7 退院してわが家へ
次男の家で過ごした最初の1週間は、37度台の微熱が続き、頭痛に加えて喉や耳の痛みも激しかった。風邪かもしれないと思ったが、妻は貧血のせいだろうという。しかし、1週間を過ぎるころから、体調は次第によくなっていった。一家がわたしの回復のために努力してくれたためであろう。妻は毎日、朝晩2回、包帯を取りかえ、傷口を消毒してくれる。嫁はわたしの貧血を治すため、栄養価の高い食事を懸命に作ってくれた。歩けるようになると、孫たちも「おじいちゃん、いっしょに歩こ」といって、わたしを近所の散歩に連れ出してくれた。次男も出勤前にどこかへ出かけている様子なので、嫁に問いただすと、回復祈願のお宮参りらしいという。また、胸が熱くなった。
こうして、次男の家での半月が終わるころ、体力はかなり回復し、貧血も治まっていた。
平成14年7月4日、再受診の日が来た。その前日は横浜の義弟の家で泊まり、当日は義弟の車でX大学付属病院まで送ってもらった。
T医師は傷口を見て、データのためであろうか、看護師に腹部をコンパクトカメラで撮影させた。
「傷口はすっかりよくなりましたね。尿漏れはありますか?」
「退院後1週間ぐらいはありましたが、今ではほとんどありません」
「摘出した前立腺を顕微鏡で検査した結果、ガン細胞は消えていました。代わりに異形細胞が見つかったという報告が、検査技師から来ています」
T医師の説明はそれだけで、ガン細胞がなぜ消えたのか、異型細胞とはなにかというような説明はなかった。
「日常生活で何か気をつけることはありますか?」
「とくにありませんね。軽い運動でしたら大いにやって下さい。食べ物は何でも食べてください」
「アルコールは?」
「少しぐらいなら結構です」
診察が終わると、義弟の車で横浜駅前のレストランへ行った。途中で乗せた義妹も加わった。退院祝いを兼ね、ささやかなご馳走をした。アルコールが解禁とあって、入院以来はじめてのビールを飲んだ。喉にしみた。
しかし、その後が悪かった。帰りの新幹線の中で、ひどい尿漏れを起こしてしまった。やはり当分ビールはお預けだと、思い知らされた。
23日ぶりに帰った名古屋は気温34度、夏たけなわであった。ちょうど1年前、ガン告知を受けたときも夏であったと思い出しながら、感慨にふけっていた。
家に着くと、まず長男にEメイルで今日無事自宅へ帰ったことを知らせた。
長男は、わたしが入院する1ヶ月前の5月に、一家でメリーランド州に移住し、彼はある医療研究所にいた。ついでに「異形細胞とはどういうものか」と質問してやった。しばらくして返ってきた返事によれば、異形細胞は前ガン症状で、それが成長してガン細胞になるという。しかし、それは変ではないかと思った。もしそうだとすれば、わたしの手術は何であったのか。A医大病院は、まだガン細胞になっていない異形細胞をガンだと誤診し、それに基づいてしなくてもいい手術を受けさせたというのか。その点を問いただすと、長男はホルモン注射のためにガン細胞が変じて異形細胞になったのではないかという。
後日、A医大病院のH医師に報告かたがたお礼に出向いたとき、H医師も同じようなことをいった。しかし、わたしはなにか釈然としなかった。
平成14年8月1日、1ヶ月ぶりで、X大学付属病院を訪れた。これがたぶん最後の通院になるであろうと思いながら、T医師から先回の血液検査の結果など聞いた。PSAは0.1以下になっており、赤血球数もヘモグロビンもかなり回復し、平常値に近づいているから、もう危険はないという。それでも妻は、尿の潜血反応や貧血などの点をいろいろ問いただした。するとT医師は
「奥さんは心配しすぎですね。それじゃあ、かえって病人を不安にするだけですよ。もっと医者を信頼してください」
と語気を強めた。たしかに、病人のわたしより妻のほうが取り越し苦労し、それだけに質問も多い。しかし、妻の肩をもつわけではないが、家族が病人のことを思いわずらうのは当然で、その不安感を取り除いてくれるだけの説明がないから、彼女はいつまでも納得しないのである。
妻はたしなめられたにも懲りず、さらに質問をつづける。
「異型細胞は摘出した前立腺のどこの部分にできていたのですか?」
前回説明がなく、わたしにも気になっていたことであった。
「それはいまここに記録がないから、私にもわからないですね」
と、T医師の返事は素っ気ない。T医師はたしかに腕はよいかもしれないが、しかしそれだけでは、理想的な医師とはいえないではないか。大事なのは、やはり患者や家族への心のケアだ。そのためのインフォームドコンセントではないかと思った。
しかし、不満だからといって、妻もわたしもT医師にかかったことを悔やんだかといえば、そんなことはない。いやむしろ、延々9時間もの長きにわたって手術してくれたT医師をはじめとする手術チームの方々には、いまも頭の下がる思いである。
「手紙を書きましたから、あとはH先生にしばらく様子を見てもらって下さい」
T医師はそういってH医師への手紙と診断結果を渡してくれた。妻とわたしは、丁重なお礼を述べ、T医師の診察室を出た。
平成14年の夏が過ぎ、秋になっていた。手術して、かれこれ4ヶ月たっている。PSA前立腺特異抗原値は0.1以下を保っていた。体調も回復し、わたしは毎日1万歩を目ざしてウォーキングに励んでいた。日常生活も以前と同じにもどっていた。いや、厳密にいえば以前とまったく同じというわけでなかった。その年の3月まであった非常勤講師の仕事はいまはなく、「毎日サンデー」になっていた。ストレスから一切解放され、自分の好きなことのできる身分の幸せを味わっていた。
そのころから、わたしは友人や知人に自分の手術のことを話しはじめた。ホルモン療法中はむろんのこと、手術後自分の家に帰ってからもしばらくは、ガンのことは彼らにはいわなかった。いいたくなかったのである。人間が本当に落ち込んだときは、人に相談したり、助けを求めたりすることはできないものだと思う。少なくともわたしはそうであった。
元気になって初めて、人に話した。伝え聞いて見舞いに来た旧友たちは、元気なわたしを見て驚いたようであった。
「おい、本当にガンだったのか?」
わたしは彼らに、きまっていったものだ。
「PSA検査だけは受けておいたがいいゾ。これから日本もアメリカ並みになっていくと、前立腺ガンが死亡率の上位になるからナ。天皇陛下や森喜朗前首相だってなるんだから」
といっておどしている。
ある日、いつもかかっている近所のW医院に薬をもらいに行った。
「すっかり元気になられて、よかったですね。ところで、安藤さんが手術を受けたというT教授は、日本でも有数の前立腺腹腔鏡手術の名医なのですね」
そういって、W医師は「日本の名医」という週刊誌の特集記事を見せてくれた。そこにはT教授の名前が上位に出ている。W医師は言葉を継いだ。
「そんな先生に手術してもらって、運がよかったですね」
かつて腹腔鏡手術に反対したW医師は、まるでそのことはすっかり忘れているかのようにいった。医師の言葉を聞きながら、その名医の手術ミスのことをもう少しで話すところであった。が、思いとどまった。この医師には、わたしは幸運であったことにしておこうと思いながらーー。
平成15年9月、東京慈恵医大青戸病院で前立腺ガン腹腔鏡手術を行った医師3人が、業務上過失致死容疑で警視庁に逮捕された。経験のないまま流行の腹腔鏡手術を敢行した医師の行為は論外であるが、その後も経験を積んだ医師が腹腔鏡手術による大量出血死を起こしている事実を知ると、あらためてこの手術のむつかしさを思った。
それにつけても、わたしはW医師の言った「運がよかった」という言葉を思い出す。そして複雑な気持ちになる。たしかに、日本で有数の医師に手術してもらったのは運がよかったかもしれない。しかし、わたしは血管切断の多量出血から危うく死ぬところであった。それは運がよかったどころか、この上もない不運な出来事というべきであろう。だが、まてよと、また思う。首尾よく縫合されて出血が止まったのは、名医だからこそできた技ではなかったか。下手な医者だったら、本当に死んでいたかもしれなかった。そう考えれば、T医師は命の恩人であり、やはりわたしは幸運というべきなのか。いやいや、そうとばかりはいえない。本当に幸運であるかどうかは、まだ今の段階ではわからないではないか。転移も再発も絶対ないと、決まったわけではない。これからが勝負である。
「ガン闘病記」はこれで終わるが、「ガン闘病」そのものはまだ終わっていない。たぶんそれは一生続くことになるであろう。
さて、これは後日談であるが、その年の11月26日付の読売新聞は前立腺ガンの腹腔鏡手術のことを報じ、その手術で高度先進医療の指定を受けている病院が全国で九つあるとして、病院名を掲載していた。わたしはその欄をなんども見返した。しかし、1年半前、わたしが申請のための第1号患者になったX大学付属病院の名前はそこになかった。(完)
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