6 タコ八の病院生活
手術の翌日、平成14年6月15日の朝は、夢うつつの境地を襲ったT医師の来診から始まった。妻が昨日の手術のお礼を述べているのを聞いた。次第に意識がハッキリしてきた。医師は、腹部を診察し、「大丈夫ですね」といった。わたしは身動きする力もなく、身体を医師と看護師のなすにまかせていた。
朝食は抜きであったが、昼食にはもう粥が出た。食欲のないまま、電動ベッドを起こされ、妻に食べさせてもらった。からだ中に管がくっついているので、自由が利かないのである。右の鼻孔に酸素の管、左の鼻孔に胃袋の管、首の静脈に点滴の管が2本、背中に痛み止めの注射管、腹部の手術孔には出血を吸い出すための管が左右2本、最後に導尿の管が1本である。数えてみると8本あった。
「まるでタコの八ちゃんだナ」というと、妻は笑った。入院以来はじめての笑顔だ。この状態はよくスパゲッティ症候群といわれるが、むしろタコ八症候群だと思った。
ところが驚いたことに、昼食後、もう立って歩けという。
「安藤さん、途中で休み休みでもいいですから、私につかまって病院の廊下を一周してください」
看護師さんはすべての管を点滴台に括りつけ、わたしを立たせた。右側に移動式点滴台をもち、左側の看護師さんにすがりながら、そろそろと歩く。気息奄々だが、これをやらないと血栓が脳や心臓に飛んで、脳梗塞や心筋梗塞を起こすおそれがあるという。
夕食は、もう普通食になったが、そんなに食べられるものではない。熱は依然として38度近くあった。今夜からは部屋の付き添いはできないことになっているので、妻は午後9時過ぎ、ホテルに帰っていった。
夜中、なにかイビキらしき物音を聞いた。もうろうとした目に映ったのは、部屋の片隅のソファーに眠っている1匹のしま模様のトラの姿であった。驚いて声を上げた気がする。すると、トラは突然近寄ってきたかと思うと、妻に変身した。
「わたし、心配だったから、やっぱり来ちゃった」
妻は午前3時に起き、タクシーを飛ばして乗りつけ、非常口から入ってきたという。トラの幻覚は、やはり貧血と熱のせいであろう。
第2日目。 朝、妻に付き添われ、フラフラする身体を点滴台にもたせかけて廊下を歩く。昨日よりは力が入った。
第3日目。朝、T教授が何人かの付き添いをしたがえ、回診にきた。熱は37度まで下がっていた。
昼食後、膀胱撮影をしたが、異常なしということで、導尿管を抜き取られた。息の詰まりそうな痛みであった。これで、自力でトイレに行かねばならぬことになった。看護師さんがやってきて、尿もれ防止のための肛門筋トレーニングを教えてくれた。懸命に練習したが、やはり尿漏れが起きてしまう。このときから当分、入院中はもちろん自宅療養中も、尿取りパッドの世話になることになった。
3時ごろ、横浜の義弟夫妻が見舞いに来てくれた。義弟は、もう導尿管を抜いたと聞いて、意外らしかった。そして、わたしの手術日程表を見て、さらに驚いたようだ。
「ええ?もう明々後日退院とあるが、本当なの?実は、見舞いはまだ早すぎるかと思ってきたのだが、もう少し遅かったら間に合わなかったところだね」
義弟はそういって笑った。同じ前立腺ガンではあったが、開腹式手術をし、3週間入院した義弟にとって、わたしの日程の短さは驚くに値した。しかし、わたしは血管切断で起こった貧血のために、退院はもっと先に延びるものと思っていた。
第4日目。朝、腹部のドレン二ヶ所と、首の静脈に入れていた点滴の管を抜き取る。今まで寝返り一つ打てなかった苦痛から解放され、すっきりした。
午後、T医師の回診があった。腹部の傷口を調べ、
「ずいぶんよくなりました。もういいですね。血尿はだれでもありますから、心配いりません。明後日の20日に退院してください。わたしは今日の午後、フランスへ発ちますが、後はA医師に頼んでおきます」という。
「先生、主人はまだ貧血がひどいので、もう少し置いていただけませんか?」
と妻がくいさがる。
「大丈夫です。貧血は家でうまいものを食べていれば治ります。ここはわたしの立場もありますから、予定どおり退院していただかないと困るのです。」
杓子定規の退院通告である。やはりそうかと思った。すでに血管損傷という不測の事態も起こしているし、そのうえ治療が予定以上に延びれば、高度先進医療認定のための手術は成功したことにならないのであろう。そうすれば、せっかくの申請が通らない可能性だってある。それに、治療費が一切病院持ちである以上は、経費の面からも早く出ていってくれないと困るのだ。
しかし、妻は陰で憤っていた、貧血のひどいのを追い出すように退院させることを。さらに自分の患者を退院するまで見届けず、途中でほかの医師に預けて外国出張とはー。たとえそれが腹腔鏡手術発祥の地のフランスでの研修だとしても、医師として許されることかという。妻のいうことも一理あるが、こちらは手術費と治療費をすべて病院におんぶしている身、医師の指示は金科玉条、絶対服従である。
第5日目。血尿や尿漏れは依然として続いている。夜、妻がホテルに帰るのを玄関まで見送った。それだけの体力がついたのをありがたく思った。そして妻の背中に手を合わせた。その晩は、これが病室での最後だと思うと、なかなか寝つかれなかった。眠れないまま、鈴木宗男衆議院議員逮捕のニュースをテレビで見た。
第6日目。朝、A女医が来て診察する。退院後の薬として、化膿止めの抗生物質、頻尿を止める薬、造血用鉄剤の3種類をもらう。お世話になったお礼を言う。詰め所へ妻と一緒に行って、看護師さんらへ挨拶をし、心ばかりの贈り物をした。会計をすませたが、食費と部屋代だけの出費であった。
正午少し前に、病院を出た。告知から手術までは1年と長かったが、入院日数は全部で8泊9日とあっけないほど短かった。
「案ずるより産むが易しとは、よく言ったものネ」
妻の言葉を聞きながら、タクシーに乗り込む。そのまま、三鷹の次男の家に直行。次回の診察日まで半月ほど、ここで厄介になりながら療養することになった。
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