その日は、正月休暇でアフリカから一時帰国していた次男一家が、東京からわが家へやってくることになっていた。妻もわたしも、朝から家の中の片づけや掃除に大わらわであった。
午後になって、食後のひとときをテレビでくつろいでいると、静かな住宅地にはめずらしく大きな声がした。どうやら子供が親に叱られているようだ。《まさか次男一家ではあるまいな》と思って窓から覗くと、なんと!やはり次男の顔が見える。いつの間にか到着したらしく、門前にはすでに車が駐車し、その横に次男と孫が立っていた。そうして次男は、自分とあまり背丈の変わらない孫(中1)に向かい、激しい口調で何か言っている。
急いで外へ出たわたしは、二人の間に分け入った。
「そんな大きな声を出して、みっともないよ。ここは日本だぞ!」
次男はぎこちない笑顔を見せたが、孫はふくれっ面のまま固まっている。嫁と孫娘は挨拶もそこそこに、荷物運びにとりかかっている。なんとも気まずい再会であったー。
家に入って荷物整理も一段落すると、やっとみんなにも笑顔がもどった。次男とは1年ぶり、嫁と孫たちとは半年ぶり、久闊を叙するや、お互いに積もる話に花が咲いた。だが、孫だけはいつもに似合わず口数が少なく、部屋の片隅で、浮かぬ顔をしていた。
その夜、嫁と孫たちが寝静まった後で、わたしは次男と昼間の件について話した。
聞けば、やってくる途中、車の中で始まった孫と孫娘の口喧嘩にうんざりした次男が、四歳年上の兄である孫を咎めると、《どうしていつもぼくだけが叱られるのか》と反発してきた。それに対してまた次男が叱ったので、わが家へ到着後も、孫はすなおに荷物運びを手伝おうとしなかったらしい。それを見た次男は、ついに門前でキレタという。
そんな次男を見たのは、初めてであった。海外勤務が多い彼は、欧米流の生活態度が身についているのか、わたしの知るかぎり、これまでの日本人男性のように仕事一筋ではなく、家庭サービスも怠らなかった。とくに子供はよく可愛がった。しかし一方では、子育てにきびしい一面もあった。
「叱るのはいいと思う。しつけだからー。だが、腹を立てて怒るのは自分のうっぷんを晴らすことだから、相手はすなおには聞かないよ」
「うん、わかる。でも、こんなことを言ったりやったりすれば、怒られるということを知るのも、必要なしつけではないの?」
「そうかもしれないが、それより怒られたトラウマの方が大きいのではないかな。まして、相手は反抗期だからー」
声といい、身長といい、すっかり大人びた孫の姿を、わたしは脳裏に描いてそう言った。
次男と話し終え、寝室に入ってからも、わたしはなかなか寝つかれなかった。眠れないままに、昼間の一件を思い出していると、若いころの苦い記憶がよみがえってきたー。
あれはたしか、長男がちょうど今の孫ぐらいの歳で、中学生のころだった。彼はわたしの書斎で何か大切なものを無断で使用したようだ。それが何であったかは思い出せないが、わたしはひどく腹を立てた。叩いたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。それは定かではないが、おとなしい彼は何も言わず堪えていたことだけは覚えている。その後をフォローした妻によれば、彼は自分の部屋で声を殺したまま、大粒の涙を流していたという。よほど悔しかったのだろう。可哀想なことをしたと、いまも思い出すたびに胸が痛む。
それ以来、長男もわたしもあの出来事を持ちだすことはない。二人とも忘れた振りをしている。しかしあのときの記憶は、長男の胸のうちにも疼いているにちがいない。
そして連想は連想を呼び、父親に怒られた少年時代にわたしを誘う。ここでも、わたしは何をしでかして怒られたのかは思い出せない。しかしひどく叱られ、悔し涙にくれたことだけはハッキリ覚えている。
どんな出来事にせよ、頭に残された記憶は歳とともにうすれ、やがて消えていくだろう。しかし、胸に刻まれた情念はなかなか無くならず、いつまでもこころの片隅に残る。
いま、反抗期にある孫は、これからも父親との確執に悩むことになるかもしれない。だが、そんなことにいじけず、まっすぐに成長していってほしい。男の子は年ごろになれば父親と対立するもの。父親という大きな壁を乗り越えて、はじめて大人の仲間入りができるというものだー。
こんなことを夢うつつのなかで考えているうちに、ようやく睡魔が襲ってきた。雨戸の隙間から見える夜がほんのり白くなったことを意識しながら、わたしは深い眠りにおちていった。
翌朝はおそく目覚めた。すでに家族はみんな起きていた。居間をのぞくと、次男は何ごともなかったかのように孫と談笑している。いつもの親子の姿がもどっていた。
「さあ! 今日はどこへ出かけようか!」
呼びかけるわたしの声も、はずんでいた。
(平成21年3月)
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