たち。しかし、必勝を信じた戦争は負けた!。屈辱と痛恨が激しい怒りとなって、教師に向けられていったのは当然であった。
ドラマは教え子を戦場に送り、死なせた教師の苦しみを中心に展開していた。だが、わたしの心情が結んだ先の焦点は、教師ではなく中学生たちであった。教師を信じ、裏切られた中学生は、あの頃のわたし自身だった。わたしは彼らであり、彼らはわたしだったのだ。
見入りながら、わたしは自分の中学生時代を思い出していた―。そこには、前言をひるがえし、恥じることのない教師たちがいた。それは、その後わたしを襲った人間不信と虚無主義の原点であった。
成長期に時代の影響をもろに受け、その人間不信から脱却するのに悪戦苦闘したのはわたしひとりではない。身を持ち崩し、脱落していった友人も何人かいた。「時代と戦った」のは教師ばかりではなかった。むしろわれわれ生徒が、その主役ではなかったか。
第二夜では、校内暴力の吹きすさぶ教室に、佐藤浩市演じる中年教師がいた。時代は高度成長期の八十年代、バブル経済は爛熟期に入ろうとしていた。世の中の全体が、豊かさを求めて狂奔、それに呼応するかのごとく教室も荒れに荒れた。手こずったその教師は、力に対するに力をもってし、ついに暴力教師の汚名を着ることになる。しかし、悪評何するものぞとばかり、彼は自分の信念を貫き通すのであった。
第二夜の中年教師に対しては、わたしは前夜の青年教師に対するのと違って、全面的な共感を覚えていた。それはたぶん、わたしがニヒリズムを克服し、教育活動に専念するようになった年代が、その中年教師の年代と重なり合っていたからであろう。わたしは彼の真摯な姿に自分自身を投影し、彼を取りまく厳しい環境の中で、喜怒哀楽をともにしていた。
ちょうどドラマの背景と同じ頃、わたしの勤めていた学校でも、七十年安保闘争が収束し、無力感から退廃ムードが広がっていた一方で、若者たちの抑圧されたエネルギーは、出口を求めて暴力的傾向を帯びはじめていた。集団の場では、紙飛行機の飛び交う情景が見られたし、わたし自身、生徒たちの座り込みや授業放棄に遭遇したこともあった。身体を張って生徒の行動を阻止したり、たしなめたりしなければならない状況があった。
反抗的になる生徒を指導するのは、容易なことではないことを実地の体験で知ったのもその頃であった。それは魂と魂の格闘であり、ある場合には力と力の対決であった。まさにそれは戦いである。だが、教師の戦いの相手は、実は生徒ではない。生徒は時代によってつくられ、時代の犠牲者である。彼らの背後には時代がある。その意味で、ささやかながらわたしも「時代と戦った」と思っている。
第三夜は、松下奈緒の演じる若き女教師の奮闘記であった。
冒頭、英語教師の彼女は、黒板に「MY DREAM」(「わたしの夢」)と書いている。だが、だれ一人として彼女の話を聞く者はいない。そこには、現在、多かれ少なかれ見られる学級崩壊の原風景があった。そして、彼女の闘いがはじまるー。
教師の話を聞かない生徒たち、そんな現実を経験しない教師は、わたしの教職歴の中にはいなかった。とくにそれは、バブル崩壊以後にいっそう激しさを増してきたように思う。教師は、何とかして彼らを自分の話の中に引き入れようとする。手を変え、品を変え、四苦八苦する。そこに、教師の腕の見せ所があるが、しかし悲しいかな、教師は限界の壁に突きあたる。教師の力を超えた時代という大きな壁に―。教師が無力感に襲われるのは、そんなときである―。女教師の苦悩にゆがんだ顔を見詰めながら、わたしはそんな考えにとらわれていた。
その夜、夢を見た。教壇で話していると、生徒たちの私語が聞こえる。それはだんだん大きくなる。こちらも負けじと、声を張り上げる。だが、それをかき消すような生徒の話し声―。堪忍袋の緒が切れ、怒鳴ろうとしたが声が出ない、思いっきり力んだ途端に、目が覚めた。寝汗がびっしょり、背中を覆っていた。
三夜を見終わった今、わたしは考えている。人間は時代の中に生まれ、そこに生き、そして死んでいく。人間は時代と不可分の関係にある。だからこそ時代が見えないし、意識できない。ちょうど空気が見えないし、意識できないのと同じようにー。しかし、あらゆる人間の営みの背後に、実は時代があるのだ。このドラマは、教師が背にするブラックボードの後ろにも、厳として時代が存在することをあらためて気づかせてくれたと思う。 (平成二十四年五月)
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