わが人生の歩み(17

―長男誕生の頃―                        

 伊勢湾台風の悪夢も醒めやらぬ昭和34年12月、私はN子と結婚し、名鉄沿線の有松に造成されたばかりの公団住宅に新居を構えた。長い、すさんだ独身生活の終焉であった。翌年の3月、わたしは組合の半専従の職を辞め、ふつうの教師の生活にもどり、ようやく落ち着いた生活をはじめていた。

 しかし、世の中は騒然としていた。この年は西暦でいえば1960年、言わずとしれた60年安保闘争の年である。6月、全学連(全日本学生自治会総連合)の率いるデモ隊は国会に突入し、そのなかのひとり東大生の樺美智子さんは警官隊と衝突し、死亡した。衝撃は世界に広がった。毛沢東は彼女を「日本の民族的英雄」と讃えた。

 世の中の情勢に呼応するかのごとく、高校の現場でも民主化運動は高まりを見せていた。勤務評定を強行しようとする愛知県の教育行政に対して、愛高教(愛知県教職員組合)に結集する組合員たちの抵抗は強かった。

 そのころのN高校では、教頭を含めて全員が組合員であった。職員会議などでは、校長の独断的な指示や決定に対しては、校務分掌の主任や時には教頭さえもが反対する場面がしばしば見られた。前年、執行委員を勤めたばかりのわたしも、そのような反権力闘争の一翼を担っていた。

 当時、週1回職員会議が行われていたが、そこに指導的役割を演じる先輩教師が二人いた。一人はN高校の定時制からわたしと一緒に全日制に異動してきたFさんで、かつて日教組の中央執行委員として全国をオルグした活動家であった。もう一人は、わたしを愛高教の執行委員に推薦したKさんである。

 二人とも弁舌の巧みさでは、並み居る教員のなかでも群を抜いていた。職員会議の席などで、その発言に聞き惚れたのはわたし一人ではなかった。国語教師のFさんは教師集団の情緒に訴え、社会科教師のKさんは彼らの理性に働きかけるという違いはあったが、どちらの演説も職場を動かす力をもっていた。はじめのうち、わたしはただ説得方法の違いだと思っていたが、どうもそれだけでなく、理論そのものにも微妙な食い違いがあることに、わたしを含めて職場の何人かは気づきはじめていた。

組合活動歴の長い、ある親しい同僚は、ことも無げに言いはなった。

 「Fさんは労農派で、Kさんは講座派さ」

 むろん、それは戦前、労働運動を二分した思想対立を、FさんとKさんに見立てた比喩にすぎなかった。だが、二人の間にあったあつれきは年を経るにしたがい大きくなり、後年、愛知の高教組を真っ二つにする事態にまで発展したのであるが、そのときはまだだれもそれを予想した者はいなかった。

 10月、思想の対立が悲劇を生んだ出来事がもう一つあった。それを知ったのは、帰宅途中、名鉄名古屋駅前でもらった号外からであった。

「浅沼稲次郎社会党書記長、右翼少年に刺殺さる」

紙面にはそんな活字が踊っていた。

「大変なことになったぞ」

「テロの復活か!」

号外を手にした人びとの昂奮した言葉が飛び交っていた。聞きながら、わたしは今し方別れてきたわが子のことを思い出していたー。

 その数日前、妻は学校の近くのS病院に入院し、夜の8時ごろ長男を出産した。呼ばれて病室に入ると、妻はベッドに横たわり、その横に置かれた小さなベビーベッドの中には、赤子がスヤスヤと眠っていた。生まれたばかりにしては、目鼻立ちがしっかりしているというのが、親馬鹿の第一印象だった。

そのとき、わたしの胸には突如、こみ上げてくるものがあった。産みの苦しみに耐えた妻へのいたわりの気持ち、わずかながらじょじょに芽生えてくる父親としての実感、これから大変だという責任感の重み、そんな入り混じった感情が全身をおおい、わたしは赤子を見つめたまま立ちつくしていた。

産後の肥立ちは順調であったが、大事を取って妻は10日ほど入院した。わたしは職場の帰りに毎日見舞いに立ち寄っていたー。

そんな矢先の浅沼書記長刺殺事件だったのである。そのときの記憶がいまなお脳裏に残っているのは、生まれて間もないわが子を見舞った帰りだったからであろう。この世に生を享ける者があるかと思えば、一方では不法にも生を奪われる者があるー。家路に向かう満員電車のなかで、わたしはそんな生と死の織りなす人生の無常をつくづく思い知らされていた。

                    (平成21年11月)

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