流行語に思う

去年の晩秋、神戸に一泊旅行したときの話である。夕方、長男の家族と合流し、六甲山系の摩耶山に上った。長男の運転する車で、照明のついた紅葉の山道を進みながら、一行は窓外の風景を楽しんでいた。外は小雨であったが、山腹から眺める神戸の街の夜景はすばらしかった。さすが、三大夜景のひとつである。

そのとき、今年それぞれ大学1年と高校1年になる孫娘たちが後部座席で話しているのが、耳にはいった。

「これ、やばいよ」「そう、そう、やばい、やばい」

たしかに、細いピンカーブの山道は危険だ。ひとつ間違えれば、谷底である。

「あなたたちのパパは安全運転だから、大丈夫よ」と、妻が言う。

「違うよ、おばあちゃん。この景色がやばいと言っているの!」

「え! 景色なんか危なくないよ。なに言ってるんだ? こんなきれいな紅葉と夜景を―」

〈やばい〉は危ないという意味でしか理解していなかったわたしは、思わず口をはさんだ。

その場はそれですんだが、家に帰ってからも孫たちの言葉が気になって、手もとのいくつかの辞書を繰って〈やばい〉を調べてみた。しかし、それらしい意味の記述がない。こういうときはネット検索にかぎると思い、〈やばい〉をネットで洗い出してみると、〈すごい〉とか〈楽しい〉という意味で使う若者言葉だと判った。

危険な状況を意味する〈やばい〉が、どうして〈すてき〉になったのか。わたし流の語源談義を記せば、人間なにか心を惹かれるものがあると、それに嵌りすぎて我を忘れる。熱中が度を過ぎれば中毒になるかもしれない。そうなっては〈やばい〉。そんな気持ちが、言葉のこのような使い方を生みだしたのだろう。語源的に正しいかどうかは分からないが、我流の直感的想像である。

若者言葉をつくりだすのは、大半がテレビであろう。しばらくテレビを見ないでいると、耳なれない言葉に出会ってとまどうことがある。

「〈すべらない話〉って、どういう話なの」と、ある日妻が訊いてきた。そういうタイトルの番組がテレビ欄に載っているという。

「ほう、たぶんこれを見たら受験に〈すべらない〉という教養番組かな?」

そう言いながら、ひょっとすると新手のクイズ番組かもしれないとも考えて、その番組を見た。ところがあにはからんや、お笑い番組である。

「〈すべらない〉からには〈すべる〉話があるはずだが、〈すべる〉ってどういう意味だろう」

さっそくネットで調べることにした。「ウエッブ大辞林」には、俗語として「冗談などで受けをねらったのに外れてしまうこと」とある。さらに別のサイトの新語辞典には、「〈すべる〉とはギャグやネタがうけないこと。1990年代から上方芸人が使用。90年代末には若者を中心に広く使われるようになる」と解説している。してみれば〈すべらない話〉とは、〈面白く受ける話〉ということになる。

ここでまた、わたしの好奇心は語源の探究にうごめく。おそらく面白くない話は聞く者の心に残ることなく、耳の端をかすめて〈うわすべり〉していくだろう。反対にいい話は、〈腑に落ちる〉し、胸の底に残る。落語の〈落ち〉も案外そんなところにあるのかもしれないと、勝手な想像をめぐらす。

 言葉は使っているうちに、だんだん意味が〈ずれ〉てくる。歴史的にみれば、言葉は〈ずれる〉ことによって意味を増殖させ、豊かになっていくものである。〈ずれ〉を言葉の乱れとして忌避していたのでは、時流に置いてきぼりにされるだけでなく、言葉の流れそのものからも疎外されるだけである。

孫たちの流行語に興じる姿は、もって「他山の石」としなければなるまいと、最近テレビや週刊誌から遠ざかっているわたしは思うのであった。

                           (平成22年3月)

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