セピア色の久居
平成20年の春のことである。その日の夕刊は、津市の目抜き通りで陸上自衛隊の行ったパレードを報じていた。
記事によれば、4月26日、久居駐屯地の陸上自衛隊は創設100周年の記念行事を行ったとある。自衛隊の創設されたのは、戦後数年たってからだから、100年前というのは1908年、明治41年のことである。この年、旧帝国陸軍が久居に部隊を駐屯させたという。
パレードを見た津市の人びとのなかには、賛否両論が渦巻き、歓迎ムードに酔いしれる人もいれば、抗議行動に走る人もいたという。そして記事の下には、戦車を先頭に堂々と行進する自衛隊員の写真が掲げられてあった。
しかし私の眼はその写真でなく、その横に小さく添えられた写真にくぎ付けになっていた。昭和初期の久居の町通りであった。
そのセピア色の写真を眺めていると、いつしかわたしは遙か遠いむかしにタイム・スリップしていた。それは、記憶と忘却がせめぎ合い、意識と無意識がかさなり合う、茫漠たる幼児の世界であったー。
その街並みは記憶の底にあった。黒くうごめく人影が群れをなし、明々とした提灯の列がはるか天空の暗闇に消えるまで続いている。しばしば夢にも現れたその原風景が、皇太子(現天皇)誕生の祝賀行事であったことは後年知った。
この町のたたずまいには、もうひとつの追憶の図がある。長く続く家並みを大声で泣き叫びながら、わたしは父に自転車の荷台に乗って医者へ運ばれていくのである。左腕が肩から脱臼したのだ。その原因は、家の中で父がわたしの両手を握ってハンマー投げのように振り回して遊んでくれたことによる。だが、町角を曲がったはずみでわたしの肩が父の背中にぶつかると、腕は元に収まり、わたしは泣きやんだ。父はそのまま引き返したというが、おかげで医者代が助かったと、笑いながらくり返した母の話のおかげで、わたしの回想はいまだに新鮮さを保っている。
泣き叫んだ思い出には、もっと激しいのがあった。となりの2、3歳年下の男の子と遊んでいたときだった。なぜか知らないが、わたしは左の頬をガラスの破片で切られた。親が詫びをいれに飛んできたようだが、わたしはただただ泣きつづけていたようである。5センチばかりの傷跡は、中学に入るころまで消えなかったー。
「久居の町はなつかしいでしょうね」
写真に見入って思い出にふけっているわたしに、かたわらの妻が話しかけてきた。
「・・・うん、そうだよ。生まれ育ったところだからー」
昭和4年、わたしは三重県の久居で生まれ、小学校に入るまでそこで育てられた。家族は、両親と3歳上の兄とわたしであった。
名古屋の守山にあった陸軍33連隊が久居へ移駐したのは、大正14年である。連隊とともに、一家は久居へ引っ越し、そこに居を構えた。
父は職業軍人、位は下士官。そこの騎兵隊に属し、分隊に騎馬の訓練を授ける教官であった。父の俸給がいくらだったかは知らないが、下士官の身、そんなに楽なはずはなかったと思われる。それでも、後年、物置の中に「金100円也」と記された賞与の袋を発見したことがあるし、また貧乏学生だった叔父が父に金の無心をしている手紙を何通か見つけたことがあることから考えると、当時の職業軍人の暮らしはまずまずのものではなかったかと思う。
そういえば、犬のマークでお馴染みの蓄音機があったことを思い出す。昭和初期、出まわったばかりの蓄音機は60円ほどしているが、父はいち早く購入し、同僚や部下を呼んでは軍歌や詩吟、浪花節などを聞かせていたようである。
もうひとつの父の趣味は囲碁であった。同じ碁好きの仲間を連れてきて深夜まで打っていたらしく、よく母の苦情を聞かされたものである。新しもの好きなことや囲碁に熱中するわたしの性格は、父ゆずりかもしれない。
しかし、体力は父に似ず、わたしはひ弱であった。左腕の脱臼はそのあと習慣になったようで、なんどもくり返した。また、よく病気もした。いちばん重い病気は、一家が久居から春日井に転居し、わたしが小学校へ入学する前のことであった。母の語るところによれば、疫痢にかかり、40度の熱が何日も続いたらしい。両親はもうこの子はダメだと、あきらめたという。なんとか持ち直し、小学校は1、2ヶ月遅れて入学したことを憶えている。
昭和9年祖父が亡くなった。翌10年、父は実家の農業を継ぐために騎兵隊を辞め、祖母の待つ春日井に転居した。
こうして、牧歌的だった久居での幼児期は終わりを告げた。
(平成21年12月)
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