3月11日、わたしは妻といっしょに、まだ雪深い奥飛騨の平湯温泉にいた。
昼食を終え、部屋に入ったとたん、ドーンと地響きがして、木造の部屋がゆれた。時計を見る。2時46分をさしていた。テレビをつけると、ツナミ警報が出ている。今の地震のことにしては早すぎる。
「いつのツナミのことかな?」と疑問をぶつけると、
「何をのんきな―、今の地震でしょ」と返してきた。
妻の言うとおりだった。警報の速さに、驚くしかなかった。予想されるツナミの大きさにも、肝をつぶした。数メートルを超えるという。
午後から夜にかけて、何度も余震が続いたが、この地方はそれほどの揺れもなく、いつもの通り湯に入ったり、食事をしたりしていた。
だが、部屋にもどってテレビをつけると、恐ろしい映像が映しだされていた。巨大ツナミは、万里の長城と呼ばれていた岩手県の防潮堤も乗り越え、まるでナイアガラ瀑布のようなすさまじさで落下したかと思うと、こんどは不気味な生き物さながらに、ゆっくり地面を這いはじめる。さらに悪魔はその舌先をのばし、触れるをさいわい、家や車を片端から呑みこんでいった―。これは特撮やCGではなく、まぎれもなく本物なのだ。妻とわたしは声もなく、その驚愕の惨状を眺めつづけた。
その夜は、余震もあって眠られず、深夜すぎまでテレビにかじりついていた。
翌日、旅行から帰ってみると、名古屋は平穏だし、わが家はいつもと変わらない静かなたたずまいを見せていた。昨日からテレビや新聞の報じてきた世界は、いったい何だったろう。あれは、いわば別次元の世界ではないのか。いや、ひょっとすると、SFでいうパラレル・ワールドや、村上春樹の描いた『1Q84』の世界が現前し、自分はその中に送りこまれたのではなかろうか―、そんな錯覚さえ覚えるほどであった。
夜になると、東京の次男から電話があった。今年の始めから勤務している六本木のビルは大揺れにゆれ、七階にある彼の部屋の棚の書類や本は無残に床に散乱。帰ろうにも電車は不通、嫁に車を頼もうと思ってもケイタイがつながらず、やむなく歩きはじめ、途中でなんとか連絡がついたが、嫁は嫁で連絡を受けた新宿の中学校へ孫を迎えに行っていて、その帰りにようやく次男を拾うことができた。ところがその後がまた渋滞の連続、家に辿りついたのは深夜の午前一時だったという。
ついで長男にも電話すると、彼はたまたま東京への出張帰りに飛行機で神戸空港に降りたとき、そこで少し前に東北と関東で大地震があったと聞いた。もし新幹線を利用していたなら、途中で立ち往生していたかもしれないと思ったという。
わが家族は運よく災難を免れたが、被災した人たちのことを思えば、喜んでばかりはいられない。現地では、家屋のみならず愛する肉親までも失った人たちが悲嘆にくれながらも生き抜こうとしている。日がたつにつれて、死亡者と行方不明者の数は増え、いまでは2万人を超えている。
あれから3週間以上がたつ。ツナミの惨状は目にあまるばかりか、ついで起きた原発事故の被害は長期化し、放射性物質の飛散は依然としてつづいている。学者をはじめ東電や政府関係者も風評被害を気にしてか、控えめの報道をおこなっているが、外国では対岸の火事は大きく見えるのだろうか、シビアな報道が目立つ。
そのせいか、アメリカ在住の従妹の娘ジャンからは、物資と避難場所の提供をメールでオファーしてきた。
「もし危険だったら、アメリカへ逃げてきてください。いつでもお泊めします」とある。そして、日本赤十字社へ寄付金を送るとも、添え書きしてあった。気持ちを感謝し、こちらは心配ないと返事をした。
そんなある日、妻の友人から何人かの手を経て、長文の英文メールが送られてきた。発信元は、仙台で英会話教師をしていて被災したという、外人女性である。
「私はいま、壊れかけた自分の家を出て、友達の家に身を寄せています。供給された水や食べ物や灯油などを分け合って暮らしています。
驚くことに、私の居るところでは略奪はもとより、行列に割り込むような行為もありません。家の玄関のドアは、余震の来たときすぐに避難できるように、夜でも開けたままにしています。怖くありません。〈昔はみんなこういう風だった〉と語りながら、お年寄りは古き良き時代を懐かしんでいるようです。
ここの生活で感銘を受けたものが、もう二つあります。一つは、夜の静けさ。車も走っていないし、人通りもありません。これまで二つぐらいの星しか見えなかった空に、今では満天の星が輝いています。
そしてもう一つは、日本の人たちの暖かさです。電気がもどったので久しぶりにわが家へ帰ってみると、誰が置いてくれたのか、玄関の入り口に食べ物と水があり、感激でした。緑の帽子をかぶったお年寄りが、家々を見回ってくれていますし、見知らぬ人にも困ったことはないかと声をかけています。こんな素晴らしい日本が、私は大好きです」(要約)
メールを読んで、わたしは日本人の良さをあらためて外人から教えられた気がした。そこには、どんなに悲惨な目にあっても、それにめげないしたたかさと人間の善意を信じる気持が溢れている。そしてそれは、現地の被災者の方々にも、決して失われていないのだ。いま、この未曽有の津波災害と原発事故からの一日も早い回復を、願わずにおれない気持で一杯である。
(平成23年4月作品)
自分史目次へ