昭和39年は、わたしにとって記念すべき年であった。それまで11年間勤めたN高校に別れを告げ、新設2年目のC高校に転任したからである。34歳であった。
実はその2年前、わたしは名古屋市外のO市にある高校へ転任の内示をもらった。そこは、かなり名のある伝統校だったが、市外であるうえに通勤時間もかなりかかるということもあって、わたしは苦情を出した。教頭を始めとする職場の分会も、愛高教本部も強力に援助してくれた。お陰で内示は撤回され、あらためて組合の力を感じ、協力してくれた同僚たちに感謝した。
しかし、一方でわたしの心は複雑であった。むろん、教員に転任は付き物だということは頭では理解していた。が、いざ自分の身に降りかかると、《なぜ自分が》という思いが頭をもたげる。4年前の組合執行委員としての活動が祟ったのか、それともすでに施行されていた校長による勤務評定が芳しくないせいかー。
内示は取り消されたものの、そんな思いが心のしこりとして残った。それは譬えていってみれば、剥がれ落ちたジグソーパズルのワン・ピースを無理に押し込めたときの感じとでもいおうか、なんとなくちぐはぐな違和感であった。
だから、その2年後C校への転任内示をもらったときは、来るべきものが来たかと、むしろさばさばとした気持ちでそれを受けた。
さて、C高校はいまでは発展著しい東部に位置する進学校としての伝統を誇っているが、当時は市内といってもまだ市バスも満足に通らない新開地に、学齢期に達したベビーブームへの対応策としてつくられたばかりの新設校であった。
3月の末、内示を受けてはじめて出向いたときのことは、今でも脳裏を離れない。
その日はちょうど雨の日、4月も間近というのに風は冷たかった。郊外の停留所でバスを降りると、まだ舗装のされていない大通りはぬかるみの連続であった。北の方へ目をやると、小高い丘の上に一棟だけコンクリートの建物がポツンと見える。それが学校だった。
あたりはすべて造成中の宅地と畑ばかり、通学路には雨水が溢れ、まるで浅瀬の川のようになっていた。ズボンのすそをまくり上げ、側溝にはまらぬように注意深く歩きながら、ようやく学校の敷地に足を踏み入れた。
そのとき、市内とはいえこんな辺鄙な片田舎で、これから先何年勤めることになるだろうかという思いが、一抹のさみしさとともに突如としてわたしを襲った。
だが、初対面のT校長は小柄で上品な紳士、話し方にも優しさがあふれていた。
「本校は新設2年目ですが、今年度はじめて、間借りしていたM高校からここへ引っ越してきました。先生方はみな新しい学校づくりに燃えています。あなたもこれまでの経験を生かして頑張ってください」
T校長の励ましの言葉を聞いているうちに、わたしの心には新しい職場で働くことの気構えが少しずつ芽生えていた。
県下の多くの新設校が特色を出そうと競い合っていたが、C校も既設校とはかなり違った校則や行事をもっていた。たとえば、男子生徒は短髪ときまっていた。始業式当日、講堂に並んだ男子生徒の丸坊主姿を見て、わたしはむしろそこに高校生らしい素朴さと勉強への意気込みを感じとったものであった。
また学校行事も、ひと味ちがったものがいくつかあった。そのひとつとして、ゴールデン・ウイークは休みではなく、なんと、全校挙げての球技大会が行われることになっていた。
4月29日の天皇誕生日、わたしは妻に見送られて家を出た。
「あなた、気をつけて―。わたしはこんな体だから駅までついていけないけどー」
妻は二人目の子を身ごもっていて、出産日が迫っていた。その声を後ろに、今日から始まる球技大会への期待に心を弾ませながら、わたしは駅への道を急いでいた。
その日、わが身に降りかかる椿事のことなど、つゆ知らずにー。
(平成22年5月)