《ミニ私小説》

妻の習性に悩む男の手紙 


 人間の性格というものは、生まれつきの遺伝子によって決定される部分と、成育歴や教育のような後天的生活環境によって形成される部分とがあると、よく言われますね。 だが、この考えには、ひとつ大切なことが見過ごされている気が私にはします。それは何かといえば、性格形成はたしかに遺伝と環境が大きく影響しますが、ただそれだけではなく、そこには、環境の中で生きる個人の主体的な意志と努力がそれ以上に大きな働きをするのではないかということなのです。

 いま、私はそのことについて、論文を書こうとしているのではありません。ただ、私の妻がかつての大らかな、ものにこだわらない性格から、現在はあまりにも些細なことにこだわりすぎるほど、慎重な性格に変貌した事実をお伝えし、私の意見が正しいかどうか、貴方の判断を仰ぎたいと思うのです。

この3月の春休みに、次男一家が1年ぶりに里帰りしたときのことです。万博公園に行くというので、門の前に停めた次男の車に一家全員が乗り込みました。そして最後に妻が乗る段にると、彼女は

「ちょっと待ってね」

と言ったまま、閉めた門扉をふたたび開け、急ぎ足で玄関へ行くと、ドアのノブを手にして引っぱりました。

「また始まったね。いつもの癖がー」

という次男の言葉を聞きながら見ていると、妻はノブを何度も手前に引っぱるのですが、当然のことながら、ドアは開きません。カギが万全であることを確かめると、やっと安心して、門の外で待つみんなのところへもどってきました。やれやれと思ったとたん、

「もう一度だけ待ってね」

と言ったと思うと、ふたたび玄関に駆けつけ、なんと今度はカギを開け、中へ入っていったのです。 たぶん、さっき見たはずのガス栓や電気のコンセントなどをもう一度点検しなおしているのでしょう。さすがの次男も

「お母さん、ちょっと変じゃアない。いつもこうなの?」

と、あきれ顔で訊きました。慣れっこになっている私も、言われてみるとあらためてその異常さを思い知らされました。このような行動はその日だけのものではありません。夫婦で外出するときはいつもそうで、それはもう何年も続いている妻の行動パタ―ンなのです。

門前で待たされた腹立ちまぎれに、いつか私は妻に言ったことがあります。

「いい加減にしてくれよ。そんなに気を使っていたら、きみの神経がまいっちゃうよ。いや、もうまいっているんだ―」

すると妻は平然と、

「ほんとねえ、人はほとんどビョ―キだと思うかもね。でも、カギや火の元に手抜かりがあったら大変でしょ。ほら、私、あなたの言っていたうっかり者のO型人間ですからね」

と言うではありませんか。妻の言葉には、思い当たる節があるのです。以前、私が高年大学に通っていたころのことですが、ある講師の話した血液型性格の講義を、妻に語ったことがありました。その時の言葉のやり取りは、次のようでした。

「道に財布が落ちているのを見つけたとき、どうするかという話だがね―。A型人間は拾って交番へ直行する。B型人間はめったにない幸運に感謝する。AB型は周囲の状況判断にしたがうとか。問題はO型だが、どうすると思う?」

「さあ、わからないわ」

「O型人間は、財布が落ちていることにすら気付かないというんだ」

「へー、馬鹿にしてる。わたし、O型だけど、そんなボンヤリじゃあないわ。血液型性格分類って、いい加減なものね」

 妻はにべもなく否定しましたが、内心ではその話がよほどこたえたのかもしれません。そのころまた、身近な親戚のお婆さんがコンロの火を消し忘れて自宅を全焼させた事件もありまして、なにごとにも大雑把な彼女が、電気の消し忘れや、カギのかけ忘れなど、家庭内のこまごまとした事柄に次第に神経質になっていったのです。とくに外出時の気の配りようは異常なほどで、それは先ほど書いたとおりです。

 私は血液型による性格判断を信じるものではないし、かえって偏見を助長するデメリットもあると思うものですが、しかしそこには一定のメリットがあることも認めるにやぶさかではありません。

血液型の本によれば、例えばO型人間は意志が強く、思ったことを行動に移すタイプだなどと書いてありますが、一方では慎重さに欠け、ミスも多いとあります。そんな解説を読めば、それを信じる、信じないにかかわらず、だれもが心配になって、その欠けたる部分を補おうとするのではありませんか。

人間は自分の欠点を矯正しようと努力するがぎりは、たとえ性格の遺伝子が血液型人間学の定義どおりだとしても、形成される性格は必ずしもそのとおりではなく、むしろその別のものに変わるのではないでしょうか。O型人間がA型人間になることもあるし、その反対もあると思います。私は妻を見てそう思わざるをえません。ただ妻の場合のように、あまりに意識的になりすぎると、かえって〈過ぎたるは及ばざるがごとし〉になる危険がありますが―。

いずれにしても、人間の性格というものは杓子定規に決まったものではなく、自由に、しなやかに、変化・成長を遂げることができるものだと思います。

以上が私の考えですが、貴方はいかが思われますか。ご意見をお聞かせ下さい。

                       (平成23年5月)

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