ゴールデン・ウィークの押し迫った4月の23日、フロリダにいる姪のジャンから久しぶりに英文のメールが届いた。
「ハロー、クニオ。ビックリさせてすみませんが、4月28日に、母ヤスコと娘や孫を連れて訪日します。滞在日程は10日間です。ついては、グランマーを見舞いたいので、彼女のナーシング・ホームの近くに、B&Bのホテルを探してくれませんか」
とある。文字どおり、サプライズだった。
「ホテルじゃなくて、うちで泊まってもらいましょうよ」
と、話を聞いた妻は言った。わたしも同じ思いだった。
3年前、わたしたち夫婦は10日間ヤスコの家に滞在したり、ジャンの家にも泊ったりして、その間、親身になって世話をしてもらっているからだ。その間の詳細は、「フロリダ滞在記」(『なごやか60号』平成19年)に書かせてもらった。
さっそくヤスコの実家に電話をすると、跡取りの嫁Iさんは、
「何を言っているのですか、そんなホテルなんてー。ヤスコさん一家は、わたしの家で泊まっていただきます」
という。けっきょく、基本的にはヤスコの実家が面倒を見、後半の何日かはわが家も引き受けることに相談がまとまった。
それはともかく、この訪日はすべてジャンが手配した。
それというのも、去年、親戚一同が集まって、100歳を迎えた叔母、つまりヤスコの母であり、ジャンのグランマーに当たる人のお祝いの会を開いたとき、ヤスコはその会に都合で出席できなかった。それに、今年の初めころ、101歳を迎えた叔母は体調を崩し、一時は医者にもう危ないと言われたこともあって、孝行娘のジャンは、今回の旅行は母ヤスコがグランマーに会える最後の機会だと思ったのであろう、忙しい身の寸暇を割いて、ヤスコの里帰りを実現させてくれたのだ。
さて、夜遅く来日した翌日の午後、ヤスコ一家は叔母に面会するため、地下鉄S駅の近くにある介護施設のW荘を訪問するというので、わたしは妻と一緒に出かけた。
W荘の見晴らしのよい屋上でわたしたちは合流し、車椅子の叔母をはさんで談笑した。
写真を撮る段になって、あらためて彼女らを眺め、驚いた。なんと、一堂に会しているのは5世代なのだ。真ん中の叔母を囲んで、右には娘のヤスコとその娘のジャンがおり、左にはジャンの娘のジェニファ―とまたその娘のジョスリンがいる。叔母からみれば、娘、孫、ひ孫、やしゃごという5世代の、まさに生ける家系図である。
実家に滞在している間、ヤスコはできるかぎり母親を訪問し、親睦の時間を過ごしたというし、後半わが家へやってきてからも、近隣の行楽地や和食料理店などで、不十分ながらも日本のゴールデン・ウィークを堪能したようである。充実の10日間を終えて、帰途についた。ヤスコには、もう思い残すことはなかったにちがいない。
数日して、ヤスコから電話がかかってきた。
「クニちゃん、お世話になってありがとう。あなたも身体に気イつけて、100歳まで生きてちょうだい」
奈良育ちのヤスコは、いまだに関西なまりが抜けない
「ハッハッハッー、なにを冗談をー。いや、こちらこそ高価なお土産をありがとう。でも、100歳なんてムリもいいとこ―。せいぜい米寿だね。次の目標は88歳にするよー」
そのとき、二人には100歳を超えた叔母のことが念頭にあったのはたしかである。だが、わたしはヤスコがわが家で語った言葉を思い出していた。
「あんな母を見ると、早く父のところへ行ってほしいと思うわ」
ちなみに、ヤスコの父は平成9年、96歳で他界している。
W荘で見た叔母は、体調は回復してはいるものの、耳は去年よりいっそう遠くなっていたし、実の娘のヤスコのことさえ本当にわかっているかどうか、覚束ないように思えた。 そんな母の姿が、ヤスコには耐えられなかったのだろう。
でも、親思いのヤスコが、自分の母親の長生きを願わないはずはない。そんなアンビバレントな心情が、わたしに対して《感情転移》を生み、《100歳まで生きて》という言葉となって表れたのではなかろうか。
あの日、車椅子の叔母に寄り添い、いつまでも手を握りつづけていたヤスコの姿を、わたしは生涯忘れることはないであろう。 (平成22年7月)