わが人生の歩み(15)
ー 組合役員となる ー
「あなたに、白羽の矢がたちましたよ」
会議室に居残ったわたしに、Kさんはいきなり言った。寝耳に水であった。
「本校からひとり、組合の執行委員を出すことになってネエー。有志のものでいろいろ人選したのですが、ほかに人がいないんですよ。ひとつ名古屋地区の代表として、愛知の反動行政と闘ってくれませんか」
そのころ、N高校でも月に一度ほど授業後に教育研究集会が持たれていて、新しい民主教育はどうあるべきかが熱っぽく話し合われていた。そんな集会が終わったある日、わたしはKさんに呼び止められ、その話を聞かされたのである。
「でも、ぼくには荷が重すぎです」
はじめは断った。教師集団を後ろから支えることはできても、先頭に立って引っぱっていくだけの能力もエネルギーもないことは、自分自身がいちばんよく知っていたからだ。
「いや、いや、若いあなただったらできますよ。これは皆さんの声です」
後年、愛知のホー・チミンといわれた活動家のKさんは、人をその気にさせる名人でもあった。その口説きに、けっきょくは乗る羽目になってしまった。わたしはいわゆる組合活動家のタイプではなかったが、思想的には当時の丸山真男や清水幾太郎に傾倒し、何とかして教育の現場にも、日本社会全体にも、本物の民主主義を根づかさなければならないという気持ちだけは人並み以上にあった。Kさんの鋭い目は、それを見逃さなかったのだろう。
昭和34年、わたしは愛知県高等学校教職員組合、俗称愛高教の執行委員となった。それは、わたしにとって初めて経験する組合役員としての立場であった。
経済白書によれば、この年は岩戸景気のピークにあたり、テレビの契約数は100万台を突破、街中が好景気に沸いていた。しかしそのいっぽうで、教師社会には二つの嵐が吹きはじめていた。ひとつは、前年に実施の決まった教師の勤務評定に反対する運動であり、もうひとつは、翌年に改訂を控えた日米安全保障条約への反対闘争であった。後者は、いわゆる60年安保闘争として、いまも政治運動の歴史にその名を留めている闘争であった。
当時、愛高教の本部は、愛知県庁の裏手にあった粗末な木造の二階に置かれていた。わたしは1週間に3日、その本部に通い、そして残りの3日は学校で授業を受け持つという、半専従の勤務形態につくことになった。
本部には、委員長と書記長のほか、わたしを含めて5人の執行委員がいた。執行委員の仕事としては、1週間のうちの初めの1日は、それぞれ選出母体である地区の代議員会に出席し、そこで各職場の問題点を集約するのである。たまたまT地区は、選出の執行委員が不在であったので、わたしは代理としてその地区にときどき出向いていた。
2日目は、本部で行われる執行委員会に出席し、各地区から持ち寄った問題を協議することになっていた。そこでは、あらゆる問題ー大は政治や教育の全国情勢から、小は職場の福利厚生にいたるまでーが取りあげられ、それに対する対策や運動方針が練られた。いままで、狭い教室の生徒だけを対象にものを言ってきたわたしにとっては、それはまるで異次元の世界であった。
3日目は、各執行委員が分担する仕事をこなす日であった。わたしの分担は、組合費の会計で、5,000人ほどの組合員の拠出する組合費の出納処理である。
しかし、これが難題であった。毎月の組合費の徴収のみならず、各地区の会議のたびに出される交通費や諸雑費の請求に応じて、金銭の支出をしなければならないのである。銀行振り込みなどない時代で、総額数100万円にも達する規模の仕事は、専任の女性事務員が手伝ってくれたものの、大変な作業であった。なんどソロバンをはじいても、帳尻が合わないこともある。そんなとき、家へ持ち帰った仕事は、深夜にまでおよぶ。
「会計など、引き受けるのじゃーなかったよ」
執行委員会の日はたいてい居酒屋で同僚と飲むことになるが、酔うと口をついて出るのは愚痴であった。なにしろ、むかし経専で会計や簿記を習ったとはいえ、そんな仕事がイヤで英語教師の道をえらんだ身である。それがいまや、会社勤めのサラリーマンと同じことをしなければならないとはー。
だが、同僚の組合員たちの見る目は、ちがっていた。
「あんたはよくやるよ。さすが会計学を学んだだけはある」
お世辞だとわかっていても、自分の経理能力もまんざらではないかと、萎える心を奮い立たせ、会計簿のページを繰ったものだ。
夏休みは、一般の教師とちがって組合役員にはもっとも忙しい時期となる。さまざまなレベルの行事が、このときとばかり目白押しに並んでいた。各種の研究会のみならず、次第に激しさをましてきた勤評や安保の反対運動への参加要請も増え、ひとときも休まる暇はなかった。
こうして、忙しいとはいえ、まだ平穏な日々の連続であったその年の夏休みもようやく終わった。そして2学期がはじまってしばらくたったとき、あの出来事が起こったのである。組合活動とは無縁の、それゆえだれも予想しなかったあの出来事がー。
(平成21年6月)
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