4 不吉な前兆

平成14年4月中旬の早朝、わたしはH医師の紹介状を携え、X大学付属病院へ向かった。腹腔鏡手術で有名なT医師はこの3月でN市の病院を辞め、4月からは関東にあるこのX大学付属病院に教授として迎えられていた。

診察室で初めて接したT教授は50歳がらみのがっしりした体格の医師で、重厚な態度のなかに自信のほどをみなぎらせていた。

「前の病院で、私は70例ほどの腹腔鏡手術をしています。おそらく日本では一番多いでしょう」

T医師は、腹腔鏡手術とはどういうものか、こまごまと説明してくれたが、すでにおよそのことは知っていた。だから、医師の説明に魅せられたというより、やはり医師の名声に惹かれたのであろうか、聞きながらわたしはこの医師に手術してもらうのがずっと以前から決まっていることのように感じていた。

しかし、妻の思いは違っていた。転勤してきたばかりの手術室で、今まで腹腔鏡手術の経験のない新しいスタッフと、うまくチームプレーができるかという点を懸念していた。その点をただすと

「奥さん、安心してください。みなさんには私が十分教えます。もうすぐ他の病院でもここのスタッフを引き連れて手術のデモンストレーションをやるし、ここでももう1人の先約患者の手術をします」

妻はあまり気乗りしていないようであったが、それでもわたしの気持ちを察してか、最終的には同意してくれた。

1ヶ月後の5月の中旬、再受診でX大学付属病院へ行った。そのとき、T医師は思いがけないことをいった。

「今度この大学では、国から高度先進医療の認可を受けようということになりました。そこで、あなたを手術の第1号の症例として申請したいと思いますが、よろしいでしょうか。そうすれば、手術を含めて治療費は一切病院持ちになります」

実験台になるのではないかと妻は警戒したが、わたしは申請を通すためにむしろ万全の態勢で臨むはずだから、かえって安全だと思った。それに、そのような特典を与えてくれたのは、就任早々はるばる名古屋からこの関東の地まで足を運んでくれた患者の労に、T医師が報いようとしたためかもしれないと、善意に解釈した。

採血、超音波、心電図などの検査をすませ、入院日を6月12日と決めた。心が少し落ち着いた。


この日、東京の三鷹に住んでいる次男は車で病院までやってきて、わたしたちを箱根にある彼の事業団の保養所へ連れて行ってくれた。妻とわたしはこれが最後の旅になるかもしれないと思いながらも、次男夫婦と孫2人に囲まれ、2泊3日の滞在を楽しんだ。

6月12日、入院の日がきた。わたしたちは五時に起床し、新幹線を乗り継ぎ、10時には病院に着いていた。手続きを済ませ、予約してあった個室にはいった。すぐに女性看護師さんから、説明を受けた。昼食後、循環器内科で負荷心電図などの検診を受けてから、手術などに必要な物品を売店で買いそろえた。

夜、T医師から手術についての説明があった。A女性医師と女性看護師が同席している。このA女性医師は、若くて冷たい感じの美人ではあったが、なかなかのやり手らしく、執刀医のT医師の代理として、その後も何度か診察・治療を受けることになった。


翌13日、昼食後、腹部の剃毛をし、下剤を飲む。腸の中を空にし、手術に備えるためだ。下痢が始まり、トイレ行きが頻繁になった。

夕方近く、また次男一家がやってきた。長男一家がアメリカに行っていて不在なので、その責任を感じてか、次男がいろいろ世話をしてくれる。嫁が紙袋をくれた。開けてみると、なんと千羽鶴であった。じーんと胸に来た。聞けば、この1ヶ月、嫁は次男にも告げず、ひとりで鶴を折りつづけ、完成する最後の日に次男にうち明け、数枚を手伝ってもらったという。感激ひとしおであった。この千羽鶴は、今もわが部屋の壁に飾ってある。

嫁と孫たちが帰り、次男だけ残ることになった。七時ごろ、麻酔医が二人来て、現在の体調や心臓の既往症のことなど、根ほり葉ほり問診していった。貧血がかなりあり、心電図の診断もあまりよくないので、明日手術をするかどうかを検討するという。やがて看護師が来て、手術は予定どおり行うことになったと告げた。大病院ともなれば、よほどのことがなきかぎり、予定は簡単には変更できないものらしい。

9時を過ぎると、それまで病室にいた妻と次男は追い出され、駅前のホテルに泊まりに行った。消灯後も、わたしはずっと点滴注射をつづけていた。

深夜、ふと目覚めると、点滴注射器がはずれ、シーツが真っ赤になっている。ベルを鳴らした。看護婦や当直医が飛んできて、手当てをしたり、シーツを換えたりした。寝ている間にわたしが無意識に腕を動かし、それで注射針が管からはずれ、その針から静脈の血が流れ出たらしい。女性医師のおこなった注射針の固定の仕方がずさんであったのだ。一事が万事ではないかと、このささいな事件になにか不吉な前兆を感じていた。
NEXT
自分史目次へ