怪我っぽい男
むかし読んだ小林秀雄の随筆だったろうか、対談集だったろうか、「自分は怪我っぽい男」という言葉があったように記憶している。どんな文脈かは思い出せないが、その言葉だけは妙に生々しく、脳の片すみから消えない。たぶん、自分の身に引き寄せての思いが、そうさせたものと思う。
平素から運動神経には自信がなかったし、そのうえ愚図のあわてん坊ときている。かの文豪に劣らず、わたしも怪我に付きまとわれる生涯であった。
不思議なことに、わたしの怪我は左半身にかぎられている。これは想像だが、おそらく右側は利き腕の反射神経が防御してくれたのであろう。だが、それが左側までカバ―できなかったことから鑑みるに、わたしの反射神経はかなりお粗末にできているようだ。
幼児期、近所の悪戯小僧にガラス片で顔面を切られたのも左側だったし、父親との遊戯中に脱臼したのも左肩だった。その詳細は、『なごやか』(67号)「セピア色の久居の町」に書いたとおりである。
長ずるにおよんでは、中学1年のときである。体操の時間にハードル競走があり、飛び越えたと思いきや、片方の足がハードルの横棒に引っかかり、転倒。激しい痛みもさることながら、左手首がカギ形に変形したのを見て仰天、危うく気絶しかけた。駆けつけた体育の先生がその場でわたしの手首を引っ張ると、さらなる激痛が走ったが、手首は原型を回復。近くの接骨医へ駈け込んで治療を受け、その後は1か月以上、三角巾をつけて通学する羽目になった。
その頃の中学では、部活動は剣道か柔道が必修であった。剣道では、脳天を叩かれて痺れたことがあったので敬遠、柔道を選んだ。だが、ここも見た目ほど楽ではなかった。2年生のとき、左肋骨の2本にヒビが入ったり、手足のあちこちを捻挫したりした。
3年生のときは、勤労動員先の小牧飛行場で作業中、土砂を積んだトロッコとトロッコの間に左足首を挟まれた。くるぶしが三倍ぐらいの太さに膨れ上がり、担任の先生に負われて家まで送ってもらったことを思い出す。
教師となってからも、怪我の神様はなかなか放免してくれず、転勤するたびに事故に見舞われている。
C高校では、硬式野球のボールを頭に受けて失神、入院した。事のいきさつは同じく『なごやか』(69号)「慌ただしかった次男の誕生」に記した。
次に転任したS高校では、正月3が日の明けた4日、休日出校のため駅まで自転車で急いだときである。凍結した道路の曲がり角で自転車もろとも横転、左肩を地面に激しく打ちつけた。見送っていた妻が駆けつけ、帰省中の長男の車で外科医へ直行する。子供の頃と同じ左肩を脱臼、のみならず今度は骨折の重傷。1か月半、入院した。
公立高校最後のA高校に勤めたときは、定年間際だったし、今さら事故でもないだろうと高を括ったのが間違いだった。ある年の冬、生徒のスキー合宿に同行し、赤倉に行った。初心者コースの生徒たちに混じって、スキーを初経験することにした。
止まり方がわからず、若い教師に尋ねると、
「尻をついて転べば、止まりますよ」という。
滑りはじめたが、そこは傾斜面、だんだんスピードが増した。危ないと思って、言われたとおりに尻もちをついて転んだ。だが、左ひじを雪面についたとき、肩甲骨に激しい痛みを感じた。ほかの付き添い教師や生徒たちの手前もあって、何食わぬ顔で立ちあがったが、傷みはかなりひどかった。ひとまず、宿へ帰って休むことにした。
その帰途である。ゲレンデの端の小道を歩いていると、向うから一人のスキーヤーが滑り降りてきた。すごい勢いである。危ないと思って右へ寄った途端、正面衝突。わたしはまたもや転倒。左の肩甲骨はふたたび地面に叩きつけられた。後で聞くと、彼も初心者で、方向転換ができなかったようである。
泣きっ面に蜂であった。その場でスキー場の診療所を訪れると、ひどい肉離れだという。有難いことに、そこは有名な温泉地である。合宿の終わるまで数日間、温泉療法に励むことができたのは、不幸中の幸いであった。
(平成22年11月)
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