《妻の小さな奇跡体験》(その4)
―息子が帰ってきた!―
もう10年も前のことであるが、妻は今でもあの日の出来事をありありと思い出すという。
この近くにはJICA(国際協力機構)の研修センターがあって、そこではアフリカ、中南米、アジアなどから多数の人々を受け入れていた。彼らは一定期間、近辺の会社や工場に通い、いろいろな職種の技術を習得するのである。
その研修センターでは、年に一度、地域の人たちと交流パーティーを開いていたが、英会話の勉強をしている妻は、外国人と会話ができるのが楽しいらしく、よく出かけていたものだ。
ある年の秋祭りの日に、恒例のパーティーが行われた。妻は数日前から風邪でふせっていたが、その日は気分も良くなったので顔を出すことにした。
会は立食形式で、テーブルには外国研修員たちが手作りしたそれぞれの国の郷土料理が並べられてあった。料理を食べなら、妻はたまたま一人のアフリカ人と話す機会があった。名前はソロモンといい、年の頃は40歳前後、背の高い、陽気な人柄で、聞けば、故国の大学で化学を教えていたという。そして今は、瀬戸市のある工場でセラミックスの技術を学んでいるらしい。
当時、JICA職員の次男はアフリカに派遣されていたこともあって、かの地の事情を知りたかった妻は、彼と話が弾んだ。閉会のあと、妻はもっと話を聞きたいと思い、
「夫も喜ぶと思うので、一度わが家へ来ませんか」と誘った。
それから何日かたったある土曜日の午後、わたしはたまたま用があって外出中であったが、ソロモンは一人のアフリカ人女性を連れてやって来た。同じセラミックスの勉強をしている同郷の仲間だという。妻は下手な英語を使い、相手もたどたどしい日本語を交えながら、アフリカの現状や彼の家族のこと、日本での生活などについていろいろ語り合っていた。そのうちに、話がわが家の息子のことに及んだ。
(以下、話の内容を日本語に置き換えて書く。)
「わたしの息子は、いまザンビアにいる」と妻が言う。
「えー? ザンビアだって? それ、ぼくの国だ! で、ザンビアのどこに?」
と、驚いたソロモンが聞き返す。
奇跡のとびらが開きはじめたのは、そのときであった。
「ジャイカに勤めている」
と言って、妻は息子の名前を告げた。
「えーと、その名前―どこかで聞いたような気がする。ちょっと待って」
彼は胸ポケットから封筒を取りだし、一枚の用紙を開いた。
「ワーオ!コレ、オナジ名前―、コレヲ書イタヒト、ヒー・イズ・ナンバーツー・イン・ジャイカ!」
彼は絶叫しながら、その用紙を妻に手渡した。見ると、それは資格証明書らしきもので、最後に息子の署名がしてある。まぎれもなく、それは息子の手書きであった。
まさか! 息子の自筆の文書がアフリカ人とともにはるばる海を渡ってこの日本の、しかも数ある都市のなかからよりによってこの名古屋にまで運ばれて来ようとは! なによりもかによりも、異国のアフリカ人が縁もゆかりもないはずのわが家の妻の眼前に、息子の書いた書類を持参してくるとはー。これを奇跡と言わずして、何と呼ぶことができよう。
妻は呆然として、わが目を疑った。次の瞬間、ソロモンの顔がぼやけたかと思うと、とつぜん息子の顔に変わった。息子が戻ってきて、目の前にいる! そんな錯覚に襲われたとき、妻の目からどっと涙が溢れた。
後日、息子にメールでそのことを伝えると、所長が不在の時には代理の彼が紹介状や証明書にサインをすることもあるという。ソロモンも、そのとき息子が署名した一人だったのだ。
偶然とは、かくも不思議なものか。もしザンビアで所長が留守でなかったなら、息子が署名することもなかったであろうし、また、もし妻の風邪が長引き、交流会に出ていなかったなら、ソロモンに出逢うこともなかったであろう。息子の署名にめぐり遇えたのは、そんな偶然の積みかさねがあったればこそと思うと、妻は涙を拭うことも忘れ、息子の側にいるひとときの幸せに浸っていたという。
(平成21年1月)