わが人生の歩み(16)

ー 台風、そして結婚 ー


忘れもしない昭和34年9月26日、わたしは学校へ出ていた。1日置きに通う学校には残務が滞っており、土曜日であったにもかかわらず、午後も居残って仕事をしていた。

しばらくすると、校内放送が台風接近を伝え、クラブ活動を中止して帰宅するよう指示した。生徒たちの群に混じって校門を出たのは、3時過ぎだったと思う。

途中、上飯田の駅前で中学時代の旧友に会い、ヤキトリ屋で一杯やった。店のラジオからニュースが流れ、台風15号が潮岬付近に上陸したという。

「かなり大型らしいな。でも、名古屋は大丈夫だよ」

「そうだな。名古屋には来たことがないから。だが、早めに帰ろうか」

外に出ると、なま暖かい一陣の風がほてった頬をかすめた。暮れそめた街には人通りは少なく、妙に静かだ。思えば、嵐の前の静けさだったかもしれない。

 家に帰り、夕食をすませ、8時頃になると風はかなり激しくなった。戸がガタガタと鳴り、柱がミシミシ音を立てはじめた。

その頃、わたしは犬山街道沿いの春日井の実家に住んでいた。父が若いころ材木屋で太い、良質の柱などをみずから選んできたと自慢するだけあって、40坪ほどの平屋建ての家は、頑丈そのもので、これまでの強い風にはびくともしなかった。ところが、その家があろうことか悲鳴をあげている。それでもまだわたしは、強い風の音に血の騒ぐ子どものように、むしろ勇み立っていた。

9時頃から10時頃にかけて、東風が南風に変わった。暴風はますます激しさを増し、数秒おきにグワッと襲う突風に合わせて、家全体が大きく撓いはじめた。轟音とともに、柱や天井がメキメキと軋む。はじめて、台風の怖さに五体がふるえた。

異変を察知した父と兄が座敷の畳を揚げ、廊下へ運びはじめた。

「雨戸が外れガラス戸が割れたら、風がまともに入る。そうなったら、家もろとも吹き飛ばされるぞ!」

父の緊迫した声がながれる。一家総出で、6、7間もあろうかという長い廊下のガラス戸に内側から畳を当てがい、後ろから押さえつけた。風の勢いに負けまいと無我夢中であった。それでも、数秒おきに襲う突風で、立てかけた畳は2、30センチは後ろへ押しやられる。これ以上めり込めば雨戸がはずれ、窓ガラスが割れる。そうなれば屋根が吹っ飛び、家が倒れる。倒れたら一家全滅だ。ただただ、必死に押さえた。

電灯はとっくに消え、真っ暗やみの中、懐中電灯の明かりだけが頼り。外では、風の音に混じって人の叫ぶ声、木の裂ける物音、吹き飛ばされた瓦が何かにぶつかる音地獄の阿鼻叫喚とまごうばかりだ。

 そんな悪戦苦闘がどのくらい続いたであろうか、嵐がようやく峠を越えたのは、もはや深夜であった。懐中電灯をたよりに、家の中を点検する。雨戸や窓ガラスは無事であったが、天井からは雨漏りし、廊下は隙間から侵入した風雨で水浸しであった。

翌朝、外に出てみると、あたりの景色は一変していた。庭の木々はほとんど倒れている。ニワトリ小屋や納屋の屋根は吹き飛んでいた。往来に出てみると、通りのすぐ前にあった新築中の家が全壊している。柱がすべて折れ、三角の屋根がそのまま地面にへばりついていた。

その日の午後、父や兄といっしょに、見る影もなく荒れ果てた庭の清掃や後片づけをしていると、突然N子が現れた。「わたし、心配だったから来ちゃったー」

N子とは、その年の12月に結婚することになっていた。中村区にあった彼女の勤め先の寄宿舎はコンクリート建てで、台風の被害からは安全であったが、それでも一晩中、親兄弟や婚約者であるわたしのことが心配でならなかったという。夜が明けるや、不通になっていた市電や小牧線が開通するのを待ちうけ、何時間もかけてたどり着いたのである。しかも、実家を見舞う前に、まずわたしの安否を気遣って来てくれたことを知ると、うれしくもあり、またいじらしくもあった。

明くる月曜日、組合に顔を出すと、すでに何人かが出勤しており、電話で被害の確認に大わらわであった。ラジオも次々に県内の状況を伝えている。名古屋市の南部や三重県の沿岸地帯では、満潮と重なったため高波が襲い、多くの家屋が流失し、いまも水没しているという。失われた人命も何百人もあるらしい。あまりの痛ましさに、われわれは声を失っていた

それから何10日かは、学校も、組合も、台風の後始末に忙殺された。会計係のわたしは救援資金を持って知多半島のいくつかの学校をまわった。その地方の被害も甚大で、床上浸水はもちろん校舎の倒壊した学校もいくつかあり、生徒の死亡した学校も多くあった。

まもなく、あの日が巡ってくる。とくに今年(平成21年)は伊勢湾台風50周年だという。この台風で亡くなった人の数は、最終的には5,000人を超すといわれる。大切な人を亡くした遺族の方たちの思いはさぞ痛切なものがあるであろう。その悲しみに比べれば、わたしの経験した一夜の恐怖など、多分ものの数に入らない。しかしそれでも、あの台風の襲った9月26日と昭和34年とは、わたしにとって忘れられないのである

その日は、奇しくも妻N子の誕生日であり、またその年は、わたしたちの結婚した年でもあるからだ。そして50周年記念といえば、わが結婚歴で金婚式の節目に当たる。そのことに思いを馳せると、被害に遭遇された方たちの冥福を祈りながらも、これまで生きてこられた幸せをつくづく思わないわけにはいかない。

                          (平成21年7月)

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