(19)慌ただしかった次男の誕生 

その日は、球技大会にふさわしい好天に恵まれていた。周りに広々とした造成地が広がっている運動場では、生徒たちが春の陽をいっぱいに浴びて、バレー、テニス、ソフトボールなどに興じていた。

1年のクラス担任であったわたしは、自分のクラスの試合を応援するために校庭の片隅を通って、運動場へ向かおうとしていた。そのときである。後頭部にとつぜんガーンと衝撃がはしり、わたしはその場で気を失って倒れた。

気がつくと、わたしは保健室のベッドに横たわっていた。

養護教諭の話では、野球の硬球が後ろから私の頭を直撃したという。そういえばたしか、通りすぎた校舎横で、2人の生徒がキャッチボールをしていたようだー。

保健室でしばらく休んだ後、わたしは家までタクシーで送られ、そのまま近くの病院に検査入院をした。脊髄に太い注射針を刺しこまれ、髄液を取られた。その痛さたるや、いま思い出しても身の毛がよだつほどである。

病院では、頭の痛みをこらえながら眠れない夜を過ごした。翌日、担当医から告げられたことは、今のところ脳内出血はないが、後になって出血する恐れもあり、当分は安静が必要だということであった。さいわい、学校は球技大会の最中で、授業の心配はなく、休みの明けるまで家庭で休養することになった。

だが、家の中はのんびりできる雰囲気ではなかった。妊娠中の妻には、出産予定日があと数日に迫っていたからである。

急を聞いて駆けつけたわたしの母は、妻を助けて家事をするやら、病人の面倒を見るやら、甲斐甲斐しく働いてくれた。その間にも、ボールをぶつけた生徒の親が謝りにきたり、T校長が見舞いにやってきたりして、その応対にも心くばりする母の姿に、わたしは久しぶりに子供に返ったような懐かしさと安心感をおぼえていた。

それから数日たった5月3日、わたしの体調も峠を越えたので、取るものもとりあえずやってきた母は一度家へ着替えなどを取りに帰りたいといった。しかし、妻の出産予定日は明日に迫っていた。

「おかあさん、明日が予定日なんですがー」と、いう妻に、

「予定日に生まれることなど、滅多にないけどねー」

と、母は笑いながら返したが、それでも万一に備えて、その夜は泊ってくれた。

ところが、時計が12時を打って4日になったとたん、妻の出産の兆候がはじまった。深夜一時、妻と母はわたしと3歳半の長男を残し、隣町の産科医院へタクシーで直行した。

昼ごろ戻ってきた母から知ったことだが、経過は順調にすすみ、午前6時46分、3・9キロの男児を無事出産した。予定日ピタリであった。

次男に対面したのはその2日後、わたしの体調も回復し、ようやく学校へ出たその帰りであった。

ところが、医院ではじめて見る次男は、顔一面が赤紫色だった。驚きのあまり一瞬、わたしは息をのんだ。わたしの怪我が事なきを得たのは、この子が身代わりになって災難を一手に引き受けてくれたせいかとさえ思った。

妻に問いただすと、チアノーゼだという。

「生まれたときは、もっとひどかったわ。わたし、この子の面倒を一生見ようと思ったくらいー」

しかし、1週間後、次男のチアノーゼは治り、妻も元気になって、母や長男の待ちわびるわが家へもどってきた。

抱き上げた子供は、腕の中でずしりと重かった。思わず、わたしは心の中でつぶやいた。

《いい子だ。父親の事故をものともせず、きっちりと予定日通りに生まれてくれたね。そんな子は20人に1人だっていうよ。しかも、チアノーゼとも闘って勝ったんだ。きっと、律儀で、意志の強い子かもしれないー》

わたしは直樹と命名した。平凡ではあるが、天空を目指してヒノキのようにまっすぐに育ってほしいという願いからであった。                           (平成22年6月)

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