酒を愛した友を送る 

「今日の午後4時27分に、主人は逝きました。年を越せると思っていたのですが―」

電話から聞こえる奥さんの声には、すでにその覚悟ができていたのだろうか、むしろ落ち着いた響きがあった。

師走の23日、暮れも待たずに、また親しい旧友の一人が旅立った。

10日ほど前、わたしはK君を自宅に見舞った。部屋に通されると、申し合せていたY君はすでにきていた。掘り炬燵の前にすわっていたK君は、痩せてはいたが顔色は思ったほど悪くはなかった。それでも、挨拶したその声はかぼそく、ささやくようであった。

わたしは手にしていたジョニ黒のケースを、奥さんにわたした。 「お見舞いだというのに、ウイスキ―はないでしょ」と、出かけるときに妻のいった言葉を思い出して、少々気が引けた。だが、数日前、お伺いすることを電話で奥さんに伝えると、「最近はご飯を食べないことはあっても、お酒は欠かしたことがありません」という。ならば、一杯飲むことにしようとY君と相談し、お見舞いかたがたささやかな忘年会をするつもりで持参したのであった。

 やぐら炬燵を囲んで席についてからも、奥さんはいっこうにジョニ黒を開ける気配がない。聞けば、2、3日前から、アルコールも飲めなくなったという。けっきょく、Y君の持参したおつまみをお茶でいただく破目になった。酒なしでK君と向かい合うのは、たぶん中学以来のことではなかったろうか。

 彼は生涯、酒とは縁の切れない男であった。酒といっても晩酌はもっぱらウイスキ―で、角瓶は四日で一本を空けるという酒豪であった。大腸癌の手術をした後で、「肝臓に残ったがん細胞を放射線で治療をするから、断酒しなさい」という医者の助言に逆らい、飲めないぐらいなら放射線は止めるといって断り、飲み続けたほどの酒好きであった。

そのK君が今はもう飲みたくないという。よほど体調が悪いのだと知れた。きちんと座るのも大儀だったのだろう、座椅子に凭れかかった身体は何度も炬燵の中にずりこみ、仰向けになる。そのたびに、「起こしてくれ」というので、わたしたちは彼の両腕を抱えてひっぱり起こしたものであった。

問わず語りの思い出話に、忘れられないエピソードがあった。

「小学生の頃、ミソというあだ名をつけられた。使いで買ってきた味噌を途中の道路わきの溝に落とし、懸命に拾っているところを友だちに見られた。そのときから、みんなにミソと呼ばれてからかわれた」

「そんな話、はじめて聞くわ」と、奥さんが口をはさむが、それに答えず、彼は続ける。

「大阪の幼年学校に行って、やっとそのあだ名から解放され、ホッとした」

あだ名で呼ばれるのが、彼にはよほどいやだったのだと思った。今わの際に、それまで秘めていた昔話を言い残したかったのかもしれない。

秀才だった彼は、当時難関をもって鳴る陸軍幼年学校を中学1年生で受験し、見事合格している。わたしは色弱のため学科試験にさえ進めず、身体検査でふるい落された悔しい思いを重ねながら、彼を羨望の目で眺めたことを憶えている。

敗戦後、中学校へ復帰した彼がわたしのすぐ前の座席に陣取ったときから、彼を知るようになった。それから彼は高等師範学校へ、わたしは経済専門学校へと、それぞれ別のコースを選んだが、最終的には同じ教職の道についた。以来、彼とは何となくうまが合い、長い付き合いが続いていた。

翌日の通夜には、妻と一緒に出かけた。その日は朝から寒波が襲い、テレビはホワイト・クリスマスを予報していた。小牧駅を降りて外へ出ると、寒風が身にしみた。タクシーに乗った。

K君がね、われわれ6人組の忘年会を企画すると、きまって12月24日に設定したものだった。今年は通夜にかこつけて、われわれを呼び寄せたのかもしれない」

そんな話を妻にしながら、わたしはもう何年も続いている中学の旧友6人組の食事会や一泊旅行のことを思い浮かべていた―。そのうちの一人、O君はすでに数年前他界したし、今また一人が逝って、残るは4人になってしまったのだ。

クリスマス・ツリーの電飾が輝き、ジングルベルのかまびすしい街の一郭に、そのセレモニー・ホールはあった。

通夜の読経がすみ、参会者の大半が引き取った後のホールの一隅で、わたしたちは奥さんを囲んで、K君の想い出話を語りあった。

「私を呼ぶのにいつも〈おい〉でした。一度でもいいから、名前を呼んでほしかったです」と、奥さんがいう。

「そうですね。ついでに〈愛している〉とも、言って欲しかったですわね」

と、妻が相槌を打ちながら、わたしの顔をちらと見る。

戦前に教育を受けたわたしたちに、そんなことが言えないことは百も承知しているはずなのに、たぶん妻は奥さんの気持ちを代弁したつもりであろう。

「でも、亡くなる1日前でしたか、急に今池へ連れて行ってくれといいました」

 そこは、わたしの知るかぎりでは、かつてK君が奥さんと過ごした青春の思い出がいっぱい詰まった街だったのだ。

「最後はベッドから手を差し伸べ、わたしの手をしっかり握ってくれました」

そう言いながら、奥さんはハンカチで目頭を押さえた。

明けて25日、告別式では、独り娘の婿さんが喪主として挨拶をした。

「父はいろんなものを愛しました。タバコを、読書を、酒を、家族を、なかでもいちばん愛したのは幼い子供たちでした」

そういって婿さんは声を詰まらせ、しばし沈黙がつづいた。おそらく、万感胸に迫るものがあったのだろう。その静寂の中で、わたしは彼が次に述べるかもしれない言葉を期待していた。

〈それらのものよりもなによりも、いちばん愛したのは、父の妻であり、わたしたちの母でした〉と―。

しかし、彼のその後の謝辞には、その言葉はなかった。

だが、それでよかったと思った。最期に黙って奥さんの手を握るしかなかったK君、その朴訥さを共有している婿さん―、二人ともに、洋画の主人公がしゃべりそうな言い回しは相応しくないのだ。それを一瞬でも期待した自分の軽率を恥じながら、わたしは遠ざかる霊柩車を見送っていた。

(平成23年1月)

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