《わが人生の歩み(22)》

   70安保闘争のころ

 昭和43年、C高校を創設したT校長が退職し、それまでの新設校特有の校風は次第に風化しはじめた。それまで禁止されていた長髪を認めるなど、服装や遅刻にかんする厳しい規定などは大幅に変更されたし、また教職員の勤務体制も自由度が増していった。

それとともに、学校内での組合活動も公然と行われるようになった。時あたかも、1970年(昭和45年)の安保条約改定の年を間近に控え、世の中は騒然としていた。県高教組も闘争目標に安保条約破棄や沖縄返還闘争を掲げ、街頭デモをひんぱんに繰りかえしていた。運動の輪は全国に広がり、街頭には一般の主婦や高校生の姿も見られた。とくに、全学連の指導するデモは過激さを増し、しばしば警備の警官と衝突した。

昭和44年8月、本山事件が起きたのは、そのような状況の中であった。名古屋市の本山派出署が過激派によって襲撃され、火炎瓶がなげこまれたのである。逮捕されたデモ隊の中に、こともあろうにわたしの担任クラスの生徒が二人いた。さいわい実行犯ではないということで、大ごとにはならなかったが、C校を含めて県教育界に与えた衝撃は大きかった。

そしてその年から2年がかりで、C校は県から研究指定校の委嘱を受け、その研究実践に全校的に取り組むことになっていたが、その事件の影響でテーマは急遽「高校生の政治活動とその指導について」に変更された。わたしは当該生徒のクラス担任でもあり、また生徒指導部にも所属するということもあって、その推進ティームの書記として研究をまとめることになった。

しかし、45年、世をあげての抗議にもかかわらず、安全保障条約の自動延長が決まるや、革新政党も選挙で大敗するなどもあって、あの運動のエネルギーはどこへ行ったのかと疑わせるほど、反対運動は一挙に沈静化していった。

その空気は教育の現場にも反映し、わがC高校でも指定校としての研究が終わる45年には、それまで生徒の暴走気味の政治活動をいかに正しい方向に伸ばすかに腐心していた教師集団は、彼らの中に新しく漂い始めた意欲の喪失や退廃ムードに直面することになり、今度はいかにして彼らの社会的関心を刺激し、民主的生活態度の確立を図るかという、前年度とは正反対の主題に取りくまざるを得なくなっていた。

しかし一方、県高教組は実力行使の体制を固め、はじめて日教組統一行動に参加した42年以来、毎年、授業時間に一時間食いこむ時限ストを行っていた。

C校では、わたしを含め三分の一の組合員がそれに参加し、スト派と非スト派はハッキリと色分けされるようになった。他校ではしばしば両派が対立したり、分裂したりする現象が生まれ、ついに教育正常化の名のもとに第二組合の結成にまで発展したが、C校ではそのような動きはなく、両派とも一つの組合にまとまっていたのは、分会長の役を引き受けていたわたしには有難かった。

教育実践と組合活動という、そんな慌ただしい現場の雰囲気のなかで、わたしは自分の専門教科の力が衰えていくのではないかという心配にも悩まされていた。なんとかそれを防ぎたい、そんな思いからわたしは、その頃、教育活動とはちょくせつ関係のない仕事を二つ行なっている。ひとつは、英語論文「エドガー・アラン・ポオの背景」を書き上げたことで、これは大修館発行の「英語教育」(昭和4410月号)に採用され、紙面を飾った(原題・The Background of Edgar Allan Poe)。もうひとつは、当時、名古屋にあった通信教育の教材を出版しているR社に頼まれて、「英文解釈演習」と「英文法・英作文」という、2冊のテキストを出版した。

原稿を書きなながら、わたしはこんな大事な状況の中で、こんな個人的なことに時間を費やしていいかという、後ろめたさのようなものを感じていた。さらに、報酬としてわずかながらも原稿料をもらったことが、一層そんな気持ちに拍車をかけたことを思い出す。

個人的といえば、その頃のわたしの家庭生活にも、さまざまな変化があった―。

次男を出産(『なごやか69号』「わが人生の歩み」(19)に記載)してから、妻は胆石の持病に苦しむようになり、ひどいときは夜中に何度も発作を繰りかえした。けっきょく除去手術を受けることになって、昭和40年の秋、彼女はM大病院分院に約一ヶ月入院した。当時は旧式の開腹手術のため、入院が長引いたのである。

その間、生後1年半の次男と幼稚園の年長組の長男を連れて、わたしは春日井の実家に厄介になることにした。いまは亡き母や兄嫁が親身になって面倒を見てくれた。

手術の日、忘れられないことがあった。付き添ったわたしに、担当医は手のひらに載せた10個ほどの胆石を見せてくれた。こんなに多くの石が、胆のうの中にあったからには、彼女の痛みはさぞ大きかったに違いないと納得したが、さらに、一粒一粒の、およそ一センチ大の胆石は、きれいな緑色をしており、まるで宝石のように輝いていることに驚いた。というより、むしろ人体の不思議に異様な感動を覚えたと言ったほうがいいかも知れない。

「惜しいことをしたわ。記念に、もらっておけばよかったのにー」

思い出すたびに、妻はわたしに言う。

翌41年3月、一家は住みなれた緑区の有松団地から、名東区のH団地に移転している。当時は、地下鉄は東山までしか来ておらず、有松から満員の名鉄電車と地下鉄に、さらに名鉄バスという具合に乗り継いで通勤すると、ゆうに1時間半はかかった。そんな事情から公団に提出していた転居願いが何とか聞き入れられ、H団地に移ることになった。通学時間はいっきょに短縮され、ものの30分もかからなくなった。文字どおり通勤地獄から解放され、天国に住んだ気分であった。

 その翌年、長男は同じ団地内にあって、家から1分とかからない小学校に、ピカピカの1年生として入学している。

そして、44年12月14日、長らく、寝たきりであった父が亡くなった。享年76歳、喜寿を前にしての、さぞ残念な死であったろう。父は1年ほど前から中風の発作で寝つき、たまたま見舞いに訪れたわたしの目の前で亡くなった。その時の様子は、『なごやか』49号の「自分史の入り口に立って」に記した。

昭和46年3月、わたしは転任の辞令をもらい、この思い出深いC高校を去ることになった。こうして、長いようで短い、7年間にわたるC校での生活は終わった。

                      (平成23年7月)

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