前立腺ガン闘病記 |
安藤 邦男
1 告知される
「どなたかご家族の方は来ておられますか?」
診察室に入ると、H医師はいきなりそういった。悪い予感が頭をかすめた。何をいわれても驚くまいとする防御本能からだろうか、思わず身体に力が入った。
わたしは廊下に待っていた妻を呼んで、一緒に担当医のH医師の前に腰をおろした。
「あなたは告知を希望されていましたね」
耳もとの医師の声は、どこか遠くからのように聞こえた。
「はい、そうです」
「では申し上げます。ガン細胞が見つかりました」
覚悟はしていたものの、スッと血の気が引くのを感じた。もっとも、そのひと言はまだ比較的冷静に聞くことができた。しかし、つづけて医師の説明が始まったときはもう駄目であった。医師の言葉が耳を素通りし、話がよく飲み込めないのである。「しっかりせよ。パニックになっちゃいかん」と、もう一人の自分のささやく声が聞こえた。わたしはマスクをした医師の口元のあたりを見つめながら、なぜこの先生はいつもマスクをしているのだろうと、あらぬことを考えていた。
その1ヶ月半ほど前、わたしは近所のかかりつけのW医院でPSA(前立腺特異抗原)の血液検査をしてもらった。だいぶ前から排尿困難を感じていたこともあり、また数年前には義弟が同じ前立腺ガン手術をしたということもあって、妻にすすめられるまま、軽い気持ちでその検査を受けた。
結果は、PSA値が7.1であった。4.0以下なら安全圏だが、10.0以上ならガンの可能性がきわめて高いという。ちょうど中間の数値で、グレイゾーンである。
「前立腺の肥大でもこのくらいの数値になるから、心配しなくてもいいですよ」
W医師はそういいながらも、やはり精密検査が必要だとつけ加え、A医大付属病院のH医師に紹介状を書いてくれた。
1ヵ月後、その付属病院に3日間の検査入院をし、前立腺の組織検査を受けた。前立腺から6カ所の細胞を採取し、それを顕微鏡で検査するのである。下半身麻酔のちょっとした手術であったが、しばらくは血尿が出て、鈍痛が続いていた。それから10日ほど過ぎた今日、わたしはA医大付属病院で前立腺ガンを告知されたのである。
平成13年7月、夏はこれから本格的暑さを迎えようとしていたときのことであった。
わたしは気が動転していたが、妻は冷静に質問したり、メモを取ったりしていた。
帰宅後、二人でH医師の言葉を反芻しながら、病状を正確に把握しようとした。細胞診断の結果では、わたしのガンのステージは、ウイットモア・ジュエット分類のA1からD2まである段階のうち、B1であり、比較的初期だという。悪性腫瘍は6カ所から取りだした組織のうち、1カ所に見つかっただけであるし、触診の結果からも外部への侵出や露出はなく、ガンは前立腺内に局限されているという。絶望するにはまだ早い。わたしはやや落ち着きを取りもどすことができた。
H医師の話を総合すると、このガンの治療には三つの選択肢がある。@手術、A放射線治療、Bホルモン療法である。そのほかにもう一つ、放置することもあるという。
「ほっておいてもいいのですか?」とわたし。
「それはよほどの高齢者か、重篤患者の場合です。そのままにしていても、90歳まで生きる人もいるし、数年で死ぬ人もいる。とにかく、この病気の特徴は進行がゆっくりだから、ほかの原因で死ぬ場合のほうが多いのです。安藤さんの場合は年齢からも病状からも、これには当てはまりません」
「そうですか。じゃあ、ホルモン療法は?」
「ホルモン療法は手術または放射線療法と組み合わせて、その前治療として行うのがふつうです。もちろん、ホルモン療法だけの治療もありますが、それは最初のうちはよく効くが、ガン細胞の活動を抑えるだけです。根治療法ではありません。数年で効かなくなると、また再発することがあります」
「放射線療法は?」
「かなり効果が期待できます。1週間に5回、連続照射し、約7週間かかります。以前よりはずいぶん進歩して、健全な組織を痛めることは少なくなりましたが、それでも副作用が大きいことは承知しておいてください。下痢、肛門痛、膀胱炎などが起こるおそれがあり、一度発症すると対応がむつかしい。それに放射線を一度行うと、効かなかったからといってその後で手術をすることはできません」
「では、最後にその手術のことですが・・・?」
「根治療法として前立腺全摘出手術がいちばん望ましい。しかし、1ヶ月ほど入院することになり、身体への負担はかなり大きいので、ほかに心臓などの内臓疾患のある場合は危険です。75歳以上の人には、手術はふつう勧めません」
「先生、じつはわたしは狭心症の持病があるのですが・・・」
10年ほど前、狭心症の発作を起こし、それ以来W医院で治療をうけていることを話した。わたしはできれば手術はしたくなかったのである。その口実になればよいと思って、遠い昔の狭心症を持ちだした。
「そうですか。それではあとで心臓のほうも診ましょう」
それから1ヶ月ほど、わたしはいろんな検査を受けた。ガン細胞が身体のほかの部分へ転移していないかどうかを調べるためである。心電図、MRI、骨シンチなどを受けたが、幸運にも、膀胱への浸潤や骨への転移などはなく、ガン細胞はやはり前立腺内に局限されているとのことであった。
わたしはほっとし、一瞬、気の休まる思いをした。しかし、安心はそのときだけであった。すぐに、これからの治療法を何にするかという大きな問題が降りかかってきた。いくつかの選択肢のはざまで、わたしの心は揺れながら悩むことになるのである。
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