『1Q84』をめぐるダイアローグ

   (1)ジャンルの枠を超えた小説

A「昨日、やっと『1Q84』を読みおえたよ。女房が知人から借りてきたものだけどね。

ボクが村上春樹の作品を読むのは、二十数年も前の『ノルエーの森』以来だ」

B「そうか、去年は猫も杓子もその本で持ちきりだったから、へそ曲がりのオレはかえっ

て読む気がしなかったし、今も読んでいない。それでどうだった? 面白かったかい?」

A「うん、面白いことは面白い。何百万冊も売れに売れたわけだと思ったよ。扱う題材は

宗教、暴力、殺人、不倫、幼児虐待など、現代日本社会の縮図を見る思いだった」

B「マスコミの報じるところによれば、作者はオウム事件に衝撃を受けてこれを書いたと

いうではないか。」

A「そう、だがここに描かれているカルト教団はオウムだけでなく、エホバの証人、ヤマ

ギシ会、さらに学生運動の過激派組織など様々の性格をそなえているのだ」

B「そんな教団を取り上げることで、作者は何を訴えたかったのかな?」

A「ボクが思うに、宗教に救いを求めて入った善意の人たちが、なぜ殺人集団に変貌して

いったか、いうなれば個人の意識が組織の枠組みに取り込まれてしまう悲劇に焦点を当

てたかったのではないかな」

B「なるほど、ちなみに、タイトルの『1Q84』というのは、どんな意味があるの?」

A「英人作家ジョージ・オーエルが1949年に出版した近未来小説『1984』のこと

は知っているね。独裁国家の制度やシステムが個人の自由を奪うというテーマだが、『1

Q84』はそのパロディーと思えばいい」

B「それはわかるけどね、だけどなぜ、数字のをアルファベットのに変えたのかな?」

A「池上彰キャスターではないが、それって《いい質問です》だ。これらの事件の起きる

時代は1984年だが、物語の背景は《1984年》ではなく、《1Q84年》なんだ」

B「・・・・? それ、どういうこと? 意味がよくわからないが―」

A「つまりこの小説では、二つの世界がパラレルに並んでいて、女主人公は《1984年》

から《1Q84年》にタイム・スリップならぬ異次元空間スリップをするのだよ。だか

らそこでの出来事はすべて現実にはありえないような不思議な世界なのだ。しかしだか

らといって、荒唐無稽ではなく、現実にあり得ても不思議でない世界でもある」

B「ますます解らなくなってきた。それって、SFみたいな空想小説ということ?」

A「そうだ。異次元空間という意味ではSFだ。しかしそれだけではない。一つのジャン

ルに当てはまらないのだ。いろんな要素を兼ね備えている。謎が謎を呼ぶ意味ではミス

テリーだし、殺した教祖の部下に命を狙われる意味ではスリラーだし、セックス描写が

ふんだんにあるという意味ではポルノだし、《リトル・ピープル》なる妖精じみたものが

出没するという意味ではファンタジーだし、幼時から育みつづけた愛がついに成就する

という意味ではラブ・ロマンスだ」

B「へ―、キミが傾倒するポオのような超ジャンルの物語かね」

A「そうそう、ポオの物語のように描写は緻密で、しかもリアルだ。もっとも、村上春樹

が影響を受けたアメリカ作家は別人だと言っているがねえ。」

  (2)豊饒なイメージを呼ぶ異次元の世界

B「それはそうと、もっと詳しく物語の内容を話してくれないか」

A「でもね、ミステリーのファンだったら、結末は聞かないものだよ。それに作者自身も、

発売前は本の中身についてまったくの秘密主義だったからね。それで、まあ、差支えな

い程度に明かすとしよう。この本はふつうの小説と違って、一人の視点ではなく二人の

視点、つまり予備校教師で小説家志望の青年と、表はスポーツジムのインストラクター

だが裏では殺人請負人という女性が、それぞれ交互に語り合うという物語構成なのだ」

B「なるほど。それで、ストーリーの始まりは?」

A「ヒロインが渋滞する高速道路から下車して、下の道路に降り立つところから始まる。

そこが《1Q84》の世界だったんだ。異次元の世界だから、空には月が二つあるんだ」

B「へ―、変わった小説だね。そんな非現実の話、読んでいてバカバカしくないかね」

A「そうね、ある意味ではそうだ。だから嫌いな人もいるかもしれないが―、でも、そこ

がハルキ・ワールドで、とくに多くの若者を惹きつけるんじゃあないかな」

B「そうか、映画やマンガでもそんな世界が多いからね―。それからどうなるの?」

A「はじめ別々に語られていた事件が、じつは二人のそれぞれに関係があることが中盤ぐ

らいから判りはじめる。と同時に、ヒーローとヒロインは幼馴染であったこともしだい

に明らかになる。そのあたりの筋運びはサスペンスドラマ風で、読者の興味をつかんで

離さない。そういうわけで、エンタテインメントとしては抜群に面白い」

B「彼の文章表現はどうだね」

A「カタカナ英語をふんだんに使用して、ファッション感覚の溢れるシャレた文体だね。

三島由紀夫のような語いの華麗さはないが、というより、語いは平明ではあるが、その

喚起するイメージは豊饒で、深い。なかでも比喩表現が意表を突くようなものばかりだ。

例えば、《脳味噌の代わりに冷凍されたレタスが収まっているような頭》とか、《氷河の

奥に閉じ込められた古代の小石のような目》とか、そんな奇抜な比喩が随所にちりばめ

られている。いったいそんな頭や目が存在するのかと思うが、でもよく考えてみると、

なんとなくイメージがわいてくるんだよ」

  (3)現代社会の不条理を問いかけてはいるが―

B「ところで、キミはさっきヒロインが殺人請負人だといったが、実際に殺人を犯すの?」

A「そうだ、幼児への性虐待をくりかえすカルト教団の教祖を殺すんだ」

B「最後に、彼女は捕まるの、それとも自首するの?」

A「いや、いやそのままもとの《1984年》の世界へもどるんだ」

B「おやおや、オレは勧善懲悪は嫌いなんだが、殺人者がお咎めなしで日常の世界へ復帰

するなんて、少々無責任な話じゃあないのかな」

A「そこが、この小説の大きな特徴をなすところさ。ここでは、現実と非現実が混在して

いるし、善と悪の区別もあいまいだ。だって、正義が正義と対立し、一方の正義が他方

の正義を否定し、抹殺さえするのが現代なんだからさ。正が不正になり、不正が正にな

る不条理を、著者は描きたかったのではないかな」

B「なるほど、わかる気もする。ところで、いつか聞いたNHKの「クローズアップ現代」

だったと思うが、作者は現代社会の持つ個人への圧倒的な影響力に対し、物語を対峙さ

せ、その持つ力で人間性回復への道を考えさせたいというのだが、その点も含めて、キ

ミは全体としてこの小説をどう評価する?」

A「そうだねー、そういう観点から果たしてこの物語が成功しているかどうかは疑わしい

と思う。」

B「ほう、その理由は?」

A「オウム事件をはじめ、宗教問題の本質を掘り下げるには、写実的というか、ドキュメ

ンタリーというか、もっと事実に即したリアリズムの手法でないと駄目だと思う。現実

を捨象した象徴的手法や寓話的方法では、読み物として面白いかもしれないが、問題を

読者に考えさせようというメッセージは、たぶん伝わらないのではなかろうか。少なく

ともボクにはそう思える。未解決のまま放りだされた数々の謎も、社会の不条理を感じ

させるより、謎のまま終わってしまったという不全感だけが残るような気がする」

B「いや、ありがとう。キミの感想が正しいかどうか、オレもこれから読んでみるよ」

(この文章は、わたし自身の意識の中でおこなった自問自答を、二人の分身に託して具象化したものです。)
                  (平成23年2月)


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