5 血管を切断される
6時の起床時間を少し過ぎたころ、はやばやと妻と次男がきた。いよいよ今日が手術だと思うと、やはり緊張は隠せない。6月14日、手術当日である。
8時、麻酔医が部屋に来て、軽い前麻酔を打った。8時30分、ストレッチャーに乗せられ、手術室へはいった。部屋には、白衣を着た医師や看護師が何人もいるのが、気配でわかった。手術台に移され、まず脊髄の麻酔注射、それから口に呼吸麻酔をあてがわれた。もうそろそろ9時かと思いながら、意識が薄れていった。
それから何時間たったのであろうか、混濁した意識の底で天井が動いていた。運ばれているのだと思った。どこかの部屋へはいったようだ。後で聞くと、そこは手術後の観察室で、なにか処置をされたようだ。それから、個室へ移されたころ、ようやく麻酔が覚めた。
妻の話によれば、手術は5〜6時間で済むから、遅くとも3時には出てくるだろうと聞かされていたが、午後4時になっても、5時になっても出てこない。なにか事故があったにちがいないと、妻と次男は付き添いの部屋でいたたまれなかったという。
妻の直感は正しかった。実はこの間、閉ざされた手術室では、おそらく患者の生死をかけたドラマが繰りひろげられていたのだ。本人はもちろん、妻も次男もうかがい知ることのできないドラマが−。
夕方午後6時近くなってやっと出てきた夫の顔は、血の気が失せ、まるで土左衛門のように脹れあがり、目はつぶれたようになっていたという。まさか、と思ったとき、執刀医のT医師が出てきた。手にした容器の中には、小さなミカン大のものがあった。
「これが摘出した前立腺です。手術は無事に終わりました。ただ、血管を少し傷つけてしまいました」
一瞬、妻は青ざめた。
「奥さん、大丈夫です。すぐ縫合しましたから」
「先生、それで9時間近くもかかったのですか?」
「はい、縫合したところがまた破れ、もう一度縫い合わせたからです」
妻はさらに仰天した。
「そんなこと、よくあるのですか?」
「そんなことはめったにありません。わたしが今までやった71例の手術のうち、血管を傷つけたのは一度だけです。ご主人で2度目です。」
こともなげにいう医師の態度に、妻は思わず言葉を失った。めったにないからといって、それが免罪になるはずはない。めったにないというその2度目が、夫の身に起こったのである。
腹腔鏡手術で血管を切った場合は、直ちに開腹手術に切り替える、と聞いていた妻は、
「お腹を切り開いたのですか?」と尋ねた。
「開腹手術はしていません。しかし、1カ所の孔を5センチほど切り広げ、そこから血管を縫い合わせ、出血を止めました。わたしはそれだけの技術は持ち合わせています」
T医師はむしろ得意気であったという。
顔面を引きつらせたまま、妻はさらに訊いた。
「輸血はしましたか?」
「していません。もう少し出血していたら、輸血しなければならないところでした」
妻には信じられなかった。開腹手術では万一の輸血に備えて自分の血を預血しておくのだが、ここではその必要はないということで、準備はしていない。輸血するなら得体の知れぬ血液を使うことになるかもしれないのだ。
あとで、T医師と妻とのやりとりを聞かされたわたしは、医師は冷静を装っていたものの、実際は初めての職場で、しかも腹腔鏡手術をこの病院の目玉としようと意気込んでいた手術で、血管破傷という失敗に、内心は激しく動揺していたにちがいないと思った。
妻はなお、いろいろ説明を求めたが、T医師は
「無事終わったから、ご安心下さい」
とだけ言い残し、そそくさと去っていった。その後ろ姿はいつものT医師に似ず、寂しげであったという。
手術当日だけは、付き添いが許されていたので、妻は一晩じゅう付き添ってくれた。輸血一歩手前までいったというだけあって、わたしは極度の貧血状態にあった。赤血球数は平常値が400万以上のところ、270万まで減少していた。栄養補給と一緒に麻酔薬の点滴をずっと受けているので、痛みはなかった。しかし、意識はもうろうとしていて、一晩中悪夢にうなされた。
夢うつつのなかで、寝ているベッドがエレベーターのように空中に上昇したり、下降したりするのを感じていた。そして、いつの間にかわたしは空中に舞い上がり、そこから下界を見おろしていた。下界では、カラー映画の特撮場面さながら、アリのような群衆が無数に押し寄せたり退いたりしている。そうかと思うと一転、わたしは暗い洞窟の中の通路で出口を求めてさまよっていた。突然、目の前に岩戸が落ちてきて進路をふさぐ。あわてて別の通路に入りこむと、また行く手をさえぎられる。
「あなたは三途の川を途中で引き返したのよ」
わたしの夢の話を聞いて、妻はそう言った。
なるほど、あれはひょっとすると妻の言うように、幽体離脱か臨死体験というものかもしれなかった。迷信めくが、もしも見おろした下界に自分の姿を見ていたとしたら、あるいはもしも洞窟の中で行く手を岩戸でさえぎられなかったとしたなら、今ごろわたしは向こう側の世界へ行っていたかもしれない。
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