(20)きびしかった新設校 

C高校へ転任した昭和39年は、少し前から始まっていた高度成長がいよいよ本格的な発展期を迎えようとしていた時期である。その火つけ役となったのが、東海道新幹線の開通(10月1日)と東京オリンピック(10月10日〜24日)であった。

 オリンピックは、わが国はじまって以来の一大イベントで、国中がテレビに釘づけになったことを憶えている。とくに開会式は、10月10日(土曜日)の午後行われ、その日のテレビ視聴率は各社を合計すると80%を超えている。

当日、宿直当番になった同僚の言葉が、今でも脳裏に残っている。

開会式に宿直が当たるとは、情けないよ。でも、パレードがカラーで見られるから、まっ、いいかー」

〈オリンピックはカラーで!〉というコマーシャルに乗せられたわけでもあるまいが、まだ一般家庭では珍しかったカラーテレビが、C校の宿直室には新しく備えつけられていた。

しかしオリンピックを別にすれば、この年、わたしは世の中の情勢にほとんど無縁であったといっていい。この学校の新しい仕来りに慣れるのに、必死だったからである。それほど、ここはあらゆる面で前任校とは異なっていた。ようやく、校内の情況が呑みこめるようになったのは、赴任して1年がたった頃であった。

ほとんどの学校では、1年を三つの学期に分ける3学期制を実施していたが、ここでは五つに分ける5期制が採られていた。5月、7月、10月、12月、3月の各期ごとに定期試験が行われ、それが終わると教師・生徒・保護者による三者会談が開かれる。通知表などの成績資料はすべて、その三者会談で保護者にちょくせつ手渡されることになっていた。進級条件はきびしく、年度末には各学年で数名の生徒が原級留置、つまり落第の憂き目をみた。

生活指導もそれに劣らず厳格で、制服・制帽はもちろん、鞄や持ち物には細かな規定があり、毎週1回行われた全校朝礼(当時はアッセンブリーと呼ばれていた)では、それらがチェックされ、違反する者には生徒指導部からの厳重な指導がなされた。そのほか、登校時の遅刻や下校時の飲食店立ち入りは厳禁であったし、とくに他校との大きな違いは、男子の長髪が禁止されていたことである。

今から考えると、ここまでやるかという指導体制であったが、当時の生徒は素直に聞き入れ、いじらしいほどの頑張りを見せていた。C校のこのような教科指導や生活指導のきびしさは、その後に創られたいくつかの新設校のモデルとされた。

職員の勤務条件もきつかった。毎日の授業は、だいたい3時には終わったが、教員が4時前に帰ることはご法度とされた。

教科指導については、すべての教員が年間の教案を立て、教務に提出することが義務づけられていたし、年に1度は校内研究授業を実施しなければならなかった。

研究授業当日、担当の教員は朝から緊張をかくしきれない。校内だけの研究会といっても、そこには同一教科の教員全員のほかに、校長や教頭をはじめ各主任も参観するからだ。そのうえ、事後には反省会があって、授業の仕方が逐一検討されるのだ。

さあ、飲みに行くぞ」

会議が終わると、英語科教員の何人かは担当者の労をねぎらって、帰宅途中にある飲み屋で一杯やるのが恒例であった。

会議といえば、その最大のものは職員会議であるが、ここでも他校のそれとは大いなる相違があった。職員会議は伝達機関であって、議論したり決定したりする場ではなかった。学校運営のすべては、校長みずからが主宰する校務委員会(各分掌の長で構成)で決定された。したがって職員会議では、教員はその決定事項に異を唱えることは許されず、ただそれをいかに支障なく実施していくかについて話し合うだけであった。

新しく転任してきた職員の中には、職員会議で自由に意見を闘わせながら方針を決定していくという、前任校のやり方に慣れていた者が多くいて、彼らはこの学校の上意下達の管理体制に疑問や不満を抱きはじめていた。

一方、T校長は律儀で部下思いの校長であった。家族主義的というか、教員を自分の家族の一員のように接し、よく面倒を見た。正月には、職員を全員自宅に招待したりして、相互の親睦をはかる人情校長でもあった。しかし、自分と違った考え方をもつ部下を受け入れる寛容さには乏しかった。それは、ある意味では、信念の人に共通の姿勢といえるかもしれなかった。

その頃のわたしは、T校長に思いのほか可愛がられたものであった。だが、蜜月関係は長くは続かなかった。きっかけは、やがて来るべくしてきた職場組合の結成であったー。

                     (平成22年9月)

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